『Get Back! 90’s / 1996年(h8)』

『Get Back! 90’s / 1996年(h8)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

閉塞感 援助交際 ルーズソックス メークドラマ

 

橋本龍太郎内閣)

*1996.1.11/h8 村山首相辞任 橋本龍太郎内閣発足

*1996.10.20/h8 第41回衆院選 自民議席増 単独内閣に

 

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 1994(h6)年6月、羽田内閣が少数与党内閣となって総辞職した後、政権復帰を目指した自民党は、かつての宿敵社会党村山富市委員長を総理に立てることで、連立与党に返り咲いた。しかし村山内閣は、阪神・淡路大震災オウム真理教事件という想定外の大事件に遭遇、脆弱な政権基盤のもとでの対応で疲弊し、1996年1月5日、突然首相退陣を表明した。

 村山富市首相の辞任に伴い、自社さ連立の枠組みはそのままで、自民党総裁橋本龍太郎首班指名され第1次橋本内閣が発足した。橋本内閣は、実力者梶山静六内閣官房長官に据え、施政方針演説では改革の必要性を強調、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

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 1996(h8)年10月の衆議院議員総選挙で、自民党議席を伸ばし、社会民主党新党さきがけ議席を減らしたため2党は閣外協力に回り、自民党単独政権として、第2次橋本内閣が発足する。バブル崩壊から政権の混乱も続き、もはや社会体制の抜本的改革は必至となっており、橋本は「行財政改革」を最優先として、首相直属の「行政改革会議」を設置した。

   同年12月17日、ペルーのリマで「日本大使公邸人質事件」が起こると、当時のペルーのフジモリ大統領と協調し、日本人犠牲者を出すことなく解決にこぎつけ、沖縄のアメリカ軍軍用地収用に関して「駐留軍用地特措法」を成立させるなど、直面する問題に対処した。

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 一方で、米国での講演で、大量保有する米国債の売却に言及して、米国証券市場を混乱させたり、1997(h8)年9月の内閣改造で、ロッキード事件で有罪の佐藤孝行議員を総務庁長官として入閣させ、批判を浴びて支持率を急落させるなど失点も多くあった。

 1997(h9)年4月、村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げ(5%)を橋本内閣で実施、景気の低迷を招いていたが、同年11月に「財政構造改革法」を成立させ、赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。

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 しかし同月、北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こり、橋本内閣の金融システム改革に批判が巻き起こると、2兆円の特別減税を実施、1998年4月には、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。そして同年5月、自民党衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消した。

 そして1998(h10)年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化や、閣僚の発言の迷走などで、自民党は惨敗する。経済・政治の時局の読み誤りが致命的で、橋本首相は「すべてひっくるめて責任は私にある」と述べて、1998(h10)年7月30日総辞職する。

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 結局のところ、消費税等の税率引き上げが、日本経済を長期デフレーション(平成不況・失われた20年)に突入させたとされ、後日、橋本龍太郎自身、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを悔やんでいる。

  首相退任後、小渕恵三森喜朗内閣と続くなかで、橋本の存在感は薄かったが、森に請われて沖縄開発庁長官および行政改革担当大臣を兼務し、省庁再編を担当して評価を高め、森の後継に浮上した。そして2001(h13)年4月の総裁選に優勢を予想され出馬するも、「自民党をぶっ壊す」とのワンフレーズで「小泉フィーバー」を巻き起こした小泉純一郎に敗れた。

 

 

アトランタオリンピック

*1996.7.19/h8 アトランタオリンピック開幕

柔道で3つの金メダル。女子マラソン有森裕子が銅メダル。前回バルセロナ大会(銀メダル)と2大会連続のメダル獲得となった。レース後のインタビューで「メダルの色は銅かもしれないけど、終わってからなんでもっと頑張れなかったのかと思うレースにしたくなかった。今回はそう思っていないし、初めて自分で自分をほめたい」と涙ながらに話し感動を呼んだ。金3、銀6、銅5、計14個。

 

MLB野茂英雄 ノーヒットノーラン

*1996.9.17/h8 野茂英雄 日本人初の大リーグでノーヒットノーラン

 力のあるストレートと得意のフォークボールロッキーズ打線を抑える。4つのフォアボールを出したがロッキーズ打線をノーヒットに抑えた。試合後、「これからも1試合1試合できる限り勝っていきたい」といつものように淡々とした表情で話した。

 

(ペルー 日本大使公邸人質事件)

*1996.12.17/h8 ペルー 日本大使公邸人質事件

ペルーの日本大使公邸で天皇誕生日のパーティーが行われている最中に武装グループが刑務所に収監されている仲間の釈放を求めて占拠、600人余が人質になる。人質は順次解放され最終的には72人に。発生から127日目の翌年4月22日強行突入。人質のうちペルー最高裁判事が死亡したが日本人24人を含む71人は救出された。

 

 

(この年の出来事)

*1996.1.19/h8 社会党が「社会民主党」に党名変更

*1996.2.16/h8 菅直人厚相「薬害エイズ問題」で国の法的責任認め謝罪

*1996.5.19/h8 水俣病未認定患者の救済問題 全国連とチッソが和解協定調印

*1996.5.31/h8 2002年サッカーW杯 日韓共催決まる

*1996.7.21/h8 サッカー五輪代表「マイアミの奇跡

*1996.9.28/h8 「民主党」結成(菅直人鳩山由紀夫代表)

*1996.12.5/h8 「原爆ドーム」と「厳島神社世界文化遺産登録決定

 

『Get Back! 90’s / 1995年(h7)』

『Get Back! 90’s / 1995年(h7)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

無党派安全神話 マインドコントロール NOMO 「LOVE LOVE LOVE」

 

阪神・淡路大震災

*1995.1.17/h7 阪神・淡路大震災

 

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 1995(h7)年1月17日未明の5時46分、兵庫県淡路島北部沖を震源として、マグニチュード7.3の地震が発生し、近畿圏の広域に甚大な被害をもたらした。特に震源に近い神戸市市街地(東灘区・長田区など)の被害は大きく、日本の近代的な100万都市を襲った大災害は、世界中に衝撃を与えた。

 地震は「兵庫県南部地震」と名付けられたが、当地震によって引き起こされた災害(震災)全体を指す名称は「阪神・淡路大震災」と命名された。地震震源は「六甲・淡路島断層帯」の一部「野島断層」付近で、都市部の直下で起こった活断層の活動によるものとされる。

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 この大地震では兵庫県南部を中心に大きな被害を出し、死者は発生当時戦後最多となる6,434人、689,776棟の建物が被害を受け、被害総額は約10兆円に達した。これは、2011年の東日本大震災が起こるまでは、戦後最大の被害であった。

 道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインが、広範囲において壊滅的損傷を受け、これ以降、都市型災害および地震対策で、根本的見直しが要請されるに至った。また、1981(s56)年には大幅な建築基準法の改正が行われたにもかかわらず、それ以降に建てられたビルなどでも倒壊が見られた。

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 戦前の関東大震災では、木造住宅が密集での火災が被害を大きくしたため、おもに焼死により約10万人の死者を出した。一方、当震災より後年に起こった東日本大震災では、津波による水死で1万5千人を超える戦後最悪の死者を出した。これらと比べ阪神・淡路大震災では、活断層の都市直下型地震であり相対的に被災地域は狭かったものの、家屋倒壊による圧死で6千人を超える死者を出した。

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 20代が30代よりも200人近く多く死者を出した点で、年齢階層ごとに死者数が増える東日本大震災と異なった様相を呈している。20代が多かった理由は、大学が多い神戸市灘区や東灘区などで、文化住宅や木造アパートなどに住んでいた学生が多く、倒壊した家屋の下敷きになったケースが多かった。31大学111人が死亡し、特に、神戸大学では学生39人、教職員2人の大学関係最多の死者を出した。

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 実は当方も、その25年前に神戸市の灘区や東灘区に下宿した経験があり、自宅通学以外の同級生なども、安いボロアパートや木造の下宿屋に住まっていたので、これには頷けるところがある。地震から一か月後ぐらいに、知人のジャーナリストの取材に同行して、JR線でかつて下宿していた摂津本山駅を通過したが、その駅前の下宿屋もペシャンコになっていた。

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 そのまま、被害の大きかった長田区まで行ったが、靴の下町工場などではいまだ合成皮革がくすぶり、焼け焦げた臭いがただよっていた。倒れた家屋の端では、折れた水道管からポタポタと水が流れ出ていた。倒壊した阪神高速道路の映像などが何度もテレビで放映されていたが、地震後一か月以上後に足を踏み入れた被災地の現状からは、それ以上の衝撃を受けた。

 

 

オウム真理教事件

*1995.2.28/h7 オウム真理教 公証役場事務長監禁致死事件

*1995.3.20/h7 オウム真理教 地下鉄サリン事件 13人死亡 約6300人被害

*1995.3.22/h7 警視庁などがオウム真理教の施設を強制捜査

*1995.3.30/h7 警察庁長官 自宅前で狙撃され大けが

*1995.4.23/h7 オウム真理教の村井秀夫幹部 東京青山の総本部前で刺殺される

*1995.5.5/h7 オウム真理教 新宿駅青酸ガス事件

*1995.5.16/h7 オウム真理教 麻原彰晃 本名松本智津夫元死刑囚 逮捕

*1995.5.16/h7 オウム真理教 東京都庁郵便物爆弾事件

*1995.9.6./h7 オウム真理教 坂本弁護士と妻の遺体発見

 

 1995(h7)年3月20日午前8時ごろ、東京都内の営団地下鉄(現 東京メトロ丸ノ内線日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、猛毒の神経ガス サリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、数千人がが負傷する大事件が発生した。

 3月20日は月曜日で、平日朝のラッシュアワーのピーク時を狙って犯行は行われた。現場の各地下鉄車両内は、突然、凄惨な修羅場と化し、地上では地下鉄駅構内から運び出された多数の被害者がもがき苦しんでいた。

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 それまでにも、 麻原彰晃を教祖とするオウム真理教はいくつもの凶悪事件を起こしていたが、決定的な証拠がなく強制捜査の決定には至らなかった。オウムの起こした事件の中でも、「坂本弁護士一家殺害事件(1989.11)」や「松本サリン事件(1994.6)」は、「地下鉄サリン事件(1995.3)」と並んでオウム3大事件とされる。

 松本サリン事件直後には、オウムの犯行という噂がながれ、1995(h7)年1月には上九一色村のオウムのサティアン周辺でサリン残留物が検出されたと報道され、オウムへのサリン疑惑が表面化する。強制捜査の危機を感じていたオウムだが、1月17日に突然阪神淡路大震災が起こったため、麻原は強制捜査が立ち消えたと考え、2月28日、東京都内で「公証人役場事務長監禁致死事件」を起こす。

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 この事件で教団信者松本剛の指紋が発見され、ようやく警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決定した。しかし教団はそれを察し、警察より早く動き、強制捜査を遅らせるため1995年3月20日地下鉄サリン事件を決行した。

  事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現 富士河口湖町)を中心に教団本部施設への一斉捜索が行なわれ、サリンプラント等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備といったテロのための設備などが発見され、オウム真理教の異様な実態が明らかになった。

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 以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕されていくなか、上祐史浩らがテレビに出演して釈明を続け、一方でNo2の村井秀夫は捜査撹乱を意図し、逃走した幹部の井上嘉浩、中川智正らのグループに命じて「新宿駅青酸ガス事件」、「都庁爆弾事件」などを起こさせた。その村井秀夫自身は、東京南青山総本部前で、報道陣のカメラが撮影するなかで刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。

 教団の幹部クラスが次々と逮捕され、その中のサリン散布実行犯で、医師資格を持つ幹部林郁夫が自供を始め、それをきっかけに、1995(h7)年5月16日に再度、上九一色村の教団施設の捜索が開始された。そして第6サティアン内の隠し部屋で、多額の逃走資金と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が、事件の首謀者として逮捕された。

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 その後も、教団幹部や事件関係被疑者の逮捕が続き、地下鉄サリン事件以降484人の信者が逮捕され、1998年までに189人が起訴された。裁判で麻原は、意味不明のことをつぶやいたり、やがて意思疎通不可能と判断される状態となり、何一つ具体的な証言をしなかった。

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 異例づくめの長期裁判となったオウム関連裁判は、やっとのことで2011(h23)年12月に終結し、13人への死刑判決・5人への無期懲役判決が確定した。2012年6月、特別指名手配されていた最後の逃亡犯高橋克也が逮捕され、確定死刑囚の死刑執行の環境が整い、2018(h30)年7月に、事件に関与した麻原をはじめとする死刑囚たちの死刑が執行された。

 

 

マイクロソフト「ウインドウズ95」発売)

*1995.11.23/h7 マイクロソフト「ウインドウズ95」日本語版発売

 

 1995(h7)年11月23日午前0時、秋葉原では日付の変わる深夜に発売を開始し、パソコンファンが殺到、さらに業界関係者や報道陣も加わり、パソコンソフトウェアの発売としてはまれな大騒ぎが展開され、発売4日で400万本を売ったと言われる。

 それまで一部のマニアックだけが使えたパソコンやインターネットが、Windows 95によって、一挙に一般人の手の届くところに近づけられたという意味では、まさしく画期的な製品であったと言える。

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 では、Windows 95の一体どこが革新的だったのか? とにかく羅列すると、GUIの刷新によるカラフルな画面、LAN・WANなどのネットワーク機能の充実、Win32 APIによる高速な32ビットコードによるプログラム処理、32ビットI/O機能による高速なファイル処理、ファイルシステムFATの拡張により長大ファイル名が利用可能、プラグアンドプレイによる周辺機器増設の容易化、などとなる。

 このように書かれても分かりづらいだろうが、つまるところ、そんなことを気に掛けなくても、リアルでカラフルなディスプレーを眺めて、マウスとキーボードでちゃちゃっと操れるイメージになったわけである。そして、誰もが簡単にインターネットを活用できる環境が整った。

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 コンピュータの画面上に、ウィンドウ、アイコン、ボタンといったグラフィックが表示され、ユーザはそれらの中から目的の動作を表すグラフィックスをマウスで選択するという仕組みは、総称してGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェイス)と呼ばれる。

 Windows95では、それらのアイテムをディスクトップ上に展開するGUIを売り物として、それまでのMS-DOSの世界を一新したが、実はこのようなGUIを本格装備したのは、ジョブズのアップル社が1984年1月に発売した”Macintosh”だった。

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 しかし、一般向けPCとしては高額であり、対応ソフトの不足などでMacintoshの販売は停滞し、創業者で開発担当者であったジョブズが会社を去ることになるなど、アップルは長い業績低迷期をむかえる。

 その間に、ビル・ゲイツマイクロソフト社はWindows95を大々的に発売し、Windowsを搭載しさえすれば、パソコン機種に関わらず同じ動作が保証される特性を発揮し、パソコンのOSを独占する勢いとなった。

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 アップル社は身売り話が出るほど低迷したが、97年にジョブズが復帰すると、ビル・ゲイツとの歴史的和解を演出し、MSとAppleがクロスライセンスを結んだ。まもなく可愛らしいiMacをヒットさせひと息つくと、iPodiPhoneiPadを次々と開発し、モバイル・コンピューティングに市場を移行させるのに成功した。

 Windous95は、その後”98”・”Me”とアップグレードし、プロ仕様の"NT"・”2000”と平行展開していたが、その後はNT系をベースに統合して”XP”・”Vista”・”7”・”8”・”10”と進めてきた。しかし近年のAppleGoogleの攻勢に対応できず、立ち遅れ感は否めない。

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 NHK-BSドキュメンタリーで「スティーブ・ジョブズvs.ビル・ゲイツ」が放映された。年月を経て温和に語り合う二人だが、終始、スティーブがビルをいじるというような対談の様子が、二人の関係を象徴していた。二人の関係者らへのインタビューで、その中の一人が次のように答えていた。

 「ヒッピーとオタクが いまの IT の世界をつくったのさ」

 

(この年の出来事)

*1995.2.13/h7 野茂英雄ドジャース入団発表 初登板は5月2日

*1995.4.9/h7 東京都知事青島幸男氏・大阪府知事横山ノック氏当選

*1995.6.21/h7 羽田発函館行きの全日空機ハイジャック事件

*1995.7.23/h7 第17回参院選 社会大幅減も与党過半数

*1995.7.30/h7 八王子スーパー強盗殺人事件

*1995.8.15/h7 戦後50年 村山談話発表

*1995.12.8/h7 高速増殖炉もんじゅ」 ナトリウム漏れ事故

*1995.12.14/h7 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 和平協定調印式(パリ)

  

『村上春樹風に「無」について語る』

村上春樹風に「無」について語る』(また、おちゃらけ擬文を作ってみたくなったw)

 

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完璧な「無」などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

六月にデートした女の子とはまるで話があわなかった。

僕が南極について話している時、彼女は「無」のことを考えていた。

「無」の目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。

エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。

 

「ね、ここにいる人たちがみんなマスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った。

「たぶんね」

「男の人って「無」のこと考えながらあれやるわけ?」

「まあそうだろうね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは「無」のことを考えながらやっているんじゃないかな」

スエズ運河?」

「たとえば、だよ」

 

「「無」?」と僕は聞いた。

「知らなかったの?」

「いや、知らなかった」

「馬鹿みたい。見ればわかるじゃない」とユキは言った。

「彼にその趣味があるかは知らないけど、あれはとにかく「無」よ。完璧に。二〇〇パーセント」

 

僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたの「無」」と呼んだ。

そして今日でもなお、日本人の「無」に対する意識はおそろしく低い。

要するに、歴史的に見て「無」が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。

「無」は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが「無」だ。

 

「無」は盲のいるかみたいにそっとやってきた。

「それはそれ、これはこれ」である。

冷たいようだけど、地震地震、野球は野球である。

ボートはボート、ファックはファック、「無」は「無」である。

 

「どうせ「無」の話だろう」とためしに僕は言ってみた。

言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。

「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。

とにかく、そのようにして「無」をめぐる冒険が始まった。

 

「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔っ払い方も、なんでも好きだよ」

「本当にこのままでいいの?」

「どう変えればいいかわからないから、そのままでいいよ」

「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。

「世界中の「無」がみんな溶けて、バターになってしまうくらい好きだ」と僕は答えた。

「ふうん」と緑は少し満足したように言った。「もう一度抱いてくれる?」

 

僕はなんだか自分が「無」にでもなってしまったような気がしたものだった。

誰も僕を責めるわけではないし、誰も僕を憎んでいるわけではない。

それでもみんなは僕を避け、どこかで偶然顔をあわせてももっともらしい理由を見つてはすぐに姿を消すようになった。

 

「僕はね、ち、ち、「無」の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言った。

「「無」が好きなの?」と僕は訊いてみた。

「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、「無」を作るんだ」

 

「無」には優れた点が二つある。

まずセックス・シーンの無いこと、それから一人も人が死なないことだ。

放って置いても人は死ぬし、女と寝る。そういうものだ。

 

他人とうまくやっていくというのはむずかしい。

「無」か何かになって一生寝転んで暮らせたらどんなに素敵だろうと時々考える。

 

「ずっと昔から「無」はあったの?」

僕は肯いた。

「うん、昔からあった。子供の頃から。

僕はそのことをずっと感じつづけていたよ。そこには何かがあるんだって。

でもそれが「無」というきちんとした形になったのは、それほど前のことじゃない。

「無」は少しずつ形を定めて、その住んでいる世界の形を定めてきたんだ。

僕が年をとるにつれてね。何故だろう? 僕にもわからない。

たぶんそうする必要があったからだろうね」

 

その夜、フリオ・イグレシアスは一二六回も『ビギン・ザ・ビギン』を唄った。

私もフリオ・イグレシアスは嫌いなほうだが、幸いなことに「無」ほどではない。

 

「それから君のフェラチオすごかったよ」

直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。

「「無」もそう言ってたわ」

「僕と「無」とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」

と僕は言って、そして笑った。

彼女は少しずつ「無」の話ができるようになっていた。

 

泣いたのは本当に久し振りだった。

でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。

僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・「無」が・好きだ。

あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、

そして僕のことを覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。

 

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『Get Back! 90’s / 1994年(h6)』

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価格破壊 イチロー(効果) 「同情するならカネをくれ」

 

ルワンダ大量虐殺)

*1994.4.7/h6 ルワンダ大量虐殺

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 1994年4月、アフリカの内陸国であるルワンダで、ジェノサイド(集団大虐殺)が発生した。ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた旅客機が、ルワンダの首都キガリに着陸する際に、何者かによるミサイル攻撃で撃墜された。

 この暗殺事件をきっかけに、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派により、多数のツチ系とフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかでないが、およそ50万人から100万人、ルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。

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 虐殺を受けて、ツチ系のルワンダ愛国戦線(RPF)が反攻を開始し、虐殺開始から100日後の7月18日にRPFが全土を完全制圧、カガメ司令官が戦争終結宣言を行った。この結果、今度はフツ系の大量の難民が周辺国に流出した。

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 ルワンダ虐殺の原因はフツ族ツチ族の民族間対立と言われるが、元来はほぼ同一民族だとされている。かつては、牧畜民のツチが農耕民のフツを支配するルワンダ王国が存在していたとされ、19世紀末にこの地域(ルワンダ=ウルンディ)はドイツ帝国領となったが、第一次世界大戦でドイツが敗れ、1919年、ルワンダ=ウルンディとして国際連盟委任統治領、第二次世界大戦後には国連のベルギー信託統治領となる。

 ベルギー植民地下では、少数派であるツチを支配層とする間接支配体制が築かれた。フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族のフツと遊牧民族のツチとして区別されたにすぎないというが、ベルギーは少数派のツチを支配層に据え、フツとの分断支配をすすめた。

 国王と多くの首長をツチに独占させたほか、教育や行政面でもツチが優遇され、IDカード制を導入するなど、ツチとフツの民族を人工的に分断し、ルワンダ虐殺の要因となる2つの民族が固定された。

 

 1959年、ルワンダ王国のムタラ・ルダヒグワ国王の死を契機に、ルワンダ革命がはじまると、ツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギーは社会革命としてフツによる体制転覆を支援した(フツ・パワー)。ベルギー当局は多数派のフツ側に立場を逆転させて、翌1962年にフツのグレゴワール・カイバンダが初代大統領に就任し、ルワンダ共和国として独立する。ツチは報復を恐れてウガンダなどに脱出した。

  1973年にルワンダ・クーデターが起こり、フツのジュベナール・ハビャリマナが第2代大統領に就任し、ハビャリマナは開発独裁を行う一方、ツチに対しては和解政策を進めた。しかし1987年、隣国のウガンダに逃れていたツチ系の難民が主体となり、ルワンダ愛国戦線(RPF)が結成された。

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 1990年以降、ルワンダ帰還を目指したRPFとルワンダ政府の間で内戦(ルワンダ紛争)がはじまり、ハビャリマナは反ツチの政策に転換する。そして1994年4月にハビャリマナの暗殺事件を発端に、フツ過激派が主体となり、ツチと穏健派フツに対するジェノサイドが勃発した(ルワンダ虐殺)。

 ルワンダ虐殺は、きわめて組織立った形で行われた。ルワンダ国内では民兵の組織化が行われ、それら民兵が一般人民にも虐殺に加わるように強いた。さらに新聞や雑誌など活字メディアやラジオなどが、殺戮を煽る情報を一方的に流しした。

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 ルワンダ政府の推定によれば、84%のフツ、15%のツチ、1%のトゥワから構成された730万人の人口のうち、117万4000人が約100日間のジェノサイドで殺害されたとされ、ジェノサイド終了後に生存が確認されたツチは15万人であったという。

 

(自社さ連立政権)

*1994.6.30/h6 村山富市内閣発足(自社さ連立政権)

 

 1993(h5)年8月、38年ぶりに誕生した非自民の細川連立政権が、たった9か月で崩壊したあと、1994(h6)年4月、自由民主党日本共産党を除く与党7党1会派(日本社会党新生党公明党日本新党民社党新党さきがけ社会民主連合民主改革連合)と、自民党を離党して結成された3党(自由党、改革の会、新党みらい)が協力し、新生党党首の羽田孜を国会で首班指名した。

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 主導したのは新生党代表幹事小沢一郎公明党書記長市川雄一民社党書記長米沢隆の「ワン・ワン・ライス」と呼ばれたラインで、これに反発する新党さきがけなど一部は閣外協力となった。さらに首班指名直後、社会党の影響力をそぐため新生・日本新・民社など5党が統一して衆院会派「改新」を結成すると、これに反発した社会党が連立政権からの離脱を表明、こうして羽田内閣は少数与党内閣として発足することになった。

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 発足当初から混乱した羽田内閣は、平成6年度の5月になっても予算審議にも入れず、その平成6年度予算案が成立したのは6月23日のことだった。予期されていた通り、自民党はその日のうちに羽田内閣不信任決議案を提出し、自民党社会党の賛成多数で可決されることが必至となった。羽田は解散によるさらなる政治空白を憂慮して、わずか2か月で内閣総辞職して退任する。

 1994年(h6)6月、羽田内閣が総辞職した後、政権復帰を目指す自由民主党河野洋平総裁)は、日本社会党村山富市委員長)・新党さきがけ武村正義代表)と連立政権を組むことに合意した(自社さ連立政権)。そしてなりふり構わず、かつての仇敵社会党村山富市委員長を、内閣総理大臣をおしたてて村山内閣を成立させた。

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 このときの内閣総理大臣指名選挙では、中曽根康弘渡辺美智雄らの一部議員を除く自由民主党議員の大半と日本社会党新党さきがけの全議員が村山に投票、新生党公明党など羽田内閣の与党側が推した海部俊樹を破った。この「自社さ」の枠組は、第2次橋本改造内閣が終了する1998(h10)年半ばまで引き継がれる。

 長年対立関係にあった衆議院第1党自民党衆議院第2党の社会党が連立を組み、数の上では大連立として成立した政権だが、1993年の総選挙で過半数を割った自民党と、歴史的大敗に至った社会党が、敗者同士で手を結んだ野合連合でしかなかった。

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 この連合の背景には、公明党との連携をもとに強引に政権を仕切る小沢一郎の政治手法への反発があり、政策に関係なく主導権争いでのみ合従連衡を繰り返す既存政党に、有権者は愛想を尽かし政治不信が加速した。その結果、無党派の支持を受けて東京都知事青島幸男が、大阪府知事横山ノックが当選し、1995年7月の第17回参議院議員通常選挙では投票率50%を大きく下回る過去最低を記録した。

 自社さ政権である村山政権が発足したが、村山首相は就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えず、凋落一方となる。

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 きわめて脆弱な村山政権の下では、日本社会を震撼させるような大事件が連続した。1995(h7)年1月17日の未明、阪神・淡路大震災が発生し、政府の対応が遅れたことで強い非難を浴び、内閣支持率の急落に繋がった。そして同年3月20日には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。

 オウム真理教はすでに、1989年11月4日の坂本堤弁護士一家殺害事件や、1994年6月27日の松本サリン事件といった凶悪事件を実行していたが、地下鉄サリン事件で初めてオウムへの強制捜査が行われることになった。捜査の遅れの批判は、ときの村山政権が矢おもてに立たされた。

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 1995(h7)年7月の参議院議員通常選挙が行われ、日本社会党は大きく議席数を減らしたため、村山は辞意を漏らしたが慰留される。しかし1996(h8)年1月5日、村山首相は突然退陣を表明した。村山の退陣については様々な憶測があるが、政権内の内紛、社会党内の対立分裂、待ち受ける政治的難局など取り巻く状況に、政権を維持する意欲と自信を喪失したものと思われる。

 後継には、引き続き自社さ政権の枠組みで、自民党総裁橋本龍太郎が首班に指名され、橋本連立内閣が発足した。社会党社会民主党の党名を改め、反対派が大量離脱するなど、かつての野党第一党の面影は消えていった。

 

関西国際空港開港)

*1994.9.4/h6 関西国際空港開港

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 1960年代に、ダグラス DC-8ボーイング707など大型かつ騒音の大きいジェット旅客機の就航が相次ぎ、海外旅行の自由化などで航空需要の拡大が想定さるなか、制約が大きい既存の大阪国際空港のみでは対処できなということで、「関西第二空港」の建設が必要とされた。

 「関西第二空港」は、大阪南港沖・神戸沖・明石沖・淡路島・泉州沖などの候補地から、泉州沖が建設地に選定され、1987年、人工島を造成して旅客ターミナルビル1棟や滑走路1本などを建設する第一期工事が着工された。

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 空港島の建設地が、騒音対策のため沿岸から5km離れた水深の深い海の埋め立てとなったことで、関西国際空港の建設費は、国際的にも異例の金額となった。さらに地元漁師などへの「漁業既得権」への補償額が、当初想定を大幅に上回った。これらの建設費用の高騰の結果、世界的に高額な着陸料や賃料などが設定され、国際ハブ空港としての競争力を失うことになった。

 空港1期島造成工事は1991年に完了、1994年9月4日に開港した。しかし旅客数・発着回数などの業績は、開港当初の予想を下回った。国際線利用者数は毎年増加を続けたが、大阪国際空港と競合する国内線の利用者数は伸びず、2004年度には開港当初の約半分まで落ち込んだ。

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 既存の大阪国際空港豊中市伊丹市など市街地の中央に位置し、過密な航空機離着陸の騒音対策などが課題であったため、政府は大阪国際空港への発着規制を強め、関西国際空港へのシフトを推進し、さらに不満の強かった高額な着陸料を値下げするなど増便を図った。

 その後の航空需要の拡大などの追い風もあり利用客の増加が進み、利用客累計2億人の大台突破は約11年強で達成、約14年半かかった成田国際空港より大幅に早かった。しかし関西空港は成田空港より20年近くあとの開港で、国際化の進展・海外旅行に有利な円高・格安航空会社の登場・さらに中国や韓国の経済発展が関西国際空港に有利に働くなど、同等な比較はできない。

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 関西新空港の建設計画から現実に開港するまでに、航空需要と環境は大きく変化した。そもそもは大阪国際空港が手狭となり、その拡張が困難であり、航空騒音が問題となるにしたがって、その代替空港が必要となって来た。

 運輸省(現国土交通省)は泉州沖に関西国際空港の建設案を推進したが、大阪国際空港の公害対策としての地元の合意では、関西新空港の開港にともない大阪国際空港が廃止されるかのような印象を与えるような内容となり、これが開港後も論議を呼ぶところとなった。

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 しかし1980年代に入ると、大阪国際空港周辺での騒音対策の進展や、その利便性や経済的利益などが再評価され、関西空港開港後も存続することが決定された。さらに、いったんは市民の反対などで建設計画を見送った神戸空港が、その後の状況変化から建設計画が復活し、2006年には神戸空港が開港するなどして、関西三空港の運用問題が大きな課題となって来た。

 その後、関西三空港運用の議論が進み、2012年には新関西国際空港株式会社が設立され、関西国際空港大阪国際空港経営統合が実施された。さらに完全民営化するために関西エアポート株式会社が設立され、所有と運営の分離が行われ、新会社が関西国際空港大阪国際空港の運営を一体的に行うことになり、現在では神戸空港を含めて関西三空港は関西エアポートグループによる一体運営体制となっている。

 

  (この年の出来事)

*1994.2.4/h6 H-Ⅱロケット1号機 打ち上げ成功 種子島宇宙センター

*1994.2.12/h6 ノルウェー リレハンメル冬季オリンピック開幕

*1994.4.26/h6 名古屋空港 中華航空機墜落事故 264人死亡

*1994.6.27/h6 松本サリン事件 8人が死亡 140人以上が被害

*1994.7.8/h6 北朝鮮 キム・イルソン(金日成)主席 死去

*1994.8.31/h6 「ジュリアナ東京」閉店

*1994.12.2/h6 中2男子 いじめ苦に自殺 いじめ問題がクローズアップされる

*1994.12.3/h6 ソニープレイステーション」発売

*1994.12.28/h6 三陸はるか沖地震発生

*1994.10.13/h6 大江健三郎ノーベル文学賞

 

『Get Back! 90’s / 1993年(h5)』

『Get Back! 90’s / 1993年(h5)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

新党ブーム 政治改革 平成大凶作 「ジュラシック・パーク

 

Jリーグ発足)

*1993.5.15/h5 サッカー「Jリーグ」発足

 

 1965年にアマチュア主体の日本サッカーリーグJSL)創設され、1968年のメキシコ五輪では、日本代表が銅メダルを獲得して一時的にブームとなった。しかしその後の日本代表の成績不振などから、長らく人気は低迷した。

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 メキシコ五輪で得点王と大活躍の釜本邦茂や、1977年にドイツブンデスリーガで、日本人初のプロサッカー選手となった奥寺康彦、80年代半ばには攻撃の核となって日本代表を支えた木村和司など、個別に名をはせたエースはいたが、1986 FIFAワールドカップ予選で、韓国代表に敗れ出場を逃した日本代表森孝慈監督は、「追いつくにはプロを作るしかない」と訴えた。

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 1988年3月には、JSL総務主事森健兒らを中心に「JSL第一次活性化委員会」が創設られ、実質的な「Jリーグ」が始動された。1988年8月に川淵三郎JSL総務主事となり、10月に「JSL第二次活性化委員会」を設置する。

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 しかし当時のJSLは実業団チームを基盤に構成されており、そのスポンサー企業の広告の媒体であり、また社内的には福利厚生の一環と位置付けられていた。そのためJSLのチーム運営者には消極的意見が多く、プロ化にしても採算が取れないとされた。

 

 川淵は活性化委員会の議論を、消極的なJSLではなく、日本サッカー協会(JFA)に移すことを企図し、翌1989年 6月に「JSL第二次活性化委員会」を解散させ、日本サッカー協会副会長になっていた長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ検討委員会」を設置させた。

 一方、1986年のメキシコワールドカップの場で、FIFA会長が将来のアジアでのFIFAワールドカップ開催を示唆する発言があり、サッカー協会の長沼は、プロリーグの創設とワールドカップ誘致は、車の車輪であると認識した。

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 かくしてプロリーグ創設とFIFAワールドカップの招致は、同時進行することになった。WCを開催するにふさわしい国であるためには、FIFAが要求する拠点スタジアムの建設、常時試合をするプロチームとプロ選手の養成、それをベースにした日本代表のワールドカップ初出場を念頭に置いた強化などが必須となり、それらが一元化されて一気に進められた。

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 そしてプロリーグ構想は具現化され、新プロリーグの正式名称を「日本プロサッカーリーグ」とし、愛称を「Jリーグ」とすることが決まった。Jリーグが創設されると、川淵三郎Jリーグチェアマンと日本代表の強化委員長に就任、マスメディアに脚光を浴びる。

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 1991年2月発足時加盟の10クラブが発表され、1992年には前哨戦として、第1回のJリーグヤマザキナビスコカップが開催された。そして1993年4月Jリーグ規約が施行され、
5月15日、サントリーシリーズとして初年度のリーグ戦開始された。

 Jリーグでは、次の3つの理念を掲げたうえ、フェアで魅力的な試合の開催・スタジアムなど競技環境の確立・地域社会に密着した交流の推進などを具体的に示し、Jリーグ加盟の要件にも、これらの具体的な項目を定めた。

 

(皇太子ご成婚)

*1993.1.19/h5 皇室会議で皇太子殿下と小和田雅子さんの婚約決定

*1993.6.9/h5 皇太子殿下 小和田雅子さんとご結婚

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 1993年(平成5年)1月19日、徳仁親王と小和田雅子さんの婚約が発表され、婚約会見が行われた。テレビで生中継された会見では、事前用意されたマスコミからの質問文書に答えるかたちで、プロポーズの日時や様子、その返事の言葉が詳しく回答された。

 そして1993年(平成5年)6月9日、皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀が、皇居にある宮中三殿において、国事行為として行われた。本儀式により日本の皇太子徳仁親王(当時33歳)と小和田雅子(当時29歳)は結婚し、雅子は皇太子妃となった。

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 徳仁親王は第125代天皇明仁と皇后美智子の第1皇男子であり、御称号を浩宮といった。婚約と結婚が進められる間に、父帝明仁の即位を受けて皇太子となり、31歳で立太子の礼を挙げ、2019年(令和元年)5月1日をもって第126代天皇に即位した。

 皇太子妃となる小和田雅子は、当時外務事務次官だった小和田恆の長女で、幼少時より海外生活が長く、ハーバード大学経済学部を卒業、学士入学で東京大学在学中に外交官試験に合格、中退して外務省に入省し、研修でオックスフォード大学に留学するなど、華麗な経歴と海外経験とをもつ。

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 浩宮徳仁親王は将来の天皇として、周辺は早くから「お妃選び」に配慮しており、25歳の頃から、宮内庁内では具体的に妃候補を選ぶ計画が進められていた。それは浩宮自身には内密であったが、ご本人は民間からの相手を望み、人の苦しみや悩みを推し量ることができ、必要な時には自分の意見をしっかり言える女性が理想だと語っていた。

 そんななか、元外交官幹部からの紹介で、当時外務省条約局長だった小和田恆の長女雅子が候補に浮上した。1986年10月、スペインの王女を迎えた東宮御所でのパーティーに、小和田家一同も招かれたが、お妃候補として招かれているとは知らされていなかった。

 

 この時さりげなく会話を交わした浩宮は、彼女に強い印象と好感を持ったようで、以降、幾度か縁のある著名人や皇族に招かれて会食する機会がもうけられ、雅子は浩宮自身にも強い思いを抱かせる有力候補となった。

  1987年12月ごろには、雅子が浩宮妃候補であることがスクープとして報じられ、報道が過熱する。しかし、雅子をお妃候補として推薦されたと伝えられた小和田家は、お妃候補を固辞し、いったん候補から消えた。

 

 その後、様々なお妃候補が浮上しては消えていくなか、皇太子の思いはずっと続いていたようで、1992年1月、皇太子は「小和田雅子さんではだめでしょうか」と東宮大夫に告げ、周囲は再度、小和田雅子周辺にアプローチを始め、10月3日、皇室利用の千葉県市川市の新浜鴨場で、皇太子と雅子を二人きりにする場を設けた。

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 その場で皇太子は雅子にプロポーズし、雅子は外交官という仕事と皇室に入るという間で悩んだが、ついに受諾の返事をした。そして、1993年1月19日婚約会見が行われ、納采の儀など諸儀式を経て、1993年(平成5年)6月9日の「結婚の儀」を迎える。

 

(細川内閣発足 38年ぶり政権交代

*1993.6.18/h5 宮沢内閣不信任決議案 可決

*1993.7.18/h5 第40回衆院選 自民過半数届かず惨敗

*1993.8.9/h5 細川護煕内閣発足 38年ぶりの政権交代

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 1988年リクルート事件、1992年東京佐川急便事件と政界の不祥事が相次ぎ、国民の政治不信が極限に高まるなか、1993年6月、野党連合は宮沢内閣不信任案を提出、これに自民党小沢一郎ら39名が造反して賛成票を投じ不信任案が可決、宮沢内閣は衆議院を解散し総選挙となった。

 総選挙に際して、羽田孜小沢一郎武村正義らが自民党を離党し次々と新党を結成、これに前熊本県知事細川護煕が結成した「日本新党」なども呼応し、総選挙では自民が過半数を割り、社会党も惨敗した。

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 その結果をみて、新生党幹事長の小沢一郎はいち早く非自民を結集し、社会党公明党民社党社会民主連合民主改革連合の各党派との連立を合意させたが、一方で、細川の日本新党と武村のさきがけは統一会派を結成し、さらに自民・非自民双方との連立交渉に入った。

 この結果、日本新党新党さきがけが新政権樹立のキャスティングボードを握ることとなった。小沢一郎は、自民党との連立に傾いていた細川に首相就任を打診し、非自民勢力へと方向転換させると、社会党新生党公明党に次ぐ第4勢力でしかない日本新党細川護煕を首班として、1993年8月9日、非自民・非共産8党派の連立政権である細川内閣を成立させた。

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 9月はじめの世論調査内閣支持率は空前の71%に達して、幸先の良いスタートを切った細川内閣は、世論の最大の政治的関心事で自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現を最大のテーマに掲げて、細川は政治改革が年内に実現できなければ政治責任をとると明言した。

 当時の世論は、自民党長期政権の下での政官業の癒着構造、カネがかかり政権交代が行われない選挙システム、政治腐敗等に対する不満が高まっていた。選挙制度の改革は、政権交代を可能とする小選挙区制の導入が最大の課題となった。

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  選挙制度改革案は小選挙区比例代表の人数割り当てなどで紛糾したが、自民党総裁河野洋平と細川とのトップ会談で、急転直下妥協が成立し、小選挙区300・比例代表200で改正公職選挙法が成立、政治資金改革では改正政治資金規正法、政党助成法で金を掛けない選挙という建前を実現した。結果的には、この政治改革の実現が、細川政権のほとんど唯一の実績となった。

 細川は就任当初から税制改革にも意欲を示していたが、日米包括協議でアメリカが内需拡大とそのための所得税減税を日本に求め、日本側は所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られた。新生党の小沢代表幹事と大蔵省は財源を消費税の増税に求め、細川は唐突に国民福祉税構想を発表した。

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 細川政権は国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失い、一方で小沢一郎は内閣外に「連立与党代表者会議」を作っており、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官武村正義と激しく対立していた。また、細川は佐川急便グループからの借入金処理問題が自民党から追及され、政権内の分裂と相まって「殿様首相」はあっさりと辞意を表明し、政権を放り出した。

 清新なイメージで出発した細川内閣は、1994年4月25日総辞職し、1年に満たない短命政権で終わった。細川政権を誕生させ終始裏でかき回した小沢一郎は、経済誌のインタビューで細川政権が短命に終わった理由を問われ、「素人が政権を取ったのだからしょうがない」とうそぶいた。

 

オスロ合意 暫定自治政府原則の宣言)

*1993.9.13/h5 イスラエルPLO 暫定自治の共同宣言に調印

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 1993年8月の「オスロ合意」にもとづいて、1993年9月13日「イスラエルPLO 暫定自治の共同宣言」が調印された。このパレスチナの暫定自治を認めるという共同宣言は、アメリカのクリントン大統領を仲介として、イスラエルのラビン首相と、パレスチナ解放機構PLO)のアラファト議長の間で締結された。

 内容は、5年間のパレスチナ暫定自治を行い、暫定自治の終わる5年後に、イェルサレムの帰属・パレスチナ難民の処遇・安全保障・国境確定などを含む最終的地位協定を発効させる、となっていた。

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 この協定に基づきパレスチナ暫定自治行政府が成立し、翌1994年にはパレスチナで総選挙が行われ、暫定自治政府代表にアラファトが選出された。ただ、和平反対勢力のテロの応酬や各地で両者の衝突事件が相次ぎ、オスロ合意の最終的地位協定に関する協議は始まらなかった。

 関係正常化への期待は暗礁に乗り上げたが、イスラエルパレスチナという当事者同士がテーブルに着き、和平の道筋について大筋で合意したことの歴史的意義は大きく評価され、この功績によってラビンとアラファトは1994のノーベル平和賞を受賞した。

  その後、イスラエルでは1995年11月にはラビン首相が暗殺され、右派強硬派のネタニエフ政権が誕生して、一方のアラファトも、過激派の前に当事者能力を失ってゆき2004年に死亡、交渉は完全に行き詰まった。そして、2006年7月のイスラエルによるガザ地区レバノンへの侵攻により、事実上崩壊したと見なされている。

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 パレスチナは古くはカナンと呼ばれ、パレスチナという言葉はペリシテ人の土地という言葉がなまったものとされ、これらは旧約聖書に見られる。その後ペリシテ人は完全に滅亡し、その後、イスラエル民族によるイスラエル王国が建設されユダヤ人の土地となる。

 しかしイスラエル王国は侵略を受け滅亡し、やがて帝政ローマの属州となると、時のローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州の名を廃し、ユダヤ人の反乱を弾圧するため、すでに滅亡したペリシテ人の名を被せて「パレスチナ属州」とした。

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 さらに7世紀以降、イスラム勢力が支配するようになり、諸王朝の支配が変遷しながら、16世紀以後オスマン帝国支配下にはいる。第一次大戦で、イギリスは老大国となったオスマントルコに侵入し、いわゆる「三枚舌政策」で勝手にアラブの地に国境を引き、それまで自由に行き来していたアラブ遊牧民族の対立をあおった。

 そのうえ、ユダヤ系のロスチャイルド家などから資金を得るために、三枚目の舌として、外相バルフォアを通じユダヤ人国家の建設を約束した(バルフォア宣言)。オスマン支配下でも、ユダヤ人の間ではエルサレムへの帰還を訴えるシオニズムが勃興し、ユダヤ人のパレスチナ移住は始まっていた。

 

  1918年10月第一次世界大戦が収束しオスマン帝国が降伏すると、イギリスの占領地となり委任統治パレスチナとなった。バルフォア宣言でイギリスの支持を得たとして、ユダヤ人の移民はさらに進み、アラブ人との衝突が増していった。

 第二次世界大戦ナチスホロコーストが始まると、ヨーロッパのユダヤ人のパレスチナへの避難は急を要したが、イギリスは移民制限政策を続けた。戦争が終わると、イギリス政府へのユダヤ人の闘争は過激化し、ついにイギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題を国際連合に委ねた。

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 国連総会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案が採択され、イギリスは「1948年5月15日をもって委任統治を終了する」と宣言した。イギリスが介入を放棄したため両陣営相互の攻撃は活発となり、多くの衝突事件が多発する緊迫した状況下で、イギリス統治が終わる1948年5月14日、イスラエルは一方的に独立宣言を行った。

 これに対しアラブ諸国は、パレスチナ支援の軍隊を動員し、5月15日「第一次中東戦争」が勃発した。イスラエル軍は苦戦を強いられながら挽回し、優勢のうちに休戦に持ち込んだ。エジプトはガザ地区に軍隊を駐留、ヨルダンはヨルダン川西岸地区を領土に編入し、国連分割案から縮小した形で、両地域がパレスチナ居住区となった。

 

 さらには第四次にわたる中東戦争が戦われ、その都度イスラエルは占領地を広げ入植を増やして、パレスチナ人の土地は狭まり続けた。そんななかで、アラファト率いるPLOパレスチナ解放機構)が過激化し、1988年11月、PLOはエルサエムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言する。

 1992年、米ソ共催によるマドリード中東和平国際会議が開かれた。同年、パレスチナ和平交渉に前向きなイツハク・ラビンがイスラエル首相に選出された。そしてノルウェーの仲介により、1993年9月13日にオスロ合意が成したのであった。

 

マーストリヒト条約 EU発足)

*1993.11.1/h5 EU発足

 

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 マーストリヒト条約欧州連合条約)は、「欧州連合」(EU)の創設を定めた条約で、1991年12月9日、「欧州諸共同体」(EC)加盟国間での協議がまとまり、1992年2月7日調印、1993年11月1日に発効した。協議の重要課題は通貨統合と政治統合の分野についてで、その後の条約で修正が加えられた。条約名は調印されたオランダのマーストリヒトにちなむ。

 マーストリヒト条約では、単一通貨ユーロの創設と3つの柱構造(欧州共同体の柱、共通外交・安全保障政策の柱、司法・内務協力の柱)の導入が決定された。その後、アムステルダム条約によって司法・内務協力から難民・移民問題などを欧州共同体の柱に移管し、残った分野について警察・刑事司法協力に改められた。

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 2004年には北欧・東欧などの10か国が新規加盟するということが決まっており、欧州連合の基本的な枠組みの再検討が迫られ、2004年10月、欧州憲法条約が署名されるも、成立に必要なすべての国での批准がならず欧州憲法条約は断念され、2007年12月、憲法条約に修正を加えたうえでリスボン条約が結ばれた。

 リスボン条約では、欧州理事会議長が常任化され、外務・安全保障政策上級代表はその機能が大幅に拡張された。マーストリヒト条約での三本の柱の協力体制は、欧州連合としてより一層の一体化を進めることになった。

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 その後もEUは、統合一体化を進めるとともに、参加国の拡大を広げた結果、各加盟国間の格差が際立ち始めた。加盟国間の経済格差は、ギリシャなど一部の国のデフォルト問題が発生し、共通通貨ユーロへの信頼が揺らぎ、各国内でも経済格差が拡大している。

 さらに、アラブや北アフリカからの難民流入問題が、人の移動の自由の実現を掲げた「シェンゲン協定」のEU組み入れを阻むなど、EUの矛盾が噴出し始めている。そして、国民投票EUからの離脱を決めたイギリスの”Brexit”は、まさにEU分解の危機さえ招く様になった。

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 欧州連合はさまざまな基本条約を根拠として形成され、拡大を繰り返してきた結果、当初6であった加盟国の数は28にまで上る。1951年のパリ条約によって設立された「欧州石炭鉄鋼共同体」(ECSC)は、石炭と鉄鋼の奪い合いが第二次大戦の主原因になった西独と仏に、伊とベネルクス3か国が加わって6か国で成立した。

 1957年には参加国間で「欧州経済共同体」(EEC)と「欧州原子力共同体」(EAEC)の設立をうたったローマ条約が署名され、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)とともに3つの共同体がうまれたが、1967年7月に3つの共同体を統合するブリュッセル条約が発効し、「欧州諸共同体」(EC)と呼ばれる体制が発足した。

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 イギリスはEECへの加盟を希望したが、フランス大統領シャルル・ド・ゴールの反対により阻まれ、EECに対抗するため、非加盟のオーストリアスウェーデン、スイス、デンマークノルウェーポルトガルとの7か国で「欧州自由貿易連合」(EFTA)を結成して対抗した。

 しかし1973年、ド・ゴールの死去とともにECへの加盟が認められ、イギリスはEFTAから脱退し、デンマークアイルランドとともに欧州共同体(EC)加盟して、ECは第1次拡大が実現して9か国体制となった。

 

 さらに第2次拡大として1981年ギリシャが加盟、1986年の第3次拡大でスペインとポルトガルが加盟した。1986年ジャック・ドロールが欧州委員会委員長に就任すると、単一欧州議定書に署名され、統合条約以来でははじめてとなる基本条約の改定が行なわれた。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊しドイツは再統一を果たすと、旧東側諸国への共同体拡大も始まる。そして拡大が続くなかで、1993年11月欧州連合条約(マーストリヒト条約)が発効して「欧州連合」(EU)が発足することになる。かくして、統合一体化と加盟国拡大による多様化の、矛盾をはらんだ苦難の道が始まった。

 

(この年の出来事)

*1993.1.20/h5 米大統領ビル・クリントン氏就任(民主党

*1993.4.23/h5 天皇・皇后両陛下 沖縄初訪問

*1993.7.5/h5 北海道南西沖地震 奥尻島津波

*1993.8.4/h5 「慰安婦」認める調査結果公表 官房長官が談話

*1993.10.28/h5 サッカー日本代表ドーハの悲劇

 

『Get Back! 90’s / 1992年(h4)』

『Get Back! 90’s / 1992年(h4)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

カード破産 複合不況 ほめ殺しきんさんぎんさん

 

脳死尊厳死

*1992.1.22/h4 脳死臨調最終答申 「脳死は人の死」。

*1992.3.18/h4 日本医師会生命倫理懇談会が「尊厳死容認」を打ち出す。

 

 長年にわたって踏襲されてきた「人の死」に対する考え方が、大きく変更される提起が、「臨時脳死及び臓器移植調査会」と「日本医師会生命倫理懇談会」から相次いで表明された。1992(h4)年1月、首相の諮問機関「臨時脳死及び臓器移植調査会」が、「脳死」を人の死とし、脳死者からの臓器移植を認める最終答申を提出した。

 一方3月には、「日本医師会生命倫理懇談会」が、患者の自己決定を尊重する「尊厳死」を容認する見解を提示した。これらの規範変更は、人工心肺装置など生命維持装置の発達によって、従来の自然死から人工的に延命させることが可能になったために生じてきた問題である。

 

脳死と臓器移植>

  従来から、心臓の停止によって人の死とする慣例に従ってきた。近年では一般に、心臓・肺・脳のすべての機能が停止した場合(三徴候説)を死としている。しかし人工心肺装置で血液を循環させ点滴などで栄養を供給すれば、半永久的に物理的な生命を維持することができる。これを「生きている」と言えるかどうか。

 脳死臨調での多数意見は、人間が死ぬということは「有機的統合体」でなくなるということであり、「脳死」とはまさに有機的統合体でなくなったということで、脳死を「人の死」と見なしてよいとする。

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 しかし脳死の判定基準は、心肺停止のように簡単ではない。また、脳死と判定されても、それが不可逆的に復活不能かどうか、1%でも復元可能であれば、それは死とは言えない。しかも脳死臨調には、臓器移植を推進するという隠された目的もあった。

 そして5年後の1997(h9)年6月、「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立した。この法律では、第6条において、死亡した者が臓器移植の意思を生前に書面で表示していて、遺族が拒まない場合に限り、「脳死した者の身体」を「死体」に含むとしてその臓器を摘出できると規定する。

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 「脳死判定」が為されるのは臓器移植を目的とした場合に限定され、一般には従来通り、呼吸・脈拍・対光反射(三徴候)の消失を医師が確認して「個体の死亡」とされる。脳の全体機能が解明されつくしていないなか、「脳死」の規定は、「臓器移植」を推進するための苦肉の策という側面も持つ。

 

尊厳死と延命医療> 

 「尊厳死」とは、人間が人間としての尊厳 (dignity) を保って死に臨むことであり、インフォームド・コンセントのひとつとされる。「安楽死」や「蘇生措置拒否」 (DNR) と関連が深い。末期がん患者など治癒の見込みのない人々が、「クオリティ・オブ・ライフ(quality of life, QOL) と尊厳を保ちつつ最期の時を過ごすための医療が「ターミナルケア」(end-of-life care 終末期医療)である。

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 1992(h4)年3月、日本医師会第Ⅲ次生命倫理懇談会は答申を発表した。この中で「医師は患者に対して最大限延命をはかるべきだとされてきたが、医療の進歩にともなって必要以上に延命治療が行われる傾向が出てきた」とし、「患者の自己決定を尊重する」という立場から末期医療のあり方を見なおす必要があるとした。

 そのうえで、回復の見込みのない末期の患者があらかじめ尊厳死の宣言など文書によって「自然な死を迎えたいという意思」を示している場合、医師はその意思を尊重して「延命治療を打ち切っても、法的な責任を問われない」とし尊厳死を認める見解を示した。

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 その後も2006 年、2008 年、 2014 年の報告書で、重要な修正を加えている。それらの過程で深化されてきた論点では、これまでの形式的に「いのち」を捉えて、ひたすら延命のみを図る過剰な医療からの脱却、すなわち「延命至上主義からの脱却」を強調した。

 とはいえ、何が過剰で何が過少かは難しい判断に迫られるため、医療側では多職種による医療・ケアチームによる判断を、他方で患者の意思を尊重することが何より重要であり、さらに家族の理解も重要であり、これら「関係者の理解と合意」を目指す努力が必要だと指摘する。


 また、終末期といっても患者やその置かれた状況が多様であるため、一律的な判断ではなく、患者に合わせた対応が必要であるとし、その重要な例としては、小児難病のケース等を挙げている。

 そして最後に、「尊厳死法の法制化」について言及するが、一律の法制化に伴うデメリット(法律への過剰な対応・濫用の危惧など)もあり、日本医師会としては、「医療専門者間で設定されたガイドライン」によることで、医師の行為に法的な免責も得られる状況が望ましいとしている。

 

 以上のように、「人の死」に対する考え方が変遷してきており、さらに延命措置などの医療技術が急速な発展をみせるなかで、人の死の扱い方は複雑な要素が絡み合ってきている。したがって、医療関係者のみならず、患者およびその家族までが、死の扱い方に合意することが重要となってきている。

 

東京佐川急便事件)

*1992.2.14/h4 東京佐川急便事件 前社長らを特別背任容疑で逮捕

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 1992(h4)年2月、東京佐川急便の前経営陣らが、暴力団と関係のある企業などに巨額の債務保証や融資をしていたとして商法の特別背任の罪に問われた。さらに、自由民主党経世会金丸信会長が、佐川急便(本社所在地・京都市南区)側から5億円のヤミ献金を受領していたことが明らかになり、1992年10月に衆議院議員辞職に追い込まれた。

 この政治献金スキャンダルへの対応をめぐり、経世会小沢一郎梶山静六が対立、経世会が分裂し、非主流派になった小沢一郎経世会を離脱する。汚職は野党社会党議員にも嫌疑が及ぶなど国会は紛糾を極め、政治不信が蔓延し、その後の「55体制崩壊」にまで及ぶことになる。

 

 1987年、自民党次期首相をうかがう竹下登は、右翼団体日本皇民党による執拗なほめ殺し攻撃を受けていた。竹下は腹心の金丸信に相談、金丸は東京佐川急便の渡辺広康社長に、暴力団稲川会会長石井隆匡への仲介を依頼する。

 その結果事件は沈静化し、1987年11月竹下登は首相に就任し、この成功により渡辺広康は政界に強いコネクションを持つことに成功する。京都府に本社を置く佐川急便は、関東にも勢力を伸ばすために、子会社東京佐川急便の渡辺社長らが、政界工作をしている最中だった。

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 渡辺広康は稲川会石井の仲介に対して、石井と関係のある会社に対して、次々と融資や巨額の債務保証を行い、東京佐川急便バブル崩壊により巨額負債を背負うことになった。その結果、1992年2月14日東京地検特捜部は、渡辺広康社長ら4人を特別背任容疑で逮捕した。

 数千億単位の資金が非合法組織に流れたため、東京地検特捜部が関連疑惑の追及を続けた結果、1992年9月、金丸信東京佐川急便から5億円の政治献金を受けていた事実が判明、金丸信議員辞職に追い込まれた。

 

 この対応をめぐり、自民党最大派閥の経世会では、梶山静六は早期の事態収拾を図ることを選ぶが、小沢一郎は徹底抗戦を主張して経世会を割って出る。一方で、最大野党社会党議員にも東京佐川急便からの闇献金が明らかになるなど、国会は紛糾する。

 竹下昇は1988年のリクルート事件で首相を辞任していたが、経世会を率いて大きな力を持っており、その後の宇野、海部、宮澤内閣の誕生を仕切ってきていたが、この東京佐川急便事件で経世会が分裂し、影響力を削がれた。

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 1992年11月の衆議院予算委員会において、社会党竹下登に対して証人喚問を要求し、さらに1993年2月の衆議院予算委員会で、小沢一郎を証人喚問するが、いずれも不発に終わり、一方自民党が、逆に社会党など野党議員の証人喚問を要求するなど、国会は泥仕合を繰り返し、事件解明はうやむやに終わる。

 1988年リクルート事件、1992年東京佐川急便事件と政界の不祥事が相次ぎ、国民の政治不信が極限に高まるなか、1993年6月、野党連合は宮沢内閣不信任案を提出、これに自民の小沢ら39名が造反し賛成票を投じたため、不信任案が可決、宮沢内閣は衆議院を解散し総選挙となった。

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 総選挙に際して、小沢一郎武村正義らが自民党を離党して、次々と新党を結成、これに前熊本県知事細川護煕が結成した「日本新党」が呼応し、総選挙では自民が過半数を割り、社会党も惨敗した。その結果、小沢一郎が画策して、日本新党新生党新党さきがけなどが連立し「細川政権」が誕生した。

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 これにより、1955年以来続いてきた自民党社会党という構図の「55体制」が終焉した。細川政権誕生により蓋をされた形で収まった東京佐川急便事件だが、1994年3月に、細川護熙東京佐川急便からの献金疑惑が浮上し、1994年4月細川護熙は総理大臣を辞職、細川連立政権は、9か月の短命政権に終わった。

 

暴力団対策法 施行)

*1992.3.1/h4 「暴力団対策法」施行

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 「暴力団対策法」(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)は1991年に制定公布され翌年3月1日から施行された。この法律は、暴力団員の行う暴力的要求について規制を行う・暴力団の対立抗争等による危険を防止する・暴力団員の活動による被害の予防活動を促進するなど、市民生活の安全と平穏の確保を図り、国民の自由と権利を保護することを目的とする。

 暴対法では、暴力団員に特有な犯罪の前歴者が一定比率以上含まれている団体を「指定暴力団」に指定し、組織の威力を背景にした借金の取り立てや地上げなど、これまで対処が難しかった暴力団の民事介入を禁止し、公安委員会の中止命令に従わないときは処罰できるようにした。この年の6月に山口組・稲川会・住吉会が「指定暴力団」に指定された。この法律により、刑法その他の従来の刑罰法規による取締りと並んで、行政的な手段により暴力団員の不当な行為を広範囲に規制することが可能となった。

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 暴力団は社会経済情勢の変化に伴って、その組織や活動形態を変化させてきた。ヤクザ組織自体は、歴史的には江戸時代後期にまで遡り、任侠道やヤクザ道などと標榜し、親分・子分・兄弟分の縁などを結ぶなど、独自の組織的団結を維持してきた。戦後になると、既存の博徒・的屋(てきや)といった集団に、愚連隊と呼ばれる不良集団が加わり、闇市等の利権を巡って対立抗争がくりかえされた。

  社会的経済的秩序が回復すると暴力集団の再編が始まり、覚せい剤や芸能興行など新たな利権に活動が多様化し、暴力集団の境界があいまいになった。その後さらに暴力団の淘汰が進み、一部の暴力団がその組織力と安定した資金源で、弱小団体を吸収してその勢力を拡大していった。

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 昭和40年代には暴力団への社会的反発も強くなり、警察の集中取締まりにより、幹部を含む構成員が大量に検挙された結果、非合法的資金源に依存する中小暴力団は打撃を受け、上納金制度を確立した大規模暴力団が中小暴力団を吸収し、大規模な広域暴力団へと組織化・系列化が進んだ。

 昭和50年代になると、一部暴力団は海外にその活動の場を求めるとともに、一方では非合法活動で得た利益を合法的企業を装った事業に投入するなど、「経済ヤクザ」と呼ばれる、合法的的活動を偽装した大規模組織に移行してゆく流れができた。

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 そのような従来の法では取り締まれない状況変化に対応するため、平成4年3月、「暴力団対策法」(暴対法)が施行され、暴力団対策も新たな時代を迎えた。暴対法によって、公安委員会が指定した暴力団指定暴力団)を対象として、それまで対処が困難であった「民事介入暴力」の取締りが効果的に行えるようになった。

 暴対法による「指定暴力団」は、予防的にその活動を大幅に制限されるようになった。これにより、指定暴力団員がその所属する指定暴力団等の威力を示して行う不当な行為が禁止され、公安委員会は、暴力団対策法に違反した指定暴力団等に対して、中止命令や再発防止命令を出し、その行為を中止させることができるようになった。

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 近年では、暴対法および取り締まりや刑罰の強化の結果、構成員の組織からの離脱が進み、全国の暴力団構成員と準構成員は暴力団対策法施行後で最少となっており(平成27年警察白書)、暴力団撲滅に一定の効果が上がっていると言える。しかし、既存の暴力団組織の衰退の隙間を埋めるように、これまでとは別の暴力集団が台頭しつつある。

 たとえば、不法入国者や不法残留などの外国人が、大都会などで徒党を組み〇〇マフィアなどと呼ばれ、既存暴力団の勢力を脅かすようになった地域がみられる。また、暴走族や不良集団から派生した「半グレ集団」などと呼ばれる暴力集団が、集合離散を繰り返し、実態がつかめないまま勢力を拡大している。これらはその実態が把握できにくいため、今後も大きな問題となっていく可能性がある。

 

(冬夏オリンピック同年開催)

*1992.2.8/h4 フランス アルベールビル冬季オリンピック開幕

*1992.7.25/h4 バルセロナオリンピック開幕

 

 1992年2月にフランスで、アルベールビル冬季オリンピックが開かれ、同年7月にはスペインで、バルセロナ夏季オリンピックが開催された。冬季と夏季の五輪が同年に開催されたのはこれが最後で、この2年後1994年のリレハンメル冬季五輪以降、夏季の間の4年ごとに冬季は実施されるようになった。

 

アルベールビル冬季五輪>

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 アルベールビル冬季オリンピックは、1992年2月8日から2月23日までフランスのサヴォワアルベールビルで行われた。アルベールビルはフランス東部のアルプスの山麓にある小さな町で、アルプスをへだててイタリアやスイスに隣接する。

 開会式および閉会式の演出は若手振付家・演出家フィリップ・ドゥクフレに委ねられ、夏冬通してオリンピック初の夜の開会式となった。開会式では、少女が一羽の鳩を空中に放ち「ラ・マルセイエーズ」を歌うオープニング、空中ブランコや竹馬などサーカスの技、南仏の民族舞踊、アイスダンスなどによって人々が華麗に空を舞い練り歩く祝祭が繰り広げられた。

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 ソビエト連邦の崩壊やベルリンの壁の消滅といったヨーロッパ情勢の大きな変化を反映し、旧ソ連は統一チームEUNを結成、ドイツも旧ドイツ民主共和国東ドイツ)との統一チームで参加した。また新独立国として、旧ソ連リトアニアラトビアエストニアクロアチアスロベニアなどの冬季競技の盛んな国が加わった。

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 日本選手団では、ノルディック複合男子で荻原健司・河野孝典・三ヶ田礼一の日本チームが、ヨーロッパ以外の国では初の金メダルを獲得した。フィギュアスケート女子の伊藤みどり、スピードスケート男子 500mの黒岩敏幸は、ともに金メダルの希望もあったが銀メダルを獲得し、同種目の井上純一、1000mの宮部行範、女子 1500mの橋本聖子ショートトラック男子 5000mリレーチームは銅メダルを獲得して、気を吐いた。

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バルセロナ五輪

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 1992年7月25日から8月9日までの16日間、スペインのカタルーニャ自治州州都バルセロナで、バルセロナオリンピックは開催された。カタルーニャピレネー山脈をはさんでフランスに接し、地中海に面した地域で、独自の文化・言語を持ち、スペイン中央政府からの独立運動が盛んな地域である。

 スペインは、カタルーニャ以外にもバスク、アンダルシアなど異なった歴史・文化を持つ地域をたくさん抱えており、首都マドリードよりも先にバルセロナで五輪が開催された意味も大きい。盛んなサッカーでも、リーガ・エスパニョーラでは、レアル・マドリードFCバルセロナがライバルとして人気を二分している。

 

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 https://www.youtube.com/watch?v=MhHd9lDzXmM

 開会式では、国王フアン・カルロス1世によって開会が宣言され、三大テノールの1人として著名なホセ・カレーラス音楽監督を務めた。ソプラノ歌手ジェシー・ノーマンが「アメイジング・グレイス」を歌い、後半では坂本龍一が地中海の神話をモチーフにしたマスゲームの音楽を作曲、指揮した。
 聖火台への聖火の点火には弓矢が用いられた。担当したのはパラリンピックのアーチェリー選手のアントニオ・レボージョであった。この演出については、五輪史上最も劇的で美しいとの呼び声高い演出といわれる。

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 この大会では、アルベールビル冬季大会と同様、旧ソ連圏の独立国の大半がEUN選手団として参加、団体種目の表彰式では五輪旗とオリンピック賛歌が使われ、個人種目では各国の国旗および国歌が用いられた。EUN選手団全体では、金45個・銀38個・銅29個の合計112個と、アメリカを上回って最多のメダルを獲得した。

 競技別では、男子バスケットボールでアメリカが、NBAプレイヤーで固めた「ドリームチーム」を結成、他チームを圧倒して金メダルを獲得した。また、この大会から野球が初の正式種目となり、アマチュア大会で無敗記録を続けていたキューバが金メダルを獲得、日本は銅メダルにおわった。

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 日本選手団では、柔道男子78キロ級で吉田秀彦が金メダルを獲得したが、その吉田との大会直前の乱取りで、日本柔道のエースで同71キロ級の古賀稔彦が左膝を負傷するという事故が発生する。しかし古賀は負傷をおして出場し、吉田とともに金メダルを獲得した。

 女子競泳では、当時中学2年生で14歳のダークホース岩崎恭子が、200m平泳ぎでオリンピックレコードを書き換えて金メダルを獲得した。陸上競技ラソンでは、男子で森下広一が24年ぶりの銀メダルを獲得、女子でも有森裕子が、女子陸上競技で64年ぶりとなる銀メダルを獲得した。バルセロナ五輪での日本選手団のメダル獲得数は、金3・銀8・銅11で合計22個となった。

 

(この年の出来事)

*1992.1.22/h4 脳死臨調最終答申 「脳死は人の死」

*1992.2.8/h4 フランス アルベールビル冬季オリンピック開幕

*1992.2.14/h4 東京佐川急便事件 前社長らを特別背任容疑で逮捕

*1992.3.1/h4 「暴力団対策法」施行

*1992.3.14/h4 東海道新幹線「のぞみ」運行開始

*1992.3.18/h4 日本医師会 生命倫理懇談会 尊厳死容認を打ち出す

*1992.3.25/h4 アルベールビル冬季オリンピック開幕

*1992.5.22/h4 映画監督 伊丹十三氏襲われる

*1992.6.15/h4 国連平和維持活動(PKO)協力法成立

*1992.7.25/h4 バルセロナオリンピック開幕

*1992.8.16/h4 松井秀喜 甲子園で5打席連続敬遠

*1992.9.3/h4 バルセロナパラリンピック開幕

*1992.9.12/h4 学校週5日制スタート

*1992.10.17/h4 米ルイジアナ州留学中の高校生 拳銃で撃たれて死亡

 

『Get Back! 90’s / 1991年(h3)』

『Get Back! 90’s / 1991年(h3)』

 

《この年のキーワード quote NHK平成30年の歩み》

バブル崩壊 地球にやさしい 紺ブレ 「どんな時も」 ジュリアナ東京

  

湾岸戦争開始)

*1991.1.17/h3 湾岸戦争始まる

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 1980年から8年にわたって戦われた「イラン・イラク戦争」は、両国に多大な経済的打撃を与えた。イラクは戦費のためクウェートに生じた負債を、石油の輸出でまかなおうとしたが石油価格の低下で思うにまかせず、1990年8月2日、ついにクウェートに侵攻した。

 クウェートを占領し続けるイラクに対して、国連安保理では即時無条件撤退を求め、さらにイラクへの経済制裁を行う決議をおこなうも、サッダーム・フセイン大統領はこれを拒否、国連軍の編制は出来なかったため、アメリカのブッシュ大統領(パパブッシュ)は「多国籍軍」という名目で攻撃を決定し、利害のからむ英・仏をはじめアラブ産油国の多くが参加した。

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 1991年1月、アメリカを中心に非戦闘参加国を含む合計35ヵ国による多国籍軍が、イラクに対して攻撃を開始した。「砂漠の嵐作戦」と呼ばれる多国籍軍空爆が行われ、のちに「湾岸戦争」と呼ばれる43日間に及ぶ戦闘が始まった。

 17日未明、多国籍軍イラクへの爆撃を開始した。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく作戦で、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれた。

https://www.youtube.com/watch?v=eFjsa0RwhOY

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 アメリカ海軍は巡航ミサイル「トマホーク」を使用、アメリカ空軍はB-52から空中発射巡航ミサイル(ALCM)を発射し、米のニュース専門放送CNNがその空襲の様子を生中継して、世界中が居ながらにしてゲームさながらの電子戦争を目の当たりにした。アメリカ空軍はイラク軍防空組織に攻撃を加え、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。

 フセイン大統領は、イスラエルへ向けスカッドミサイルを発射し、アラブ(イスラーム)世界を、対イスラエルとその支持国(米国および親米追随国)に向けて協調させようと企図した。

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 イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イスラエルユダヤ)対アラブ(イスラーム)の「異教徒間戦争」という、フセインの目論見通りになること防ぐため、アメリカや国連はイスラエル政府の自制をもとめ、フセイン大統領のもくろみは水泡に帰した。

 続いてフセインは、サウジアラビアなど近隣アラブの多国籍軍協力国にミサイルで攻撃を行い、アラブの裏切り者を制裁するとしたが、「不法な侵略者イラク」という国際社会の認識は揺るがなかった。

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 1か月以上にわった空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊され、2月24日に空爆が停止されると、多国籍軍は地上戦に突入しイラク領に侵攻した(砂漠の剣作戦)。地上戦開始から100時間後にイラク軍は撤退開始し、2月27日にはクウェート市が解放され、2月28日に戦闘は終結した。

 3月3日に暫定停戦協定が結ばれ、4月3日には「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器の廃棄」などの国連安保理決議が採択された。しかし、フセインイラク軍の主力の温存に成功しており、その後も国際原子力機関IAEA)査察を拒否するなど頑強に抵抗し、これが2003年のジョージ・W・ブッシュ大統領(ブッシュ・ジュニア)によるイラク戦争の伏線となった。

 

 (信楽高原鉄道事故)

*1991.5.14/h3 信楽高原鉄道事故 42人死亡

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 1991年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町(現甲賀市信楽町)の「信楽高原鉄道信楽線の小野谷信号場 ~ 紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車(4両編成)と、京都発信楽行きのJR西日本の直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(3両編成)とが正面衝突した。

 両方の先頭車両は原形をとどめないぐらい押しつぶされ、JR西日本側乗客の30名、信楽高原鉄道側乗員乗客の12名、合わせて計42名が死亡し、双方の乗員乗客600名以上が重軽傷を負う大惨事となった。臨時快速列車は乗客で超満員の状態(定員の約2.8倍)であったため、人的被害が非常に大きくなった。

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 信楽町滋賀県の南東(甲賀地方)に位置し、奈良時代には聖武天皇の「紫香楽宮」が存在したとされ、現在は狸の陶磁器などの「信楽焼」で有名である。普段は山間にあるひっそりとした町だが、当時は「世界陶芸祭しがらき'91」が4月20日から開催されており、信楽高原鉄道の輸送能力をはるかに超える来場者輸送に追われていた。

 信楽高原鉄道は、JR西日本草津線貴生川駅から分岐し、 信楽駅に至る全長14.7kmの非電化単線路線で、もとはJR西の信楽線が転換され、第三セクター鉄道事業者の信楽高原鉄道(株)によって運営されていた。

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 「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」の開催にあたって、信楽高原鉄道の輸送力が不足するので、実行委員会は信楽高原鉄道JR西日本に対し協力を要請し、信楽高原鉄道は行き違いのできる無人の「小野谷信号場」を設けるなど、大幅な増強工事を実施するとともに、JR特別列車が直接乗り入れることを可能なシステムを構築した。

 しかしそのために複雑な信号システムとなり、そこに信楽高原鉄道JR西日本という運転システムが異なる慣れない乗務員が乗り入れることになり、十分な事前訓練もなされないまま、世界陶芸祭への臨時運行ダイヤが組まれた。

 

 改修した急造の信号システムはトラブル続きで、その都度信楽高原鉄道の社員が、非常時対応マニュアルも整備されないまま手動で対応することになった。その上、信楽高原鉄道・JR西はそれぞれ別個に、各自無許可で信号制御の改造をしており、両社の意思疎通も取られていなかった。

 このような状況で5月14日10時18分、JR西の京都駅発下り臨時列車「世界陶芸祭しがらき号」は、2分遅れで貴生川駅を発車した。一方、信楽高原鉄道上り普通列車は、信楽駅の出発信号機が出発指示に変わらず待機していたが、10時24分手動信号に切り替え、10分遅れで列車を出発させた。

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 「貴生川駅」から「信楽駅」を結ぶ信楽高原鉄道は全線単線区間で、交互入れ替えできるのは新規設置された「小野谷信号場」だけであった。したがって、小野谷信号場より下り区間信楽駅側)及び、信号機より上り区間貴生川駅側)のそれぞれの区間は信号機による閉塞方式として、決して両側からの列車が同時に入らない仕組みとされていた。

 出発信号が出ないため信号トラブルと考えた信楽高原鉄道側は、手動制御に切り替えるため小谷野信号場に車で社員を向かわせたが、渋滞で信号場に到着しない間に見切り発車させてしまった。これは明らかに運行手順違反であり、自己の第一の原因は信楽鉄道側にあるとされた。

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 しかし信楽駅からの上り列車の誤出発が検知された場合、小野谷信号場の下り列車用の信号が赤なるはずであったが、小野谷信号場の信号は青になっており、唯一生き延びたJR特別列車の運転士は、信号を信用して信号場を通過した。

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 信楽駅から信号場の区間には幾つかの小駅があるが、すべて単線通過駅であり、行き違い線は設けられていない。しかも信号場に最寄りの紫香楽宮跡駅を、信楽鉄道普通列車はすでに通過していた。そして10時35分、JR西快速501D列車と信楽鉄道534D列車とは正面衝突し、多数の犠牲者を出す大事故が発生した。

 

ユーゴスラビア内戦)

*1991.6.25/h3 ユーゴスラビア連邦から2共和国が独立宣言、内戦が始まる。

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 ユーゴスラビアは、第二次世界大戦中の1943年に「ユーゴスラビア民主連邦」として建国を宣言し、1946年には「ユーゴスラビア連邦民共和国」となり、1963年には「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。ヨシップ・ブロズ・チトーの強力な指導の下、共産主義国として冷戦下の東側陣営にありながら、ソ連の衛星国とはならず独自の共産主義を推進し中立政策を維持した。

 しかし、6つの共和国からなる連邦国家であり、民族構成の複雑さから「人種のモザイク」と呼ばれ、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」とも言われた。

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 チトーのカリスマ性のもとで東側陣営として1つにまとまっていた各民族は、1980年のチトーの死と1989年の冷戦終結によって、その統一性を維持できず、各民族が独立を目指すユーゴスラビア紛争が始まった。

 ユーゴの中核を占めるセルビア共和国では、大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民の多いコソボ自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となった。

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 1991年6月25日、スロベニアクロアチアが同日に独立を宣言し、セルビアが主導権を握るユーゴスラビア軍と内戦となる。文化的宗教的に西欧・中欧に最も近いスロベニアは、10日間の地上戦で独立を達成した(十日間戦争)。ついで独立宣言をしたマケドニア共和国も、無血で独立する。

 かつてからセルビアと最も対立していたクロアチアは、スロベニアと共に1992年1月、EC(欧州共同体)によって独立を承認された。しかし、クロアチア内にはセルビア人が多数を占める地域があり、それを支援してセルビア人主導のユーゴスラビア軍が介入、クロアチア人とセルビア人が泥沼の内戦を展開したが、4年の戦争の末に1995年に独立を獲得した(クロアチア紛争)。

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の気運が高まり、1992年3月に国民投票が行われ、独立が決定された。しかしボスニアには、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)が混在して住んでおり、セルビア人は独立に反対して国民投票を放棄した。こうした中で、宗教を異にする3民族が入り乱れての紛争に発展した。

 数の上で最多で独立を主導したボシュニャク人は、オスマン帝国支配下イスラム教に改宗した南スラブ人であり、クロアチア人は同じく南スラブ人に属するが、ローマカトリック教徒が多い。さらにセルビア人は、南スラブ人の一派だが、正教会ギリシャ正教)の信者でセルビア正教会に属している。

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 民族・言語的には似かよっているが、歴史的経緯から宗教的・文化的な相違が激しく、これら3民族が激しく戦うことになった。ボシュニャク人主導で独立宣言をしたボスニア政府に対して、セルビア人やクロアチア人は民族ごとの共同体を作って対抗した。

 セルビア人の共同体は、「ボスニア・ヘルツェゴビナセルビア人共和国(スルプスカ共和国)」として、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言し、旧ユーゴスラビア軍がそのままスルプスカ共和国軍となった。

 

>>「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた『サラエボの花(2006)』は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。<<

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https://www.cinemacafe.net/movies/20025/

 

 ボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府と、セルビア人・クロアチア人の2つの分離派国家が鼎立し、互いに「民族浄化」と呼ばれる大虐殺を繰り返した。1994年にはアメリカの主導で、ボスニア中央政府クロアチア人勢力との間で停戦が成立、両勢力は優勢だったセルビア人勢力に対して反転攻勢をはじめ、またNATOによる空爆などの軍事介入も行われ、1995年に国際連合の調停で和平協定に調印し、やっと紛争は終結した(ボスニア紛争)。

 さらに、多くの共和国が離脱した旧ユーゴは、セルビア共和国モンテネグロ共和国によって「ユーゴスラビア連邦共和国」(通称・新ユーゴ)として維持されていたが、2006年5月、モンテネグロ国民投票の結果で独立宣言し、ユーゴスラビアの名前は地図から消滅した。

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 また、アルバニア系住民が多数を占めるコソボでは、1990年にセルビアミロシェヴィッチにより自治権を剥奪され、その反発からユーゴ内戦のきっかけになったが、1996年から1999年にかけて「コソボ紛争」と呼ばれる激しい独立活動に発展した。

 2008年2月コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択したが、これにセルビアは反発し、国連加盟国による承認が進んでいるにもかかわらず、現在も公的には独立を認めていない。

 

ソビエト連邦消滅)

*1991.8.19/ ソ連でクーデター

*1991.12.26/h3 ソビエト連邦消滅

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 ソビエト連邦は、1917年ロシア帝国を倒したロシア革命に始まり、二月革命で成立した臨時政府を、ウラジーミル・レーニンらが指導するロシア社会民主労働党ボリシェヴィキが転覆させ、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国を設立した。

 十月革命のあと、革命派赤軍反革命派白軍との間にロシア内戦が始まったが、赤軍は旧ロシア帝国領に侵攻し、ソビエトを通じ現地の共産主義者の権力掌握を支援した結果、1922年、ロシア・ザカフカースウクライナ白ロシアベラルーシ)などの各共和国を統合し、マルクス・レーニン主義を掲げた「ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)」が成立した。

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 1924年レーニンが死去すると、ヨシフ・スターリンが政権を掌握する。スターリンは、世界革命を目指したレーニンの方針を継承するレフ・トロツキーなど政敵を次々と粛正し、マルクス・レーニン主義を国家イデオロギーとする一国社会主義を推進し、計画経済を中心にして、急速な工業化および集団農場化を達成した。

 しかしスターリンは秘密警察と密告を最大活用し、政敵のみならず軍事指導者・共産党員・一般市民などを大規模に摘発する大粛清を行い、多数の国民を矯正労働や処刑に追い込む恐怖独裁政治を展開した。

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 スターリン独裁のソ連は、第二次大戦のナチスドイツの侵略を、多大な犠牲者を出しながらも防衛し通し、戦後には東ヨーロッパ諸国にスターリン主義的な社会主義政権を導入してソ連の衛星国とし、ワルシャワ条約機構で東側諸国を組み込んだ東側陣営を構成した。こうして戦後の東西冷戦時代が始まり、スターリンベルリン封鎖朝鮮戦争など世界各地での代理戦争を展開した。

 1953年にスターリンが死去すると共同指導体制に移行したが、1956年にニキータ・フルシチョフ首相がスターリン批判を行い、スターリン路線の行過ぎた独裁政策は大幅に緩められた。

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 1964年、フルシチョフは、農業政策の失敗とキューバ危機での米国への妥協などで失脚する。レオニード・ブレジネフが指導者となると、中ソ対立が激化し中華人民共和国の西側への接近を許すことになるなど、東側諸国への支配力にゆるみが生じ、チェコスロバキアの民主的改革(プラハの春)に対しては軍事介入するが、ソ連は強い国際社会の批判を浴びた。

 ベトナム戦争ではホー・チ・ミン率いる北ベトナムを支援したが、この戦争では南を支援したアメリカが疲弊した。しかし1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻は、逆にソ連経済を疲弊させるとともに、国際社会から批判を浴びて孤立を招く。このアフガニスタン侵攻が、ソ連崩壊の大きな原因となった。

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 ブレジネフ政権は18年にわたった長期政権で、その間に官僚主義がはびこり、改革は進まず経済面でも停滞し、一方で西側諸国の豊かな生活の情報が入り出すと、国民の不満が高まった。1982年にブレジネフは死去するが、後継のアンドロポフやチェルネンコは老齢で、内外に累積する問題に対処できず、短期政権に終わる。

 そして、ますます深刻化した経済的危機を打開すべく、1985年3月に誕生したのがミハイル・ゴルバチョフ政権だった。ゴルバチョフ社会主義体制の改革・刷新を掲げ、ペレストロイカ(改革)・グラスノチ(情報公開)を掛け言葉に改革を推し進めた。

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 しかしこれらの一連の政治経済改革は一定の成果を上げた反面、改革の範囲やスピードを巡ってソ連共産党内の内部抗争を激化させた。保守派は、改革の進展により自らの既得権益が失われることに強く反発した。穏健改革路線をとるゴルバチョフは、保守派と急進改革派の板挟みになり、抜本的な改革を推進できなかった。しかもソ連経済は、すでに改革不可能なほど末期的であった。

 急進改革派のボリス・エリツィンらは、遅々として進まない改革に不満をもつ民衆の支持を得て急激に勢力を伸ばし、この急進派の躍進は保守派を焦らせてクーデターへと駆り立てた。1991年8月、保守派がゴルバチョフを軟禁してクーデターを図るが、ロシア共和国大統領に転身していたエリツィンたちの反撃によって失敗に終わる。

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 1991年12月、エリツィンらに詰腹を切らされたゴルバチョフが大統領を辞任し一線を退くと、ソビエト連邦は解体されてCIS(独立国家共同体)という緩やかな国家同盟へと変容した。ソ連邦を構成していた12共和国のうち11共和国がCISがに移行し、残されたロシア連邦共和国が、ソ連邦成立以前のロシア帝国の後継国家として継承し、約70年間にわたって続いた大国ソビエト連邦は解体し消滅した。

 

(この年の出来事)

*1991.1.24/h3 政府 多国籍軍支援で90億ドルの追加資金協力

*1991.3.9/h3 美浜原発 原子炉自動停止事故

*1991.3.14/h3 広島新交通システム橋桁落下事故 15人死亡

*1991.3.19/h3 成田エクスプレス運行開始

*1991.4.1/h3 東京都 新宿の新庁舎 開庁

*1991.4.26/h3 自衛隊ペルシャ湾への掃海艇派遣部隊が出発

*1991.5.14/h3 信楽高原鉄道事故 42人死亡

*1991.5.14/h3 横綱 千代の富士 現役引退 通算1045勝

*1991.6.3/h3 雲仙普賢岳火砕流発生 死者・行方不明者43人

*1991.6.25/h3 ユーゴスラビア連邦 2共和国が独立宣言 内戦に

*1991.8.19/ ソ連でクーデター

*1991.9.17/h3 南北朝鮮が国連に加盟

*1991.9.27/h3 台風19号列島縦断 大きな被害

*1991.1.5/h3 宮沢喜一内閣発足