メルロ゠ポンティ『知覚の現象学』に関わる対話

メルロ゠ポンティ『知覚の現象学』に関わる対話

 

<Nobuo Sasaki>July 19, 2017  メルロ゠ポンティbotより

《身体は、必然的に「ここ」にあるのと同様、必然的に「今」実存している。それは決して「過去」となることはできない。『知覚の現象学』》

 


<Mori Masahiro>
 近代は、肉体よりも精神や知性を優位に考えて来たとはよく言われることです。「もっとシャキッとしろ」とか言って、身体性よりその精神性を重要視した。しかし、シャキッとするには肉体も重視しなければ出来ない。そんな言葉さえも下手をすると虐待だイジメだと問題視される。

 「人間は顔じゃないよ心だよ」なんて云う現代人の言葉は、持って生まれたものはどうしようもない側面はあるものの、精神が肉体を冒してしまったその延長線上にあるし、「健全な肉体に健全な魂宿れかし」と云う言葉はとんと聞かれない。真摯に肉体を鍛えれば、自然と精神も鍛えられる。

 その例で言えば、顔付きと云ったものも心と同じくらい重要なもので「人間四十にもなれば己の顔に責任を持て」とも云う。美醜の基準は時代と共に違うけれど、肉体の美醜は今や美人コンテストやボディビルコンテストでしか測られず、芸能界ですら余り問題にしなくなり、世の中はエステだ何だと言うわりには相変わらず得体の知れない心の方が大事だと錯覚している。

 しかし、心も体も一つにして命は存在しているのだから、どちらか片方に重きを置くのは間違っている。肉体より精神を優位に置くのは、偽善の始まりです。肉体を優位に置いた方が、未だ可愛げもある。
 
 ポンティの書いていることも判るような判らないような読解力ですが、肉体の復権を説いたことは正しい。現代ほど精神や知性の下に肉体が等閑にされている時代はない。

 ある人と理解し合いたいと思っていくら話し合っても解り合えないなら、最後は肉体を以って闘うしかない。それがお互いへの誠意であり人間愛ですよ。肉体をぶつけ合って闘った者同士の間に生まれる理解や親近感がそれを証明しています。それが現代では暴力事件になってしまうし、自己保身からなぁなぁになってしまう。民主主義、平和主義の重大な欠点です。

 
 この本でポンティは精神や心にも言及しているんでしょうが、上記の言葉で「決して過去となることは出来ない」と云う部分が解らない。相手の顔の印象からその人間性を推し量る「感覚派」としては、「知覚の現象学」と題したこの本は読まなくては。まぁ、佐々木さんがこの文章を引用した思いを判ってないのかも知れませんが、ポンティから受ける僕の感想はこんなところです。お粗末。

 

<Nobuo Sasaki>
 近代観念論の「主体-客体」という構図から脱却するために、いまだ主客未分化の「志向的意識」に着目した「現象学」が、フッサールによって展開された。

 弟子のハイデッガーサルトル、メルロポンティらによって、それぞれ個性的な方向に展開されたが、なかでもメルロは「身体性」に着目した。


 志向的意識といっても、そのままでは抽象的でしかなく、その位置する「場」として、メルロは「身体性の延長」ということに求めた。

 例えば、手を伸ばして指さした、その先に相手がいる。その間をつないでいるものが「身体性による志向意識」というわけだ。その意識の下で「自と他」が分節されるに過ぎず、実在するのは「現象する意識」の方だというわけだ。


 この現象学的な身体性は「いま」「ここ」でしかあり得ない。過去や未来の自分などと言うのは、観念論的な主客構図のもとで「思考」された観念に過ぎない。「いま・ここ」で示されるものこそ「実存」であり、ここで実存主義とも繋がる。

 このような「思考的身体性意識」の下においては、「精神」や「肉体」もその意識のもとでの一つの「現象」に過ぎず、それ自体、実在ではない。となれば、「肉体か精神か」という問題構成も発生しない。どちらを重視するかというのは、もはや意味をなさないということになりますね。

 

<Mori Masahiro>

 この本を読んでから、と思ったんですが、いつ読み終えるや解らず読み終えたところで理解出来る自信もない、と云うことで取り敢えず無い頭を絞って夜も寝ないで昼は寝て考えたことを。まぁ、無学の徒の戯言で退屈でしょうが、お目汚しに。


 現象学なるものはよく判りませんが、世間で言うところの「現象」とは、主体も客体もはっきりしない集合意識が或る一つの方向へ収斂されることで発生するのだとは思います。

 その志向性が拠って来る「場」として、ポンティは「身体性の延長」を規定したと、その「延長」と云うのがよく解らないけれど、それを単に「身体性」と勝手に解釈して佐々木さんの表現を借りれば、「手を伸ばして相手を指差している、そしてその向こうに相手が存在する」そう云う状況を創り出しているのは、確かに「身体性に依る意識」だと云うのも何となく判る様な気がするし、そこに二人の意思と云うものが存在するわけだから当然何らかの志向性を持っていると云うのも・・・。

 しかし、ポンティはその志向意識の中に精神、又は観念といったものの存在はどう関わっていると考えているんだろう。

 

 「身体性による志向意識」と言うのだから、その意識は分化された自己と他者を観ていると考えてはダメなんですかね。そう云う手振りと云う身体性で以てそこに志向的な意識が存在すると意識しているわけだから、意識している自分をそれ以上の自意識で観察している自己が存在する。それも現象に過ぎない? 身体性「意識」だと言っているんだから、そう思念する精神がなければならないように思うんですが。

 「肉体」が現象に過ぎないと云うのも、「過去や未来の自分」が「思考された観念に過ぎない」と云うのも年齢と共に実感しないではないけれど、実存主義と云うのは、例えば佐々木さんと僕がこう云うことを遣り取りしている、現実には屁の突っ張りにもならない話題が何故佐々木さんと僕の意識の中に生じたのかを解明しようとする哲学のように思うんですが、そしてその果てに上手く行けば「超人思想」に行き着くのかも知れないし、下手をするとポンティみたいに「身体性」を持ち出して精神性に何らかの根拠を与えようと云うことになる。

 まぁ、やはりこの本を読了してからまた機会があればお相手願いますよ。それにしても高価な本ですねぇ、最近一冊5000円もするような本を買ったことがありません。
 

 

<Nobuo Sasaki>

《意識している自分をそれ以上の自意識で観察している自己が存在する》

 

 ここに見られるような、「意識している自分」を客体として「観察している自己」という主体が存在する、という考え方は「主体-客体」の観念論的構図ですが、そうすると、さらにその自己(主体)を観察している「もう一つの主体」が存在しなければなりません。
 で、さらに「それを観察している主体」が居るはずとなって、「神」でも持ってこないかぎり「主体の無限退行」が起きます。つまり、そのような「主体」を保証するものは何もない、というニヒリズムに陥るしかないわけです。


 このような近代哲学の「主-客構造」の根本矛盾を回避するために、それらすべての枠組みを取りはらったところに、無規定に純粋に存在する「志向的意識」を見出し、それを基本において、逆にそちらから、これまでの「主-客」と思われていたものを捉え直そうという試みが、現象学の根本スタンスです。
 つまり「志向的意識」とは、「(自己というような)何者かの意識」(主体意識)ではなく、「(志向する)何物かへの意識」(対象意識)なのです。つまり「自己」もまた、指向された対象の一つであって、主体でも何でもない。


 したがって、誤解されやすい従来の「主体-客体」という用語は使わずに、「ノエシス(考える作用)/ノエマ(考えられたもの)」という契機として捉えなおします。「志向的意識」の両極に「ノエシス」と「ノエマ」という契機(=作用)があると考えると、何となくわかる。
 ノエシス(考える作用)の知覚作用を契機として、その対象として知覚・構築されたもの、つまり「考えられたもの」がノエマであるとされる。そのような作用の結果として認識されるものが「主体-客体」という構図であり、それは作用の「結果」でしかない。そこでは、「主体を見るもう一つの主体」という無限退行の矛盾は消失します。

 


 近代人の我々は、無意識の内に「主体-客体」構図の下で考えてしまいがちです。現象学とは、それらの枠組みを一旦捨てて(フッサールはそれを「エポケー ”休止”」と呼ぶ)、意味付けられる前の世界から捉え直そうというものであって、思考スタイルの根本的な変革を必要とします。
 さらにメルロポンティは、そのような志向的意識の作動する「場」を、「身体性」として捉え直した。この身体性は、決して「自己の身体=主体」/「他人の身体=客体」と言った単純なものではないという、さらに厄介な話が関わってきますが、それはまた別の機会にて。

 


<Nobuo Sasaki>

 ちなみに、私は「知覚の現象学」は読んでおりません。というか、ほとんどの原典は読んでおらず、断片知識の寄せ集めで適当に語っています。唯一、読んだと言えるのは「存在と時間ハイデッガー)」ぐらいですか。
 

 

<Mori Masahiro>

 つらつら考えてみたところで、不勉強では理解出来る筈もないのですが、せっかくだからせめて微かな明かりくらいは見たいもんです。

 そこで、現象学に言うところの「超越的な主観」の、その「超越」と云う言葉には超越的存在、即ち神と云う意識は含まれているんでしょうか。それともこの「超越」と云う言葉自体が「主体客体」と云う言葉同様に現象学では一般的な意味ではないのかな? その一般的思考からすれば、神を想定しない「超越的意識」なるものは、哲学と云う学問の中の命題に過ぎない、そんな風にも思えるんですが。


 確かに一般的な「主体ー客体」と云う言葉ではどうも行き詰まってしまう。意識している自分を意識する自分、そしてそれを意識する自分・・・と云う際限の無いことになってしまう。

 そこでそのメビウスの連環を断ち切って「思考スタイルの根本的な変革」を果たし「純粋に存在する志向的意識」や「志向する何物かへの意識」を知覚し、その中では自己などと云うものも単なる「指向された対象」に過ぎず「主体でも何でもない」と悟るためには、人の意識を離れたところに「ノエシス」と意識自体が一つの自主性を持って存在すると仮定し、その対象としての「ノエマ」を想定し、両者の間に何らかの力学的な「作用」が発生すると想像する。そう云うことでいいんですかね。

 

 しかし、その「何ものかへの志向意識」や「考える作用」や「考えられたもの」の存在エネルギーと云うか原初の力と云うか、は何処に帰属すると考えればいいのか。 そう考えるとやはり一般的思考回路では、そこに「神」的な存在を持ち出さなければ辻褄が合わない。

 いつか投稿されていたやはりポンティの「世界の散文」の中の「私と他人を同一化」するに似た超越的、強いて言えば神的な意識と云うものを持ち出しその万人を貫く意識を設定しなければ、人はニヒリズムを突き抜けることが出来ずデカダンスに陥ってしまう。

 ポンティの言うそう云う意識の拠ってくる場としての「身体性」は、自己や他人の単なる身体ではないとなれば、ますますそこに「神的な意思」「神としての身体性」と云ったものを持ち出さなければ、とも思うんですが、まぁ、現象論に限らず哲学自体をもっと勉強する必要があるんでしょう。 この歳でこのアタマで出来るかなぁ。
 

 

<Nobuo Sasaki>

 まず、「超越的」(独:Transzendent、英:transcendent) と「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)いう二つの術語が、区別して使われます。
 「超越論的」という用語はカントが使いだした。まず「超越的」ということでは、神のような「超越」存在は、我々のような内在的存在には不可知なものとされ、そのような超越存在は、内在的な既存意味体系から「類推」するしかなく、それは独断と偏見に満ちたものとならざるを得ない。


 そこでカントは、「理性自体の批判」を通じて、「人間の理性的認識は、どこまで可能か」「人間の理性は、経験を超えた先験的な超越的真実在と、どのように関わり得るのか」についての、境界策定を行おうとした。つまり「超越的」なものに対する関与の余地を、適正な形で策定しようとした。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」である。
 カントにとって「超越論的」とは、「如何にして我々は”超越的”なものへの認識が可能であるのかを問う」ことであり、「超越論哲学」はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。


 大雑把に言うと、「超越的」とは、外在する超越者について直接語ることであり、「超越論的」とは、あくまで内在しながら「超越者の痕跡」を吟味する立場と言えよう。

 


 フッサールの「現象学」では、かなり違う意味で「超越論的」という使われるが、上記の範囲では共通していると思われる。
 問題は、「超越論的」に探索する方法を、如何に確保するかである。それは、カントでは「批判的方法」であり、フッサールでは「超越論的主観性に基づく超越論的還元」を言い、ハイデッガーは、「世界内存在の解釈学的方法」を提示した。そして、メルロポンティは「身体性に直接問う」という方法を取ったと言える。


 なお、「志向的意識」における「ノエシスノエマ機構」を、「主体-客体の構図」で捉えてはならない。例えれば、ノエシスが映写機、ノエマはスクリーンに投影された映像、指向的意識は、それらを暗幕で囲った映写室全体とすれば分かりやすいか。