【月やあらぬ・・・】

【月やあらぬ・・・】

 

 伊勢物語には、挿入歌として次の歌がある。

「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして」

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 これは在原業平に擬せられた主人公が、想い続けた高貴な身分の女性と無理やり引き離されて、居なくなってしまった侘しい心を、月に託して歌ったものとされる。

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 昔から様々な情緒を、月に託して語られることが多い。中でも、満月以降、徐々に欠けていく「下弦の月」には、なかなか風流な呼び名がついている。


 15日目=十五夜・満月・望月(もちづき)

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の・・・」と藤原道長がうたったとされが、これは時の権力者のおごりが目だってスノビッシュで風情がない。満月自体が満ち足りすぎていて、むしろ恐怖感を抱かせるので、西洋では狼男が出現したりする。


 16日目=十六夜(いざよい)

日没と同時に昇る満月よりは、少し遅れて「いざよい=ためらい」がちに出てくるからだそうだが、「十六夜日記」などがあるように、古代の人はその奥ゆかしさを愛でたのかもしれない。

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 以降、17日目= 立待月(たちまちづき)、18日目=居待月(いまちづき)、19日目=寝待月(ねまちづき)と続く。それぞれ、月の出るのを、立って待つ、座って待つ、横になって待つという時間を指している。月を待つことになってるが、それを恋人を待つ気持と考えれば、そのまま和歌になる。


 20日目=更待月(ふけまちづき)

文字どおり夜更けまで待つわけだが、実際には今の午后10時ごろらしく、昔の人はきわめて早寝だったようだ。


 23日目=下弦の月(かげんのつき)

ちょうど左半分が残った月で、見え出すのはまさに深夜。上弦、下弦というのは、月の形を弓に見たてたからである。


 26日目=有明の月(ありあけのつき)

明け方になってやっと昇ってくるので、月が有りながら夜が明けるところから。いにしえの恋人たちが「後朝(きぬぎぬ)の別れ」をする時刻である。なんとなくこころ残りな気もちを抱きながら、互いの衣(きぬ)の擦れ合うカサコソという音を惜しむ(笑)

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 西洋にはこんな風流な呼び名はないだろう。せいぜい、サロメがヘソ踊りしたり狼男が叫ぶシーンぐらいか。

 

 上弦の月には、あまり呼び名が付いていない。日が暮れた瞬間に西の空に見えてきたりするから、東の空から上ってくるのをまだかなと待つ時間がないので、情緒を感じる時間の経過が無いせいかと思われる。だから荷が暮れると西の空に見えてきて、すぐに沈んでゆく三日月を、浴衣姿で眺めるとかぐらいしか話題にならない。


 そのほかに、上弦で名前がついているのが「十三夜月」。これは十五日の満月の二日前で、満月には少し足りない月だが、場合によっては満月より美しいともいわれる。秋の月見には、十三夜と十五夜と、二度見るという風習がある。一方だけだと「片見月」といって縁起がよくないとされるが、これは遊郭で月見の宴を催して、旦那衆を二度登楼させるという、商魂が作り出した風習だともいわれる。

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 樋口一葉に「十三夜」という短編がある。官吏に嫁いだお関だが、DVにあって実家に逃げ帰ったところ、メンツを重んじる父親に追い返される。いやいやながら婚家に帰る道で拾った人力車の車夫は、かつてのお関の幼馴染の録之助だった。互いに淡い恋心を抱いていた2人だったが、お関が他家に嫁がされてしまい、自暴自棄になった録之助は車夫にまで堕ちぶれていたという話だ。十五夜に少し足りない十三夜月に、一葉は古い世界に生きる女の、満ち足りなさを託したのかもしれない。