『知覚の現象学』メルロ゠ポンティ

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『知覚の現象学』メルロ゠ポンティ

《身体は、必然的に「ここ」にあるのと同様、必然的に「今」実存している。それは決して「過去」となることはできない》
 

 近代観念論の「主体-客体」という構図から脱却するために、いまだ主客未分化の「志向的意識」に着目した「現象学」が、フッサールによって展開された。その弟子のハイデッガーサルトル、メルロ゠ポンティらによって、それぞれ個性的な方向に展開されたが、なかでもメルロ゠ポンティは「身体性」に着目した。

 志向的意識といっても、そのままでは抽象的でしかなく、その位置する「場」として、メルロ゠ポンティは「身体性の延長」ということに求めた。例えば、手を伸ばして指さした、その先に相手がいる。その間をつないでいるものが「身体性による志向意識」というわけだ。その意識の下で「自と他」が分節されるに過ぎず、実在するのは「現象する意識」の方だということだ。

 この現象学的な身体性は「いま」「ここ」でしかあり得ない。過去や未来の自分などと言うのは、観念論的な主客構図のもとで「思考」された観念に過ぎない。「いま・ここ」で示されるものこそ「実存」であり、ここで実存主義とも繋がる。

 このような「志向的身体性意識」の下においては、「精神」や「肉体」も、その意識のもとでの一つの「現象」に過ぎず、それ自体、実在ではない。となれば、「肉体か精神か」という問題構成も発生しない。どちらを重視するかというのは、もはや意味をなさないということになる。
 

 《意識している自分を、それ以上の自意識で観察している自己が存在する》
 ここに見られるような、「意識している自分」を客体として「観察している自己」という主体が存在する、という考え方は「主体-客体」の観念論的構図であるが、そうすると、さらにその観察する自己(主体)を観察している「さらにもう一つの主体」が存在しなければならない。

 となると、さらに「それを観察している主体」が居るはずだとなって、「神」でも持ってこないかぎり、このような「主体の無限退行」が起きる。つまり、そのような「主体」を保証するものは何もない、というニヒリズムに陥るしかない。

 このような近代哲学の「主-客構造」の根本矛盾を回避するために、それらすべての枠組みを取りはらったところに、無規定に純粋に存在する「志向的意識」を見出し、それを基本において、逆にそちらから、これまでの「主-客」と思われていたものを捉え直そうという試みが、現象学の根本スタンスである。

 つまり「志向的意識」とは、「(自己というような)何者かの意識」(主体意識)ではなく、「(志向する)何物かへの意識」(対象意識)なのである。つまり「自己」もまた、志向された対象の一つであって、主体でも何でもない。

 したがって、誤解されやすい従来の「主体-客体」という用語は使わずに、現象学では「ノエシス(考える作用)/ノエマ(考えられたもの)」という契機として捉えなおす。「志向的意識」の両極に「ノエシス」と「ノエマ」という契機(=作用)があると考えると、何となくわかるのではないか。

 ノエシス(考える作用)の知覚作用を契機として、その対象として知覚・構築されたもの、つまり「考えられたもの」がノエマであるとされる。そのような作用の結果として認識されるものが「主体-客体」という構図であり、それは作用の「結果」でしかない。そこでは、「主体を見るもう一つの主体」という無限退行の矛盾は消失する。

 近代人の我々は、無意識の内に「主体-客体」構図の下で考えてしまいがちだ。現象学とは、それらの枠組みを一旦捨てて(フッサールはそれを「エポケー ”休止”」と呼ぶ)、意味付けられる前の世界から捉え直そうというものであって、思考スタイルの根本的な変革を必要とする。

 さらにメルロポンティは、そのような志向的意識の作動する「場」を、「身体性」として捉え直した。この身体性は、決して「自己の身体=主体」/「他人の身体=客体」というように分けられるものではなく、むしろ身体性意識の志向性のもとで、自己の身体や他人の身体といったものが分節されてくるに過ぎない。
 

 「超越的」(独:Transzendent、英:transcendent) と「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)という二つの術語は、まったく別物として区別して使われる。

 「超越論的」という用語はカントが使いだした。まず「超越的」ということでは、神のような「超越」存在は、我々のような内在的存在には不可知なものとされ、そのような超越存在は、内在的な既存意味体系から「類推」するしかなく、それは独断と偏見に満ちたものとならざるを得ない。

 そこでカントは、「理性自体の批判」を通じて、「人間の理性的認識は、どこまで可能か」「人間の理性は、経験を超えた先験的な超越的真実在と、どのように関わり得るのか」についての、境界策定を行おうとした。つまり「超越的」なものに対する関与の余地を、適正な形で策定しようとした。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」である。

 カントにとって「超越論的」とは、「如何にして我々は”超越的”なものへの認識が可能であるのかを問う」ことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。

 大雑把に言うと、「超越的」とは、外在する超越者について直接語ることであり、「超越論的」とは、あくまで内在しながら「超越者の痕跡」を吟味する立場と言えよう。

 フッサールの「現象学」では、かなり違う意味で「超越論的」という術語が使われるが、上記の範囲では共通していると思われる。

 問題は、「超越論的」に探索する方法を、如何に確保するかである。それは、カントでは「批判的方法」であり、フッサールでは「超越論的主観性に基づく超越論的還元」であった。

 その弟子たちはさらに発展させ、ハイデッガーは「世界内存在の解釈学的方法」を提示し、そして、メルロポンティは「身体性に直接問う」という方法を取ったと言える。

 なお、「志向的意識」における「ノエシス/ノエマ機構」を、「主体-客体の構図」で捉えてはならない。例えれば、ノエシスが映写機、ノエマはスクリーンに投影された映像、指向的意識は、それらを暗幕で囲った映写室全体とすれば分かりやすいかも知れない。あくまで映写室のスクリーンに「私とあなた(主ー客)」が投影されているに過ぎないのである。