マインドフルネスについての応答02

2014/09/22「子育て幻想、幸せ感の平均値と瞬間瞬間の幸せ感と」
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>>Sasaki,Nobuo
September 28, 2014 - 1:27 am | Permalink
 このグラフはおもしろいですね。思わず、私ぐらいの年齢の日本人で、仕事人間として子育ては妻まかせ、サラリーマンを定年まで続けた男性のグラフを想定しました。その想像される単純さから、このグラフに重ねると皮肉な結果が出そうで笑ってしまった。

 それはさておき、思春期・青年期の振幅は分るとして、子育て期にも大きく振れるのは盲点でした。青年期といえば、大人の仲間入りをして、本格的に「他者」と向かい合うことになる時期。ことに恋愛などは、異性(でなくても良いが)という最も身近な他者経験の場でもあります。いささか無理があるでしょうが、子育て期の子供というのも、母親にとって「最も身近な他者」とは言えないでしょうか。

 「最も身近な他者」という語義矛盾とも思える状況こそ、まさに「幸せ感の振れ幅」を大きくするものではないかと思います。家族という枠組みの中では他者でも他人でもないわけですが、それが一対一で母親と子供が向かい合うとき、そこでは他者としての顔をもちます。なんといっても、子供の重要な仕事の一つは、そういう親から独り立ちして、他者として独立していくことでしょう。その過程での苛立ちが、反抗期として表れるんじゃないでしょうか。親にしても、独り立ちさせるのが目的であっても、一方でそうさせたくないというアンビバレントな情況があるはずです。

 子供は親に対して、一方で甘えるかと思えば、反発したりするでしょう。他方で、親がついうっかりしてしまいそうなのが、子供をダブルバインドにするような言動でしょうか。独り立ちさせようと、自分ひとりでやりなさいと突き放しながら、あれやこれや心配して構いすぎるような状況とかですね。このような「最も身近な他者」と日々直面していれば、それこそ幸福感の振幅が極大するのも無理はないと思われます。

 前に触れたと思いますが、今、さる学者さんの日記をデジタル化する作業をしてます。その人の訳書に、マイスター・エックハルト『神の慰めの書』というのがあるのですが、その中に次のような一節があります。

「神は在(いま)す。神は私よりも私に近く在す」

 この「神」と「私」の位置関係はどうなってるんでしょうか、分らないですね(笑) この「神」の代りに先ほどの「他者」である、恋愛の相手であったり子育て中の子供を入れてみればどうなるでしょうか。これが私のイメージする「最も身近な他者」との関係構造です。目の前で勝手な振る舞いをして迷惑者なのに、「私より大事」な恋人であったり子供であったり、と。

 とまあ、勝手な想像をしてました。冒頭に述べた男性モデルでは、このような他者との遭遇をまったく無しに定年まで過ごしてしまう状況を想定しました。シンプルそのままで定年まで過ごしてしまい、気が付いたら何も残ってなかったというモデルを思い浮かべて苦笑してました。それに比して、女性の人生は見事に分節されている、という言葉をそのまま現したグラフだと思いましたです。でわまた。
 

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>>長岡真意子
September 30, 2014 - 2:47 am | Permalink
佐々木さん、コメントありがとうございます!

「最も身近な他者」との体験が、ダイナミックな幸福感の振れ幅に関係しているというの、なるほど!です。思春期は「性」を意識することで、またそれまで自分との境界が曖昧でもあった親をより「他者」として意識することで、「最も身近な他者」との葛藤が激しくなる時期。

そして親となり体験する、子供との関係。「自分の一部のようであり、自分とは全く違う存在」と、日々四六時中密に過ごす子育て期。

「過干渉」と「ほったらかし」の間を行き来しながら、何とかちょうどいい着地点はないものかと模索し。自立独立をゴールに据えながらも、「自分の一部」のような錯覚から、ついつい自分の枠内に囲ったままにしておきたいと動いていたり。子育てはまさしく「アンビバレントな情況」の中での試行錯誤です。

マイスター・エックハルト氏の、「私より私に近い存在」と「神」について表した言葉を、思春期の恋愛対象や、子供に置き換えてみる。すると、なぜこうも幸福感がアップダウンするのかと、見えてくるようでもあるというの、とてもストンと納得しました。

「自分自身より大事な存在が、目の前で迷惑なこともしてくれる」、まさしく! そこに深く自身の存在がえぐられるような落ち込みも体験し、同時に、自身を超え大切に感じるものがあるという深い部分での喜びも味わうことになる。

「自分自身より大事な存在」、恋愛対象や子供の先に、神学者エックハルト氏の言う「神」といった超越した存在があるなら、「救い」ですね。そうならば、そこに行き着く前で、アップダウンのジェットコースターに乗っている毎日も、ぎゃーと叫びながらも、楽しんでいる自身を見出せるのかもしれません。

この「子育て期を体験せず定年までサラリーマンの父親」というの、年月と共に変化してきていますね。こちら米国でも、父親が子供と過ごす平均時間は、1965年では一週間に2.6時間だったのに対し、2000年には6.5時間に、専業主夫(stay-at-home father)も十年前に比べると三倍に増えているなんていうデータなどあります(少し前にまとめたものを見返してました)。七十年代には、「オムツなど替えたことがない」という男性がほとんどだったのに対し、今では「オムツを替えたことがない」というのは恥ずかしいという認識が、父親の間にあるとか。

私自身、父と共に家族で団欒といった思い出は、本当に少ししかありません。それでも成人して随分してから、「直接的に育児に関わらずともどれほど家族のことを思っていたか」というような言葉を父から聞き、はっとさせられたことがあります。密に過ごすということはなかったものの、「自分自身より大事な存在」、そこに確かに「会社」や「組織」の他に、「家族」というものがあった、ただ表され方が違ったんだなと。

これからは、ますますパートナー共に子育て期のアップダウンを体験するカップルが増えていくのでしょうね。母より父のみでということもあるのでしょう。

佐々木さんのコメントに、子育ての日常の中で、また違った角度から様々眺める機会をいただいています。ありがとうございます。こちらも月曜日始まりました。当たり一面黄金色。まぶしーです。どうぞよき日々をお過ごしください!
 

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>>Sasaki,Nobuo
September 30, 2014 - 5:10 am | Permalink
コメントへのお返事を見て、これまでの話題との関連を考えてみました。畢竟「最も身近な他者」との葛藤というのは、前回の話題にてらすと、小我と大我との間を行き来する体験に相当するのではないかと思いました。
 

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>>長岡真意子
October 1, 2014 - 2:04 am | Permalink
他者との葛藤を通し、自分の枠を超え、より大きな自分を見出していく、そう志向していけたら。葛藤の中で、とてつもなく小さな自分、エゴにまみれた自分と付き合いつつ。そんなことを思います。ありがとうございます。佐々木さん、どうぞ今日も良い日をお過ごしください!