【異空間伝説08「二次元空間」】

 

<鏡の中>
 この章の最後でとりあげるのが「平面の世界」である。なかでも鏡は、古来より神秘的なものとして崇められてきた。写真や映画のなかった時代には、そっくり自分の姿かたちを写すものはおそらく鏡しかなかったであろう。自分と同じ姿が映るのは考えてみれば不思議なことである。そして、自分の分身がすぐそばの鏡の中にいるというのは、不気味でもある。
 


『真夜中の鏡の中の世界』
《 【鏡】の話です。「真夜中の12時に鏡を覗くと、○○が見える・・・」というパターンの噂話です。わたしが知っているのは、以下の3つです。いずれも小学校で聞いた噂だったと記憶しています。鏡を覗く時の条件は、「灯りを消す」または「蝋燭の光で見る」です。
 1)「真夜中の12時に鏡を覗くと、『未来の自分の姿』が見える」
 2)「     〃        『霊(幽霊・もしくは自分の守護霊)が見える」
 3)「     〃        『自分の頭に角(ツノ)が生えている』のが見える」

 あと、「真夜中の12時に鏡を両手に持って合わせ鏡にしていると、片方の鏡面からもう一方の鏡面に向かって小人(もしくは小鬼)が走ってゆくのを見ることができる」というのも聞いたことがあります。》
 

 鏡の向こうには、もうひとつ別の世界がある。そして、その二つの世界は鏡によって仕切られている。この話では、鏡のもつ境界性がキーワードではないかと考えられる。深夜の12時というのも、日にちが変わる時間上の境界である。そのような「境界」を通すことによって、未来の自分が見えたり日常では目につかない霊や角が見えたりする。

 そして、そのような別々の空間を自由に行き来する特殊な存在として、ここでは「小人(小鬼)」がいる。日常世界と異空間の境界にあわられるものというと妖怪などが思い浮かべられるが、ここでは小人がそのような妖怪の位置にあるといえよう。
 

『合わせ鏡の無限世界』
《 「合わせ鏡」はある程度大きな鏡でやれば、鏡の中の世界に向かって無限に映像が繰り返されてゆく感じになりますからなかなか神秘的(不気味?)ですね。私が某オカルト雑誌で読んだ読者手記はこんな話でした。

 「『夜中12時に合わせ鏡をすると悪魔が見える』という話を聞いた僕は、それを試してみることにした。蝋燭を灯して12時に合わせ鏡をすると、不気味な男が映り、僕は気を失った。それから見る鏡すべてにその男が映るようになり、時々笑い声さえ聞こえる」》

 合わせ鏡ともなると、二つの世界がさらに複合されて無限世界が現出する。有限存在である人間にとっては、無限な世界とはなにやら不安をひきおこすものであろう。そのような不安が、悪魔や不気味な男をひきよせてもおかしくはない。
 

 このような「そっくり同じ二つの世界」という想像は、鏡などから触発されて古来からあったようである。

黄帝が鏡に閉じこめた世界』
《 中国の黄帝にまつわる逸話で、ある日、黄帝が軍隊を連れて道を歩いていたら、向こうから、黄帝そっくりの一行が近づいてきた。黄帝が「お前達は何者だ」と問うと、相手は「われこそが本物の黄帝である」と答えます。そこでお互いが、自分達のほうこそが本物だと言い張って譲らず、とうとうそこで戦いが始まってしまいました。
 最後に黄帝は、この正体不明の軍隊を打ち負かし、鏡の中の世界に閉じこめてしまいます。以後彼らは、こちら側(わたし達の世界)の人間の、一挙一動を真似なければならなくなった・・・というお話を、何かの本で読んだ覚えがあります。(渋澤龍彦さんの本だったかな(^_^?)》
 

 そっくり同じ世界の住人どうしは、かならずしも親和性をもっているとはいえない。この話のように、両者が出くわすとなんらかの闘争がおこる。お互いにとって相手は自分のアイデンティティを侵略する存在なのであるから、これはむしろ当然のことかもしれない。そして、いずれかが他方を拘束し支配していないと、それこそそれぞれが別個の行動をする不条理の世界となってしまう。こうやって、世界の一元性を回復するためには黄帝のような霊力をもった存在が要請される。

 日常のわれわれは、自分の存在が自立的であり鏡はそれを忠実に映しているだけだと思っている。しかし、鏡像に映る世界のほうが自立的であり、われわれの日常世界はそれを模倣しているだけだとしたら……。黄帝のような霊力がないわれわれ凡人は、鏡像の分身に支配され拘束されている可能性も考えられるではないか。
 

 鏡ではないが、模写された自分が現実の自分を規定するという主題は、オスカー・ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像画』などにも描き出されている。そのような分身といえば、影法師もよく似た役割をする。

『写真と影の世界』
《 それに、自分の分身にまつわる怪異としては影に関するものも古くからありますね。「影が薄くなる、影の一部が映らなくなると死期が近い」という俗信(最近では「手、足が写真に写ってないと事故にあう」なんていう心霊写真の解説もありますね)、影と話しているうちに主客が入れ替わる小説「影法師」、「三歩下がって師の影踏まず」、etc.自分の分身(ドッペルゲンゲル)を見たという体験談も今だに雑誌などでよく見ます。》
 

 今回の投稿には出てこなかったが、この引用にあるように「心霊写真」なども現代における分身の恐怖と不安を反映したものといえるであろう。古来からの鏡像世界への不安が、現代伝説に転化すると次のような恐怖の物語ともなる。

『鏡に閉じ込められて』
《 鏡の怪談と言えば、こんなのもあります。
 「1989年5月17日、フランスのダル夫妻が夕食に出かける準備をしていた。妻カトリーヌが化粧や着替えをするのを夫ジョージが待っていると、突然妻の悲鳴が聞こえた。駆け付けてみると、妻が鏡の中から恐怖に顔をひきつらせて、もがいており、警官も来たがなす術もなく、やがて妻の姿は見えなくなってしまった。
 超心理学者カレイ博士によると、同様の例はフランスで17世紀に2件起こっている」#南部正人「事実は不思議よりも奇なり」(学研)
 ちなみに、この事件の発生地とされるのがオルレアン!。》


 この説話では、あきらかに鏡の中の世界がはっきりと密室性をもって登場してくる。だれの声も届かない密室に閉じこめられてしまう恐怖、それは現代人の心の奥にひそむ不安であり、現代伝説の大きな主題となるであろう。
 


<ブラウン管の向こう>
 鏡以外に、われわれにもっとも身近にある平面画像の世界というとテレビであろう。閉じられた屋内とまったく別世界とを、目に見えない電波がつないでいる。テレビのブラウン管は、まさに茶の間と異界をつなぐ境界にある平面なのである。その異界から、ときたま得体の知れないメッセージが送られてくる。
 

『ブラウン管の中の怪』
《 これも小生が小学生の頃聞いた話なのですが、TVの空きチャンネル(当地では2とか5、7、9、11など)を見続けていると、ザーという映像が突然消えて、番組表には載っていない番組が始まる、という話が広まりました。エッチな映像ではないか、などと言う訳知り顔のマセたクラスメイトもおりましたが、ニュースだったという話も伝わって、夜中ずっと砂の嵐の中の怪映像を探し続けたことがありました。結局は、その映像を見ることもなく、眠ってしまったのですが。》
 

 最後にもうひとつテレビ世界の話題。

『ドラエモンの最終回?』
《 先日TVで「サザエさんの最終回の噂」なるものをやっていたそうですが、私は、「ドラエモンの最終回の噂」が出回った、と聞いた事があります。2年前、広島の知人からなのですが、その時聞いた2つの最終回のパターンのうち、(1つは忘れてしまった)覚えている方を紹介しますと…


 ある朝、のび太が目を覚ますと、そこは病院で、お母さんが心配そうに覗き込んでいる。「のび太ちゃん、あなたは交通事故で、ずーっと意識不明だったのよ」「お母さん、ドラエモンは?」「一体何を言ってるの?」「じゃあ、あれはみんな夢だったのかぁ…」 場面がかわってのび太の部屋、ボロボロになった人形(ドラエモン型)が部屋の隅に転がっている。 …というものです。
広島の小学生の間で、当時、流行っている、と聞きました。》
 

 話題の素材が「どらえもん」というのも興味深い。異次元の世界とこちらの世界を自由に行き来するどらえもんは、異界との往来ができる現代の妖怪とも想定することができる。現代っ子にも受け入れられるように修正された、愛敬のある妖怪であろう。

 番組の最終回というのも、ある意味では境界を画する隠喩ととらえることができる。そして、最終回ではのび太の夢の世界の出来事となって彼は現世だけの世界に連れ戻される。やはり現代社会では、どらえもんのようなコーディネイトされた妖怪でさえ存在しづらいのかもしれない。

 ブラウン管・最終回・どらえもん・夢という、4つもの異界と日常性をつなぐ媒介が重ね合わされているところがおもしろい。それらの媒介の「むこう」と「こちら」で、はたしていずれがリアリティをもつ世界であろうか。
 

 伝統世界で妖怪や異者により表象された異界は、明瞭に「内」と「外」が区分できる場所であり、それを排除することにより「内」の世界はより確固たる世界になる。異界の住人たる妖怪どもは、いったん内に招き入れられあらためて排除されるためのトリックスターでもあろう。共同体内部を活性化し、より強固に維持するための儀式のために異人たちは活用される。

 しかし、そのように活性化し維持すべき共同体がもはや失われているとすれば……。そのような状況で、内と外はつねに反転する危機をはらんだあやうい世界となってしまう。ブラウン管のこちらとあちら、どらえもんの物語とわれわれの日常生活と、はたしていずれに現実性があるかはもはや明瞭には画定しがたい。われわれの現代都市空間は、いくつもある異空間の相対的なひとつであるにすぎなくなっているかもしれないのである。
 

*『現代伝説考(全)』はこちらから読めます
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm