自作品/『喫茶店にて』

自作品/『喫茶店にて』

 

 文学にはまっていた学生時代、吉行淳之介梶井基次郎の、無機質で透明な文体にあこがれて真似した。結局まともなものは書けなかったが、唯一「散文」としてまとまったものと思ったのが、この掌編だった。

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 『喫茶店にて』

 

 小さな喫茶店で、珈琲を飲んでいた。

 ぼくの席は店のいちばん奥にあって、まわりは薄暗い。ここからは、ちょうど入り口のところが見渡せる。入口のドアは、白く塗られた木枠ががっしりと組まれており、その枠に、厚そうな一枚ガラスがはめ込まれている。ガラスは透明で、外の往来が見える。

 先ほどからぼくは、落ちついた気分でドアの外を眺めている。幾台もの自動車が、前の往来を通り過ぎてゆく。店内の音楽でエンジンの音は聞こえず、高速度撮影の映写を見るように、無音のままゆっくりした速度で動いてゆく。

 

 一台の乗用車が店の前で止まった。少々太り気味の年配の男が降りて来る。黒っぽいダブルの背広を着ていて、重役風の男である。腹の出ているせいか、いくぶん躰を反らせて歩く。その姿勢から、自分の半生に自信を持った男、という気配が感じられる。

 男はこの喫茶店に向かって歩き、ドアの前で立ち止まり、ドアを押して入って来る。いや、そのドアが開かないのである。力を強めて押してみる。依然としてドアは動こうとしない。

 当然である。男の押した箇所は、押すべき場所の反対の側、つまりドアの支柱のある側であったのである。ぼくは、少々意地悪い気持ちになった。男が狼狽する顔をとっくり眺めてやろう、と思ったのである。

 まもなく、男は自分の失敗に気付く。そして、しかるべき場所を押して入ってくる。入った場所で、店の中を見回す。自分の失敗に気付いた者はいないだろうかと。そのとき、ぼくの視線と出くわす。男の躰の中を、狼狽がはしる。その時の男の素振りを観察してやろう。そういう風に、ぼくは想像を巡らした。

 

 ところが実際には、ぼくの方が狼狽するという事態がおこったのである。男は自分の失敗に気付くどころか、力をさらに強めていった。ほとんど、体当たりでもしかねない様子である。男の押す力とドアがそれにあらがう力とが均衡して、これ以上の力が加わればガラスが割れて店内に散乱する。そう思われた瞬間、急に男は力を抜いた。

 自分の失敗に気付いたのではなく、店に入るのを断念したわけでもない。方針を変えて、男はドアをたたき始めたのである。音楽でやかましい店内ではあるが、厚いガラスをたたく鈍い音が、手に取るように聞こえる。男の顔は、絶叫するように口をぱくぱくさせている。

 閉所恐怖症という神経症がある。閉じ込められた場所におかれると異常に恐ろしくなる、という症状を示す。そのような患者を一間四方の檻にでも閉じ込めてみたら、この男のような反応を示すのではないか。そういう異様な光景として、ぼくの目に映っている。

 なのに、店の者は一向に気付く気配がみられない。客はといえば、ぼく一人だけである。全く気付かない振りをするか、ドアをあけに行ってやるか、どちらかしかないと思った。しかし、そこへ行くには、猛獣の檻をあけるほどの勇気が必要かと思われた。

 結局、ぼくは目をそらせてしまった。その間、ほんの数秒であったと思う。視線をもどすと、男はもう店の中に入ってきていた。何事もなかったような、平然たる様子である。男の落付きはらった視線がぼくと出会ったとき、逆にぼくの方が狼狽してしまった。男のなすべきはずの狼狽が、その視線を伝ってそっくりとぼくの方へ引越ししてきた、そういったあんばいであった。

 男はまっすぐぼくの隣りの席へ来て、坐った。珈琲を注文し、ゆっくりと飲み干し、煙草を一本とりだす。それをうまそうに吸い終え、立ち上がり、硬貨を投げだし、そして出て行った。

 

 カウンターの向こうで店員が、アイスクリームを器に盛りつけている。手にしているのは、バリカンの頭を半球形のお椀ととり換えたような道具である。その道具で、ぼくの胸のあたりの肉を、こっぽりすくって持っていかれた気になった。不当なことをされたという、理不尽な気持ちである。

 店内は全く何事もなかったように、ただうるさい音楽だけが鳴っている。灰皿の上で、ぼくの吸いかけた煙草が、原形をとどめたままの姿で燃え尽きている。それだけが、時の経過を示していた。


’71.9.17