メルロ=ポンティ「身体性の現象学」追補

メルロ=ポンティ「身体性の現象学」追補

 

http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20180719(『知覚の現象学メルロ=ポンティ


 メルロ=ポンティの「身体性の現象学」について述べた時、その構造を「映写室における映写機と映像」に例えた。これは、現象学における「超越論的主観性(=「志向的意識」)」の「意味生成機能」について述べたものであるが、そこでは「超越的真実在」というようなものは想定していない。

 「伝統芸の継承」が、「超越的真実在」を指し示するものだという考えもあるようだが、「超越論的現象学」では、そのような超越的存在が「志向的意識」に対して外在(=超越存在)しているとは考えない。「伝統芸の継承」は、より広く「美(芸)の共有可能性」と「客観的価値の担保」を要請するが、それは必ずしも「超越的真実在」によって保障される必然性はない。
 

 西洋キリスト教世界では、「神=(超越的真実在)」という絶対超越者が「我々の意味世界」を吊り下げて担保する形で、それらの共有性を維持して来た。しかし日本にはそのようなものはなく、「万世一系の皇統」の継承、すなわち「天皇制」によって、それに伴う伝統文化が維持されて来た。いわば、「超越的真実在」の代行的機能を果たしてきたといえる。

 三島由紀夫などは、戦後の「民主天皇」になって、そのような「伝統継承機能」も失われたという危機感を持ち続けていた。しかし坂口安吾はまったく逆の立場で、「必要」のみが伝統を継承するとする。必要がなければ、継承されないで一向にかまわないとする。
 

 現象学に戻ると、「超越的真実在」による担保なしで、いかに「意味共有性」が保証され得るかという問題が残される。ここで、志向的意識の「間主観性」が主題化される。もともとが「間(あいだ)的存在」であり「繋ぐもの」であったわけで、「超越的真実在」などに頼る必要はない。

 これは「主体-客体」の思考では分かりづらいが、むしろ逆に「間主観性」のもとで「主-客」が分節されてくると考えればよい。「映写室(間主観的志向意識)」の中に、「映写機(ノエシス)」と「スクリーン(ノエマ)」が装置されていて、その構造の下で「主-客の物語」が映写されているということで、「映像(主-客構図)」の側からは、その映写システムは見えてこない。
 

 この問題に関して、フッサールでは、「超越論的還元」といった抽象的な概念で、「超越論的主観性(間主観性)」を見出すとされていたが、ハイデッガーになると、「実存(現実存在)」という契機から、「現存在(Da-Sein)」の本来性(=間主観性)を取り戻すというように、置き換えられる。

 安吾の「堕ちよ」とは、「実存せよ」と同じ意味であろう。伝統芸能なるものも、その「伝統」などは一旦断ち切って、「Da-Sein」に立ち戻って、その「必要(=場)」を問い直して見よ、ということではないか。
 
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 カント的な観念論では、「神」や「物そのもの」といった「超越的真実在」によって担保されないと、「現象」は根拠無きものとなり「ニヒリズム」に陥る。

 それに対してハイデッガーは、現実存在(現存在)として「私たちは、私たち自身も、私の周りの世界も、そこに存在していることを知っている」という「自明性」から出発する。「何ものかの、何ものかへの意識」という「志向的意識」だけが、当座の手がかりになる存在者(=現存在)で、それを「映写室」に例えてみたが、その「外」は無く、「志向的意識」そのものが「世界」を構成する。 

 その「特異点」として、「ノエシス(能産)」/「ノエマ(所産)」とされる「契機」が見出される。それはあくまで、ある現象の契機であり、それ自身は存在物ではない。「ノエシス=映写機」/「ノエマ=スクリーン」と例えた。ノエシスの「意味生成機能(能産性)」により、生成された「意味世界(=所産・映像)」がノエマとしてのスクリーンに映写される。

 その生成された意味世界の中で初めて、「主体-客体」という構図も誕生するのであって、映写機(ノエシス)やスクリーン(ノエマ)は、決して「主体や客体」ではないのである。
 

 主体や客体が「先験的」にあって、その間を繋ぐものとして「間的存在」があるのではなく、むしろ順序が逆で、「志向的意識」という世界が「間主観性」という性質を「既に」備えており、そのもとで「ノエシスノエマ」機構により、「主体-客体」という「意味世界(=映像・幻影)」が産出されてくる。

 普遍的な「意味共有性」というものは、伝統芸能を支える日本人といった、意味主体が生成された後のことで、すでに生成された「意味世界=映像」の中での話となる。「映写機=主体、スクリーン=客体」ではなく、「主体も客体も、意味共有制」も、「間主観性」のもとでの映写システムに生み出された、「結果」としての映像の中での「物語り」であり、「主=客」的世界観は倒錯した認識である。 

 「現存在」(=「志向的意識」=「間主観性」)は、そのような「既存の意味世界」に投げ出されてある「被投性」の下にあるから、そこから「既存の意味」を剥ぎ取らねばならない(エポケー=一旦停止・中断)。そのようにして得られた「純粋意識・超越論的主観性」に立ち返って、新たな意味の生成される現場に立ち帰ることで、その価値を捉えなおそうというのが、ハイデッガーの「解釈学」である。


 ハイデッガーは「現存在から存在へ」という主題を掲げ、その契機を「実存」に見出す。実存とは「現実存在」の略語であり、これは「本質存在」に対立する概念である。「実存は本質に先立つ」と言われるように、「本質=意味世界(映像世界)」ではなく「現実の存在様態に立ち返ること(=実存)」である。ハイデッガーは、「志向的意識=間主観性」を「世界-内-存在」と読み替えて、その存在構造を解明しようとした。
 

 このように考えてくると、《新しい形の「間主観性」や「主体」「客体」を創造する》というのは無意味になってくる。「新しい間主観性」などがあるのではなく、すでにある「間主観性」が、「主体-客体」などという迷妄の意味世界で隠されているに過ぎないのだ。

 「現象学」も、広い意味では「観念論」だ。しかし従来の観念論は、「間主観性」のもとで生成された「意味世界=主体客体世界」の幻影映像の上であれこれ考える「狭義の観念論」であり、それを批判検証し、より客観的な基盤に立とうとするものである。それがニヒリズムに見えるのは、神のような超越存在を前提にした「狭義の観念論」の立場で考えているからに過ぎない。