アメリカ独立戦争

アメリカ独立戦争

 

植民地時代以前(先コロンブス期)
詳細は「ノース人によるアメリカ大陸の植民地化」を参照

ランス・オ・メドーヴァイキング入植地跡
北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。彼らインディアンは氷期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。こうした人々インディアンは母系社会による独自の文化を育んだが、広大な土地に比べれば、人口はごくわずかであった。インディアンによる統一したアイデンティティは発生せず、部族それぞれが独自の国家を形成する形で分散した。

なお10世紀末頃ノルマン人(ヴァイキング)の航海士レイフ・エリクソン率いる船団が北米へ達しアメリカ大陸を発見したとサガに記されている。一行は現在のカナダのバフィン島に到達し、そのまま南下をしニューイングランドからニューヨーク州一帯を新天地として「ヴィンランド」と名付け定住を試みたが、先住民のスクレリングと折り合いがつかず抗争へと発展し長続きはせず、十年ほどで放棄されレイフ・エリクソン一行は元の入植地であるグリーンランドへと戻ったとされている。

現在では、カナダのニューファンドランド島で彼らの定住地跡であるランス・オ・メドーが発見され世界遺産に登録されるなど、彼らの存在は認知されることとなったが、当時彼らが新大陸に達したという情報はヨーロッパ諸国ではあまり知られておらず、定住が頓挫し領有もしなかったためアメリカ大陸の「白人初の発見者」とはされず、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていないのが現状である。

近世まで北米には中南米に匹敵するインディアン文明が存在しないとされていたが、近年発掘が進み、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在が、マウンド(土塁)群と呼ばれる墳墓遺跡によって確認された。そのうちもっとも大規模なものはイリノイ州セントルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺跡は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。

植民地時代 (1493年〜1776年)
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」、「オランダによるアメリカ大陸の植民地化」、「スウェーデンによるアメリカ大陸の植民地化」、および「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

ピルグリムファーザー (N.Y.)
イタリア半島を中心としたヨーロッパでルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルとスペインがいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島に到達した。これに引き続き、1498年英国人ジョン・カボットが北米大陸東海岸を探検し英国がこれを領有(ニューイングランド植民地)、1534年フランス人ジャック・カルティエセントローレンス川を遡ってこれをフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓、インディアンに対する領土略奪と虐殺がはじまった。コロンブスの上陸を記念する「コロンブス・デー (10月第2月曜日) 」は、インディアン虐殺の象徴日として毎年、全米でインディアンたちが抗議行動を決行する日でもある。

現在のアメリカ合衆国における植民地活動としての「開発」は、当初から多民族国家となる運命を辿るかの様に行なわれた。ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)植民地を築くなど、この「開発」は主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われた。しかし、それだけではなくニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバエスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、17世紀半ばはすでにに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。

宗教的に見ても、当初の移民はカトリックであったが、16世紀に欧州でプロテスタント(新教徒)出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植した。彼らは先発のカトリックやインディアンと敵対しながら勢力を伸ばし、1620年の移民は現在でもアメリカの新教徒の間で偉業として称えられている。しかし、インディアンたちからは民族虐殺の始まりとして「ピルグリム・ファーザーズの感謝祭」には、大規模な抗議が行われている。

西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はインディアンを奴隷化し、またこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ諸部族の黒人有力者から黒人を買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ諸国の黒人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。18世紀はもっぱらサウスカロライナ州を中心に、インディアン奴隷の売買が盛んであった。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。

17世紀から18世紀にかけて、英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、英国からの植民団が建設したニューイングランド植民地と、フランスからの植民団が建設したカナダとが対立し、植民地でも戦争が起こった。この一連の北米植民地戦争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続き、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。インディアンたちは英仏どちらにつくかを選択させられ、代理戦争を引き受けさせられた。そしてどちらが勝っても彼らの領土は没収され、部族は散り散りにさせられた。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口がインディアンを上回る地域が生まれた。

18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派を占める植民地とイングランド国教会の本国は軋轢があったが、この頃には精神的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持っていた。

英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここでさらに重商主義政策を敷くことでさらに植民地を圧迫した。また、フランスとの長い戦争中で必要となった自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民が反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため英国は翌年これらを撤廃したが、今度は「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。また、英国は1660年代から囚人の流刑地としてアメリカを利用していたが独立戦争が始まったことにより巨大な流刑地を喪失し刑執行が困難になり、これが新たな流刑植民地としてのオーストラリアの歴史へとも繋がっていく。

ジェファーソンは1778年にデラウェア州デラウェア族と「インディアン条約」を初めて結び、以後、合衆国はインディアンから武力を背景に領土を購入し、彼らを保留地(Reservation)へ追いやるという政策を推し進めていく。インディアンには土地を売り買いする文化は無かったので、これが理解されたとは言い難く、数々の「インディアン戦争」に結びついた。そして必ずその結果はインディアンの領土のさらなる縮小となった。

独立戦争と国家建設 (1776年〜1789年)
詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1776-1789)」を参照

アメリカ合衆国憲法への署名(Howard Chandler Christy・画)

ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)
アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。

しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年フィラデルフィア憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時はアメリカ合衆国議会の前身である連合会議議長の肩書きとして使われていたものであり、執行権の無い親分的な意味合いしかないものだった。ワシントンは新しい共和国がヨーロッパの帝国の模倣にならないよう国王や皇帝との違いを表す為に、ミスタープレジデントという呼称を好み、最高執行権者となった大統領にそのような特別な権威がないことを印象付けさせたものである.[1]。

【映画「ひまわり」】

【映画「ひまわり」】

f:id:naniuji:20210608205143j:plain

https://www.youtube.com/watch?v=1o9bg9L7Uto
「ひまわり」(1970)を観た。その音楽と予告編をみただけで、気にはなっていた。ソフィア・ローレンとマストロヤンニが、こんな「純愛」を演じるのが意外だったw

ストーリーは「シェルブール」とほぼ同じで、戦争で引き裂かれた二人が、互いに家庭をもったあとに再開する悲恋ということだが、全編、歌だけで綴る「シェルブール」に比べて、当然、物語も演技にも奥行きが必要とされる。

いかにも日本人好みの物語だが、アントニーとジョバンナが、戦争前のわずかな休暇を楽しむ、底抜けに明るい恋人のシーンだけは、ウェットな日本人ではありえないぶっ飛び方で、さすがに笑ったが、後半の悲恋シーンとの対比は、さすがだと思った。

【鯖寿司とバッテラ】

【鯖寿司とバッテラ】

 

f:id:naniuji:20210510183345j:plain

 京都紫野の今宮神社では、毎年5月初めから15日にかけて、「今宮祭」が行われる。紫野御霊会に起源をもち、京都を代表する機業地である西陣の祭礼として発展したもので、近世には祇園祭にも匹敵する盛大な祭りだった。

f:id:naniuji:20210510183731j:plain

 子供の頃、今宮神社の氏子区域住む伯母が、毎年の今宮祭の時期になると、料理屋に作らせた「鯖寿司」を持ってきてくれた。竹の皮に包まれ、大きな脂ののった〆め鯖を丸ごと使った豪華な鯖寿司で、大阪のバッテラを始め、各地に鯖を使った寿司はあるようだが、私にとっては、これが唯一無二の鯖寿司だった。

f:id:naniuji:20210510183700j:plain

 海から遠く離れた京都の町では、日本海側の福井県若狭地方で水揚げされた真鯖に一塩して、大至急で山を越えて運ばれた高級魚であり、その道筋は「鯖街道」と呼ばれた。鯖寿司は有名な京料理の一つでもあり、古来から京都の家庭では、祭りなどの「ハレ」の日に食されたご馳走であり、また冷蔵庫のない時期には、塩と酢でしめた保存食品でもあった。

f:id:naniuji:20210510183815j:plain

 一方、同じく鯖を使った大阪のバッテラは、その起源をまったく異にする。明治半ばに大阪の寿司店が、コノシロの片身を開き舟形にしたものを使った寿司を作ったのが、その始まりといわれ、コノシロを開くと尾の方は細いので、飯も片側を尖らせたその姿が小舟に似ていた。このことから、ポルトガル語の 「バテイラ(小舟/ボート)」からバッテラと呼ばれるようになったとされる。その後、コノシロの価格が急騰し、サバを使うようになったのが、今の「バッテラ」なのだとか。

f:id:naniuji:20210510183901j:plain

  バッテラは、酢飯に酢締めにした鯖を乗せ、さらに薄く削られた白板昆布を重ねた押し寿司で、鯖の身が足りない部分には、へいだ身を添えるなど、あまりこだわりのない作り方で、庶民の寿司とされている。

 一方、鯖寿司は、酢飯に立派な真鯖の酢締めした半身をのせ、巻き簾や布巾で形を整えたもので、羅臼昆布のような、やわらかい高級昆布で包んだものが多い。バッテラのような枠で押す工程がなく、四角い切り口になるバッテラに対して、鯖寿司の切り口は角のない丸みを帯びた形となる。

f:id:naniuji:20210510183946j:plain

 かつては庶民の家でも、祭礼などハレの日のために鯖寿司を作っていたが、その風習も廃れ、祇園の「いづう」や「いづ重」などの高級鯖寿司が、贈答用に用いられることが多くなっている。これじゃ、われわれ庶民は気軽に鯖寿司を食べられない、ということで、安いノルウェー産塩鯖で「焼鯖寿司」を作ってみた。まあ、なんとかなる(笑)

 

 

【京都の三大漬物/すぐき】

【京都の三大漬物/すぐき】

 

f:id:naniuji:20210510090242j:plain

 京都の三大漬物といえば、「柴漬」・「千枚漬け」・「酸茎(すぐき)」となるだろう。柴漬や千枚漬けは、いまではほぼ全国に出回っていると思われるが、「すぐき」はなかなか手に入りにくかった。すぐき蕪(かぶら)の乳酸発酵漬物なので、発酵をすすめないで、長期間、同じ品質を保持するのが難しいのがその理由である。

  「すぐき」は、その独特の酸味が特徴なのであるが、その味になじみのない人が多いので、例えば関東の知人に贈ったところ、腐っていると思って捨てた、などという笑い話もあったぐらいだ。 

f:id:naniuji:20210510090341j:plain

 この「酸茎(すぐき)」ないし「酸茎漬け(すぐきづけ)」は、伝統的な京漬物で、京都市北区の「上賀茂」と呼ばれる地域の特産となっている。この地域のみで栽培される「酸茎菜(すぐきな)」または「酸茎蕪(すぐきかぶら)」の葉とかぶらを原材料として、独自の製法で漬け込んだものである。

 「冬はいみじう寒き、夏は世に知らず暑き」と清少納言枕草子にしたためた京都の気候に育まれるように、すぐき菜は夏の終わりに種蒔きされ、11月下旬ごろから12月初旬に収穫される。12月になると、上賀茂地域の農家の軒先では、独特の「すぐきの天秤押し」があちこちで見られ、丸太棒の先に重石をくくりつけてテコの原理で圧力をかけた樽が並ぶのが、上賀茂の冬の風物詩となっている。

f:id:naniuji:20210510090431j:plain

 上賀茂神社から流れ出た明神川が流れる上賀茂本通りには、社家(しゃけ/上賀茂神社神職を出す家)がたち並び、独自の景観をかもし出している。その社家並びの向かい側には、300年の伝統をほこる「御すぐき處京都なり田」が門をかまえ、その威厳のある店の雰囲気は、一見、入りにくい気さえするが、入ってみれば納得できる店である。

f:id:naniuji:20210510090539j:plain

  上賀茂本通りと北山通りに挟まれた一帯は、かつて畑地がひろがり、すぐき菜が栽培されていたが、いまではほとんどが宅地化されている。昭和30年代半ば、進駐軍の居住地として接収されていた府立植物園が返還され整備が始まると、畦道しかなかった植物園の北側に北山通が通され、加茂川に北山橋が架けられ、それを機会に一気に宅地化が進められた。

f:id:naniuji:20210510090615j:plain

 わたしが子供の頃には、上賀茂・西賀茂の農家のおばさんが、毎朝、綿がすりにモンペ姿で、大きな大八車を曳いて野菜を「振り売り」に来ていた。夏場は朝採りの茄子に胡瓜、そして子供の頭ぐらいある大きなトマトなどを積んで来て、子供たちは井戸水で冷やしたトマトに塩を振るだけで、かぶりついたものである。

 そして、冬場から春にかけては、白菜、大根などともに、漬けこんだすぐきを樽ごと積んできて、葉の部分は切り落として、株の部分だけ目方を量ってくれる。もちろん葉も必要なら、無料でくれたと記憶している。夏場のトマト、冬場のざく切りしてお茶漬けで食べるすぐきは、いまでも忘れられない味覚だった。

 

【餃子の王将一号店】

餃子の王将一号店】

 

f:id:naniuji:20210511204734j:plain

 昭和53年に所帯を持って、旧市電壬生車庫あとの公団住宅に住んだ。四条大宮に近く、利便の良い場所だった。四条大宮には、阪急京都線の終点で、京福嵐山線の始点でもあり、かつてはターミナルであったが、阪急が河原町まで延伸するなど、ターミナルとしても商業集積地としても、半端な場所となった。

f:id:naniuji:20210511204814j:plain

 しかし北へ行けば三条商店街があり、祇園祭宵山では、浴衣に下駄で四条まで歩けば、そのまま鉾が立ち並んでいる。そして近くには、安くておいしい食堂がいくつもあった。そのひとつ、団地を出て四条に向かう途中にある、狭い階段を上った二階の中華料理店には、毎日のように通った。

f:id:naniuji:20210511204926j:plain

 いま思うと、それが「餃子の王将」一号店だった。現在、その四条寄りに「王将発祥の地」とプレートが埋め込まれた大きな店があるが、当時の記憶では、その手前の狭いテナントビルの二階に店があったと思う。その後、会社の転勤で5年ほど京都を離れていたが、帰って来て宇治に住んだので、こちらでも王将のお世話になった。

 しかしこの時期、王将チェーンはロードサイドに大型直営店を展開し出していた。バブル景気に差し掛かる頃で、ダイエー方式で借入金で郊外に土地を手当てして出店して、その土地が値上がりして、さらに大型店舗の出店を展開するという狙いだったのだろう。

f:id:naniuji:20210511205619j:plain

 しかしバブルがはじけて、王将も苦境に陥った。食品メニューは値上がりしボリュームも少なくなった。直営店では従業員のモラルも落ちて、生ぬるいラーメンが出てきたときは驚いた。

 そもそも王将チェーンには、街中のパパママ経営の食堂をチェーン店化したものが多く存在し、これらの店はコストを低く抑えられるので、工夫しながら従来の品質を保持できていた。王将本部も、それらのメリットを再認識して、各店の独自メニューを奨励するなど、チェーン店の管理を緩やかにして、多様性を求める消費者の傾向とマッチした展開で復活した。

f:id:naniuji:20210511205021j:plain

 やがて直営の大型店舗でも、年配のしっかりした店長を配置して、中国語なまりのバイトに~ちゃんらをきちんと管理していたようだ。当方がよく行く宇治店では、独自メニューとして抹茶ラーメンなどをラインナップしたが、さすがにこれは、間もなく消えたw

f:id:naniuji:20210511205221j:plain

 「餃子の王将」(王将フードサービス運営)は、「大阪王将」(イートアンド運営)と、その名称の商標権をめぐって訴訟沙汰になっていた。「大阪王将」は、「餃子の王将」の創業者の縁者が暖簾分けされて、大阪を中心に展開していたが、京都で市場が競合するようになったため、揉めたわけだ。私たちに取ったら、安くてうまいものを提供してくれれば、どちらでもいいのだが。

 

 

【北野天満宮など散策】

北野天満宮など散策】(2021.02.19)

  

 久々に京都市内を知人と二人で車で散策した。少々肌寒いが梅の時期というので、まずは「北野天満宮」に参った。感染症のせいで参拝客は少なく、駐車場もフリーで停められた。信仰心も色気もない年寄り二人なので、ろくな拝礼もせず、十数分ほどまわりを見まわして帰るというありさまだった。

f:id:naniuji:20210220182948j:plain

 北野天満宮は承知の通り、右大臣菅原道真公が藤原氏の讒言で、九州大宰府に左遷され、当地で没した後、都では落雷などの凶事がが相次ぎ、菅公の祟りだとして恐れられた。そこで、朝廷は菅公の官位を復し、御霊を鎮めるのにつとめ、40年以上して都の子供に託宣があり、現在地の北野に道真を祀る社殿を造営し、これが北野天満宮となった。

f:id:naniuji:20210220183013j:plain

 本来は、雷神となった道真公の御霊を鎮めるために祀られたが、学問の神として広く信仰されるようになり、現在では受験の神様として、受験生の絵馬がたくさん奉納されている。また、梅の花をこよなく愛した道真公ゆかりの梅は、境内にくまなく植えられ、この時期、最盛期を迎えている。

 

 さて昼時となり腹もへったので、弁当を買って「船岡山」のベンチで食べることになった。この船岡山は、何の変哲もない100m程度の小高い丘だが、まさに平安京大内裏の真北に位置し、歴史上、幾度も文献に登場する。

f:id:naniuji:20210220183911j:plain

 まず、枕草子では「岡は船岡」と称えられ、「徒然草」では、都の葬送の地として、鳥部野などと並べて挙げられている。保元の乱の後に、敗北した源為義一族がここで処刑され、応仁の乱の際には、西軍の陣地が築かれ、周辺は激しい戦闘で焼け落ちたが、「西陣」の名称はこれが所縁となった。

f:id:naniuji:20210220193509j:plain

 さらに、森鴎外は「興津弥五右衛門の遺書」という短編で、殉死を扱っている。明治天皇に殉死した乃木希典に衝撃を受けて、即日書き上げたと言われ、細川三斎の忠臣であった興津弥五右衛門は、三斎亡き後の始末をやり遂げ、殉死を願い出る。晴れて切腹を許された弥五右衛門は、細川家菩提寺大徳寺高桐院を出て、切腹の場所とされた船岡山麓の仮屋まで、十八町の間に敷き詰められた藁筵の上を、晴れがましく歩んだという。

 なお、船岡山の東側には、織田信長を祀った建勲神社がある。船岡山平安京の北方を護る四神相応の玄武に相当するとして、豊臣秀吉によって信長の廟所と定められたが、実現しないままだったのを、明治天皇により創建されたという謂れをもつ。

f:id:naniuji:20210220193603j:plain

 曇り空で寒いので、昼を済ませてその足で、紫野今宮神社の参道にある「あぶり餅」を食べに行った。あぶり餅については、かつて詳しく書いたので下記リンクに任せるが、近年は評判を呼んで満席が多かったが、今回は感染症の影響で、がらがらの座敷に上がってゆっくりできた。半世紀前の高校時代、授業をさぼって、ここにたむろして時間を潰した思い出が、よみがえって来たw

f:id:naniuji:20210220194028j:plain
 https://naniuji.hatenablog.com/entry/2019/03/30/175544

 

 f:id:naniuji:20210220193854j:plain

 ちなみに船岡山で食べた弁当は、北大路橋西詰にある「グリルはせがわ」の持ち帰り弁当、ここも通常は1時間以上待つのが状態だった。高校の同級生がここの息子で、半世紀以上前から営業している洋食屋だが、近年、SNSなどで評判になり、観光客でいっぱいとなった。ハンバーグ弁当がウリで、ここで弁当を買って、川を渡った府立植物園で食べると、半日を千円程度で過ごせるデートスポットです(笑)

 

【ゴッドファーザーⅡ/キューバ革命】

ゴッドファーザーⅡ/キューバ革命

 

 1958年の末、キューバでは、カストロゲバラの指揮する革命軍がハバナめざして進撃していた。アメリカ傀儡のバチスタ政権はほぼ崩壊の状況となり、12月31日の新春パーティで、バチスタは辞任演説をしている最中、宮殿にも人民が闖入してきて、翌1月1日そのまま隣国に亡命した。まもなく首都ハバナは革命軍によって制圧され、8日にはカストロハバナ入りし、名実ともに革命軍の勝利が確定した。

 f:id:naniuji:20201115141211j:plain f:id:naniuji:20201115141239j:plain

 このバチスタ政権崩壊の模様は、映画「ゴッドファーザーⅡ」で描かれている。マイケルは、キューバに君臨するマフィアのドンに招かれた年越しパーティーで、バチスタが演説するさなかに騒乱が会場を襲い、マイケルは群衆の中を空港へ逃げるが、途中で見かけた兄フレドは、マイケルを恐れるように群衆に紛れる。ドラマの重要な伏線が、歴史的事件を背景に描かれる。

 f:id:naniuji:20201115141343j:plain f:id:naniuji:20201115141412j:plain