【12th Century Chronicle 1181-1200年】

【12th Century Chronicle 1181-1200年】

 

治承・寿永の乱源平合戦

*1180.4.9/京都 以仁王平氏追討の令旨(皇子の命令)を発する。

*1180.5.26/山城 以仁王源頼政らが挙兵、宇治川をはさんで平氏軍勢と戦うも、敗死する。

*1180.8.17/伊豆 源頼朝が伊豆で挙兵する。

*1180.9.7/信濃 源義仲木曽義仲)が信濃で挙兵する。

*1880.10.20/駿河 源頼朝軍が、平維盛軍と戦い勝利する。(富士川の戦い

*1181.閏2.4/ 平清盛(64)没。

*1183.7.28/京都 5月に倶利伽羅峠平氏を破った源義仲が、入京する。

*1184.1.20/近江 源範頼義経軍が京に迫り、源義仲は戦死する。

*1184.2.7/摂津 源範頼義経軍が一ノ谷で平氏を破る。

*1185.2.19/讃岐 源義経が、屋島平氏を破る。(屋島の合戦

*1185.3.24/長門 源義経が、壇ノ浦で平氏を破り、平氏一門は滅亡する。(壇ノ浦の合戦)

 

(頼朝挙兵と義仲の入京)

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 治承4(1180)年4月、源頼政と挙兵した以仁王平氏軍の前に敗死するが、以仁王の下した平氏追討の令旨に、各地の源氏が呼応して立ち上がる。伊豆に流されていた「源頼朝」の下にも、叔父行家(義盛)によって令旨がもたらされ、挙兵を決意した頼朝は坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけ、8月17日に行動を起こす。

 頼朝は坂東一帯の統合を目指すが、その前に「石橋山の戦い」に突入してしまい、敗戦を喫して安房国(房総半島)に逃れることになる。その後、協力の軍勢を順次集め、勢力を回復して、10月6日鎌倉に入る。

 

 坂東一帯を平らげる勢いの頼朝勢は、都から派遣された平維盛率いる追討軍を、10月20日富士川で迎えうち勝利する(富士川の戦い)。その翌日、頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた異母弟の九郎「義経」と対面した。

 一旦鎌倉に戻った頼朝は、後の鎌倉幕府で軍事と警察を担うことになる「侍所」を設け、和田義盛をその別当に補すなど、東国の体制作りに時間を割く。この間、治承4(1180)年末までに、各地の源氏らが次々と挙兵、全国は動乱状態となった。

 

 平家も福原から京都に都を戻して反撃に転じるが、養和元(1181)年閏2月4日、平家を統括してきた平清盛が熱病で世を去った。平家は平重衡を総大将として東国征討に向かうが、頼朝も和田義盛遠江に派遣するなどし、両勢力は膠着状態に陥る。

 

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 一方、源義賢の次男で源頼朝とは従兄弟にあたる「源義仲」が、信濃で挙兵した。治承5(1181)年6月に、越後の勢力を打ち破り、翌 寿永元(1182)年には、以仁王の遺児 北陸宮を擁し、北陸路に勢力を広める。

 寿永2年(1183)年5月11日、越中国礪波山の「倶利伽羅峠の戦い」で、平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、勢い盛んな義仲軍は武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。

 

 7月28日、義仲は入京、後白河法皇の蓮華王院に参上し平氏追討を命じられる。すでに義仲入京の直前、都の防衛を断念した平氏安徳天皇守貞親王を擁して西国へ逃れていた。後白河法皇は危機を察して比叡山に身を隠し、前日に院に復帰したところだった。

 後白河法皇は、高倉上皇の皇子を即位させようとしたが、義仲がこれに異議をはさみ、以仁王の皇子で自らが推戴してきた北陸宮を即位させるよう、申し立てた。これは皇統を無視した無謀な提案で、朝廷側が受け入れるはずもなく、義仲は山奥で育った粗野な人物と見なされる。

 

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 また義仲入京後の京都の治安は、義仲混成軍による略奪行為が横行し混乱しきっていた。京中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、近江源氏美濃源氏摂津源氏などの混成軍であり、義仲に全体の統制が出来る状態になかった。

 後白河法皇は義仲を呼び出し、狼藉停止を命じた。立場の悪化を自覚した義仲は、信用の回復のためにも、すぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇に許される。義仲は腹心を京都に残して播磨国へ下向した。

 

  義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷を尊重するような頼朝の申状が届くと、後白河法皇は大いに喜び、頼朝を本位に復して赦免し、寿永2(1183)年10月14日、「寿永の宣旨」を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。

 後白河法皇から上洛要請を受けて、頼朝は弟の源範頼義経の率いる大軍を京に向かわせる。これに意を得た後白河法皇は、義仲放逐のため戦力の増強を図り、法住寺殿の武装化を計った。

 

 急遽、西国から戻った義仲だが、もはや中央に義仲を支持する勢力は少なく、11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する(法住寺合戦)。義仲軍の猛攻の前に院側は大敗し、後白河法皇を捕縛して幽閉する。義仲は傀儡政権を立て、源頼朝追討の院庁下文を発給させて官軍の体裁を整え、自らを征東大将軍に任命させるが、範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。

 寿永3(1184)年1月20日、京を守る義仲軍に対して、瀬田には範頼軍、宇治川には義経軍が迫り、この戦いに敗れる(宇治・瀬田の戦い)。敗れた義仲は落ち延びるが、近江国粟津(現大津市)で討ち死にする(粟津の戦い)。

 

 

源範頼義経の平家追討)

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 義仲に京を追われた平氏は、源氏同士の抗争中に勢力を立て直し、西国を制圧し、摂津の国福原に陣を構えて、京奪回の軍を起こす予定をしていた。後白河法皇平氏が持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出し、源頼朝の命を受けて、平家を討つべく、源氏は「範頼」が大手軍、「義経」が搦手軍を率いて京を出発した。

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 寿永3(1184)年2月7日、搦手軍の義経鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分、義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進、平氏の一ノ谷陣営の裏手に出て、一気に騎馬で断崖絶壁を掛け下り、背後を全く警戒していなかった平氏を蹴散らす。

 

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  一ノ谷の戦闘の様子を見た範頼は、率いる大手軍に総攻撃を命じた。平氏軍は浮き足立って敗走を始め、安徳天皇建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の「平宗盛」は、敗北を悟り四国の屋島へ退却する。

 この戦いで、源氏の範頼軍は平通盛平忠度平経俊平清房平清貞を、義経軍は平敦盛平知章平業盛平盛俊平経正平師盛・平教経をそれぞれ討ち取ったとされ、平氏は致命的な大打撃を受けた。(一ノ谷の戦い

 

 瀬戸内に逃れた平氏は、讃岐国屋島長門国彦島に拠点を置いた。一ノ谷の戦いの後、鎌倉方は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整えるが、伊勢の平氏勢力が「三日平氏の乱」を起こすなど反乱がつづき、後白河法皇から検非違使に任命された義経は都の警備に張り付けられる。

 寿永3(1184)年8月8日、頼朝の命を受け範頼を大将とする平家追討軍が鎌倉から出陣し、平家追討使の官符を得て、9月1日には九州へと赴いた。だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ、進撃が止まってしまった。将兵の間では厭戦気分が広まり、範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。

 

 元暦2(1185)年1月、ようやく範頼は豊後国へ渡り平氏の挟撃を目指すが、兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなった。この状況をみて、義経後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得た。

  2月、義経は摂津・熊野・伊予水軍などを味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。2月18日、暴風雨のために諸将が出航をためらうなか、義経は僅か5艘150騎で出航を強行し、阿波国勝浦に到着した。

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 翌2月19日には讃岐国へ進撃して、屋島に陣取る平氏軍の背後から奇襲をかけると、平氏は敗走し、平氏総大将の平宗盛安徳天皇を奉じて海上へ逃れるが、義経軍に追われ敗走、瀬戸内海を転々とした。(屋島の戦い

 やっとのことで長門国彦島に辿り着いた平氏一門だが、範頼軍が九州の親平氏の軍勢を破り平氏軍の背後を遮断すると、平氏軍は彦島に孤立してしまった。

 

 元暦2(1185)年3月24日、長門国赤間関壇ノ浦の海上で、源平の船団が相戦うことになった。東から攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、正午ちかく、関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。

 潮の流れの激しい関門海峡で、水軍の運用に長けた平氏軍は、巧妙に潮の流れに乗って、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を圧倒した。だが、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍に猛攻撃を仕掛け、平氏軍を壊滅状態に追い込み勝敗は決した。

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 敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。覚悟を決めた二位尼平時子)は、幼い安徳天皇と宝剣を奉じて入水する。平氏一門の武将たちも自刃するか入水して果てるが、総大将の平宗盛安徳天皇生母平徳子建礼門院)は助かり捕虜になる。この戦いで、権勢を誇った平氏一門は滅亡した。(壇ノ浦の戦い

 

 

鎌倉幕府の成立

*1183.10.14/ 後白河法皇が宣旨を出し、東国の事実上の支配権を源頼朝に認める。(寿永の宣旨)

*1184.10.20/相模 源頼朝が鎌倉に公文所問注所を設置、従前の侍所と合わせて政治機構を整える。

*1185.11.29/ 源頼朝後白河法皇に迫り、義経の追補を名目に、全国に惣追捕使(守護)・地頭の設置を認めさせ、事実上の支配権を掌握する。(文治の勅許)

*1190.11.9/京都 源頼朝後鳥羽天皇後白河法皇に謁見し、権大納言・右近衛大将となる。頼朝は征夷大将軍を望むも、かなえられず。

*1192.7.12/ 源頼朝征夷大将軍となる。

*1199.1.13/ 源頼朝(53)没、頼家が鎌倉殿を継ぐ。

*1199.4.12/ 北条政子が、子頼家の直截ではなく、父北条時政以下13人の御家人による合議制で幕政を行わせる。

 

 治承4(1180)年、源頼朝は伊豆で挙兵し、富士川の戦い平維盛軍と戦い勝利すると、坂東を平定し鎌倉へ入り、大倉御所に武家政権としての統治機構を担う「侍所」を設け、和田義盛別当に任じた。

 寿永2(1183)年10月には、後白河法皇は「寿永の宣旨」を下し、源頼朝に東国の事実上の支配権を公認した。

 

 源頼朝は、範頼・義経ら異母兄弟を派遣し、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼしたが、梶原景時の讒言などから義経に対して不信をつのらせ、義経に謀反の疑いありと、ついに追討の令を下す。

 文治1(1185)年11月、頼朝の代官として入京した北条時政は強硬な態度で後白河法皇に迫り、義経らの追捕のためとして、守護・地頭職の設置任免を許可を認める「文治の勅許」を得る。

 そして建久1(1190)年)頼朝は権大納言兼右近衛大将に任じられ、建久3(1192)年、「征夷大将軍」の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。

 

 この時期、武家政権を「幕府」と呼ぶ習わしはなく、「幕府」とは将軍の陣所、居館を指す概念でしかなく、武家政権を幕府と呼ぶのは江戸時代後半からのことであった。奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼし、実質的に全国を支配した源頼朝が、建久3(1192)年に征夷大将軍に任じられ、従来はその時をもって鎌倉幕府の成立とされてきた。

 しかし近年の歴史観から、武士政権としての実質的な政権体制を確立したのは何時かと問い直され、文治1(1185)年、頼朝が後白河法皇から、守護地頭の任命を許可する「文治の勅許」が下されたことをもって、歴史教科書などは鎌倉幕府成立としている。

 

 これらの考え方は、鎌倉幕府の呼称自体を「鎌倉政権」と呼ぶべきという議論を含むわけで、そこには政権体制論の吟味が必要になるが、現在、鎌倉幕府の成立年については、次のように幾つもがある。

 頼朝が東国支配権を樹立した治承4(1180)年・事実上、東国の支配権を承認する「寿永の宣旨」が下された寿永2(1193)年・公文所及び問注所を開設した元暦1(1184)元年・守護地頭の任命を許可する「文治の勅許」が下された文治1(1185)年・日本国総守護地頭に任命された建久1(1190)年、征夷大将軍に任命された建久3(1192)年などなど。

 

 

成立
詳細は「治承・寿永の乱」を参照
平安時代末期、平清盛を中心とする平氏政権が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。1177年の鹿ケ谷の陰謀を嚆矢として、反平氏の動きが活発化し、1180年、後白河法皇の皇子以仁王平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。

そうした状況の中で、伊豆に流罪となっていた源頼朝は、同年8月に挙兵し石橋山の戦いで敗れたが、逃亡先の安房から上総国下総国を行軍する間に、関東一円の平氏系の武士団(坂東平氏)らの支持を獲得した。瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年10月、先祖ゆかりの地である鎌倉へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表=鎌倉殿と称されるようになった。その直後の富士川の戦い平氏軍に勝利した頼朝は、自分を支持する関東武士団の意向を受け、関東内部の平定・経営に重点を置くこととした。

1183年7月、源義仲平氏を京都から追放したが、義仲勢力は推戴する北陸宮の天皇即位を迫り、京内で乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した後白河法皇は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に東海道東山道北陸道の荘園・公領を元のように国司・本所に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。朝廷は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。

こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、1184年、行政を担当する公文所(後の政所)と司法を担当する問注所を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の源範頼源義経を派遣し、平氏追討に当たらせ、1185年、壇ノ浦の戦い平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。

同年、源義経源行家が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の院宣後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、守護・地頭の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、在庁官人の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の権門勢家による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領(平家没官領)などに限定されていた。

1189年、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある[9]。

1190年、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。1192年、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、1221年の承久の乱での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。

以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は守護の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の御家人に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。

年表
1180年(治承4年) - 頼朝が平家追討のため配流先の伊豆国で挙兵する(頼朝と在地武士との主従関係の成立)。
同年、頼朝が鎌倉入りし、大倉御所に居を構える(鎌倉における拠点設置)。
同年、頼朝が侍所を設置する(武士支配機構の成立)。
1183年(寿永2年) - 朝廷から頼朝に東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証(寿永二年十月宣旨:朝廷から間接的に土地支配権が認定)。
1184年(寿永3年) - 頼朝が公文所(後に政所と改称)、問注所を設置する(行政・裁判機構の成立)。
1185年(文治元年) - 平家が滅亡する(敵対武家勢力の消滅)。
同年、頼朝が朝廷から守護・地頭の設置を認められる(文治の勅許:軍事・警察・土地支配権を公認される)。
1189年(文治5年) - 頼朝が源義経とこれを匿った奥州藤原氏を滅ぼす(全国の武士を動員し、対抗しうる武家勢力を排除)。
1190年(建久元年) - 頼朝が右近衛大将律令制における武官の最高位)に任じられ治安維持に関する17ヶ条に及ぶ命を受ける(大犯三ヶ条:軍事・警察・土地支配権の確立)。
1192年(建久3年) - 頼朝が征夷大将軍に任命される。
1221年(承久3年) - 北条氏を中心とする軍勢が承久の乱後鳥羽上皇方を破る(全国特に西国掌握の完了、朝廷の掌握)。
北条氏の台頭

北条時政
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(1199年)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の源頼家だった。しかし、幕府の有力者たちは、若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する十三人の合議制と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる北条氏であり、北条時政北条義時父子は他の有力御家人を次々と滅ぼしていった(1200年:梶原景時の変、1203年:比企能員の変)。

1203年、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により伊豆の修禅寺へ幽閉され、弟の源実朝が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌1204年に死亡した。時政ら北条氏の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、将軍実朝を補佐して執権と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと画策、朝雅と対立する畠山重忠を殺害し、実朝を廃そうとした(畠山重忠の乱)。しかし、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した(牧氏事件)。

この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当和田義盛が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、1213年、和田一族を滅ぼした(和田合戦)。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、承久元年(1219年)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、治天の君後鳥羽上皇はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児藤原頼経が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は摂家将軍と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。

承久の乱
詳細は「承久の乱」を参照
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになり、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、承久3年(1221年)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。

幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、仲恭天皇は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために六波羅探題を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。

乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。

 

 

(この時期の出来事)

*1181.-.-/西国 西国を中心に養和の大飢饉が起こる。

*1183.7.25/ 平宗盛安徳天皇建礼門院を連れて西海へ向かう。

*1184.8.6/ 後白河法皇は、源義経を左衛門少尉・検非違使に任命する。

*1185.10.18/ 後白河法皇が、頼朝追討の院宣を下す。

*1185.11.11/ 義経追補の院宣が下る。

*1186.11.18/ 源頼朝の奏請で、改めて義経追討の院宣が下される。

*1187.2.-/陸奥 源義経陸奥へ逃れ、藤原秀衡のもとに頼る。

*1187.9.20/京都 藤原俊成が「千載和歌集」を撰進する。

*1189.閏4.30/陸奥 藤原泰衡が平泉衣川館で源義経(31)を討つ。

*1189.9.3/出羽 藤原泰衡が郎従に討たれ、奥州藤原氏は滅亡する。

*1191.7.-/筑前 僧栄西が宋より帰国、禅宗臨済宗)を伝える。

*1192.3.13/ 後白河法皇(66)没。

*1193.8.17/伊豆 源頼朝が弟範頼を伊豆に追放し、ついで殺す。

*1198.3.-/ 僧法然が「選択本願念仏集」を著す。

 

【ご近所徘徊 城陽市寺田「水度(みと)神社」】

【ご近所徘徊 城陽市寺田「水度(みと)神社」】

京都の神社仏閣 水度神社


 さほど有名ではないが、歴史は奈良時代に遡るという。参道から裏山まで整備されて恰好の散歩コース。ただし観光客は皆無で、朝夕はひたすらご近所のジーさんバーさんに占有されている(笑)


 写真1.本殿 2.3.緑のトンネルになった参道は美しいが、売り家やカラオケの看板はあかんやろw 4.参道入り口付近にある「夜叉ばあさんの木」、どんな悪さしてくれるのかワクワク(笑)

 

 本殿脇にある絵馬を観察してみた。一般的な合格祈願にくわえて、いくつかほほえましい祈念の絵馬があった(笑)

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【情報革命 ふたりの軌跡】

【情報革命 ふたりの軌跡】 ~インターネットは何を変えたか~(NHKスペシャル

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 Yahoo! Japanを、日本独自の情報のプラットフォームに仕上げた井上雅博の功績は大だが、これは一方で、未だネット検索にヤフーを使ってるのは日本人だけというように、グローバル世界に対して日本のガラパゴス化を象徴するものでもある。(現在のYahooの検索システムは、実際にはGoogleが提供している)

 

 一方で、グローバルなネット世界で無限の可能性を秘めた、最先端のP2P技術を世に問ったWiinyの開発者金子勇は、著作権法違反容疑で逮捕され7年間を空費した。その間、技術開発を停止されたまま、最高裁で無罪を勝ち取ったが、金子はその2年後に42歳の若さで急逝する。

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 日本で先行したP2P技術は頓挫させられたが、海外ではジョブズが手掛ける前の音楽配信サービスや、IP電話通信のSkypeやLineのコア技術として実用化された。そして今や注目のビットコインなど仮想通貨のブロックチェーン技術として利用されている。

 

 金子が、被告として空費させられた2004~2011年というのは、まさしくネット技術が乗数的に発達した期間だった。

 

 金子は著作権法というオワコン法規によって、その才能を摘まれたが、実のところ金子をつぶしたのは「ウィニーは違法エロビデオを配信するソフトだ」という、その技術を使いこなせないスケベオヤジ政治家どもの勘違いで、鬱憤のはけ口にされたにすぎない。

 

 よく言われた例が「包丁で人を刺す事件が起きたら、包丁の開発者が罪に問われるのか?」ということで、包丁の代わりに自動車でも同じことだ(笑)


>情報革命 ふたりの軌跡
~インターネットは何を変えたか~
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190428

【12th Century Chronicle 1161-80年】

【12th Century Chronicle 1161-80年】

 

平清盛平氏政権

*1161.1.-/ 参議平清盛検非違使別当を兼任、武士としては初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となる。

*1162.8.20/ 平清盛が従二位に、異例の昇進をする。

*1164.9.-/安芸 平清盛(47)を筆頭として平氏一門が、法華経を書写し厳島神社に奉納する。(平氏納経) 

*1167.2.11/ 平清盛が武士で初めての太政大臣となる。

*1168.3.20/ 高倉天皇が(8)即位するとともに、その母平滋子(27)が皇太后となる。滋子は清盛の妻時子の妹であり、平氏天皇外戚となり、全盛をきわめる。

*1171.12.14/ 平清盛の娘徳子(17/建礼門院)が、後白河法皇の養女として、高倉天皇(11)のもとに入内、女御となり、翌年2月には中宮となる。

 *1172.9.16/ 宋国明州の使者が後白河法皇平清盛に贈物を献上する。清盛は兵庫港を修復して日宋貿易を推進する。

 *1177.6.1/京都 東山鹿ヶ谷で、後白河法皇の近臣藤原師光(西光)・大納言藤原成親、法勝寺執行俊寛らによる、平氏打倒の密謀が発覚する。陰謀の背後には後白河法皇もからんでいた。(鹿ヶ谷の陰謀

*1179.7.29/ 平重盛(43)没。

*1179.11.20/ 平清盛が軍勢を率いてクーデターを敢行し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、院政を停止する。

*1180.4.22/ 平清盛の娘中宮徳子の子、安徳天皇が3歳で即位する。

*1180.6.2/摂津 平清盛の意向で、福原へ都を移す。

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 「平清盛」は永久6(1118)年1月18日、伊勢平氏の頭領「平忠盛」の長男として生まれる。白河法皇の晩年の寵姫「祇園女御」の庇護の下で育ったところから、「白河法皇」の子という説もあるが、事実性は乏しい。清盛は伊勢平氏で院臣の武士の身であるにもかかわらず、12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任されるなど異例の出世をするが、これも白河法王落胤説の根拠になっている。

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 若い時期、鳥羽法皇の寵臣藤原家成の邸に出入りしていたが、保延(1137)3年、父忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。久安3(1147)年6月、祇園社において清盛郎等が祇園社神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴、窮地に陥った清盛だが、鳥羽法皇のはからいで贖銅三十斤という軽い罰金刑にとどまった。

 問題を起こした妾腹の清盛に代わり、正室腹の異母弟平家盛が忠盛嫡子として有力となったが急死する。これにより清盛は嫡流としての地位を固め、安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手に入れると、父と共に西国へと勢力を拡大した。この縁により、宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3(1153)年、忠盛の死をうけて平氏一門の頭領となる。

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 保元元(1156)年(1156年)の「保元の乱」では、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。平治元(1159)年「平治の乱」が起こると、信西一門を追放する二条親政派のクーデターを静観し、二条天皇を擁して大義をつかむと、藤原信頼などの反信西派を一掃するとともに、ライバルの源義朝らを打ち破り、清盛は武士の第一人者となる。

 清盛は朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築くとともに、二条天皇の乳父として後見役となり、御所の検非違使別当中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇上皇の双方のバランスをとった。

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  応保元(1161)年、後白河上皇と平滋子(建春門院)の間に憲仁親王高倉天皇)が生まれると、後白河の近臣が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、画策した近臣を解官して後白河院政を停止する。

 清盛は二条天皇支持の姿勢を明確にし、二条天皇親政を補佐し、天皇からも厚い信任を得た。長寛3(1165)年7月二条天皇崩御すると、天皇の皇子六条天皇が2歳で践祚するが、祖父 後白河上皇の意向により在位2年余りで、叔父の高倉天皇(8)(憲仁親王)に譲位させられ、後白河の院政が復活する。

 

  やがて高倉天皇を擁する清盛と、院政を継続しようとする後白河との間に対立関係が生じてきた。安元3(1177)年6月1日、京都東山鹿ヶ谷で後白河法皇の近臣藤原師光(西光)・大納言藤原成親、法勝寺執行俊寛らによる、平氏打倒の密謀が発覚する。(鹿ヶ谷の陰謀

 この謀議の背後には後白河法皇の意向が働いていたとされるが、清盛は近臣らを処断するが後白河は不問にした。翌治承2(1178)年中宮徳子が高倉の皇子言仁親王安徳天皇)を出産すると、すぐに立太子とし、着々と外戚関係を築いていく。

 

 治承3(1179)年、清盛の信頼を失っていた長男重盛が死去すると、後白河は重盛の知行国を没収した。これらの後白河の措置に憤慨した清盛は、この年11月14日、福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。(治承三年の政変)

 清盛は反平氏的とされた公卿・院近臣を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する粛清人事を行った。後白河法皇は許しを請うが、清盛はこれを許さず鳥羽殿に幽閉する。ここに後白河院政は完全に停止された。

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 かくして盤石の平氏政権を築き上げた平清盛であったが、その政権基盤は脆弱なものだった。清盛は、寺社勢力の強い京都を避けて、兵庫福原に遷都を企図した。しかしこれは、高倉天皇を筆頭に朝廷の公家層の反発を招いた。

 さらに清盛が福原に引き上げたあと、院政停止後の政権運営は、高倉天皇近衛基通平宗盛の三人に任されるが、いずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛頼りになるしかなかった。

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  そんななかで、後白河法皇の第3皇子以仁王平氏追討の令旨を出し、源頼政などを擁して挙兵した。これに呼応して、全国各地に飛び火して、伊豆の源頼朝信濃国木曾義仲などが次々と挙兵する。

 かくして各地で源氏による平氏追討の狼煙が湧きおこるなか、治承5(1181)年2月清盛は27日に熱病に倒れ、死後はすべて宗盛に任せるとして、死亡した。享年64。

 

(追補2019.05.10)

 平清盛は、思われているほど横暴な人物ではなかったと思われる。平治の乱でも、状況を見きわめながら、最後に落としどころを押さえて動いている。清盛が自ら率先して動いたのは、「治承三年の政変(1179)」の時で、後白河法皇一派を追放するクーデターからだった。

 これ以降、高倉上皇安徳天皇を奉じて前面に出て政権運営を始めるが、重盛も亡くなっており清盛が先頭に立つより仕方が無くなった。

 

 清盛政権は宮中クーデターで中央政治を奪取したに過ぎず、それまでの荘園制に基づいた摂関政治を踏襲するしかなく、平氏知行国が全国の半分近くを占めたといっても、それは武士団本来の主従関係に基づく領地支配ではなかった。

 平家が貴族化したと言われるが、これは清盛が朝廷の高い官位を得て支配したということだけではなく(最高位太政大臣は3ヵ月で辞退している)、地方の支配地が従来の摂関政治的荘園制を引き継いだものであったからだ。

 

 清盛は、結局、源頼朝が確立するような、将軍と御家人という主従関係を基幹とする封建的支配体制を打ち出せなかった。公家勢力や寺社勢力の強い京都を離れて、福原(現神戸市)遷都を企図するが、それはかつて築いた瀬戸内支配権に基づいて、日宋貿易という商業ベースで政権運営費用を得ようとしたものであった。

 これは、のちに坂東に土着した源氏一族の武士団を基に、源頼朝が築く鎌倉政権とは、まったく性格を異にしていた。そして清盛は、それが端緒に付いてすぐに、熱病で死去した。清盛がより長く生きていたらと想像するのは無意味だが、少なくとも「福原幕府」を開くということにはならなかっただろう。

 

平氏追討の開始

*1180.4.9/ 後白河法皇の皇子以仁王が、平氏追討の令旨を発する。

*1180.5.26/山城 以仁王源頼政が挙兵し、平重衡宇治川で合戦するも、敗死する。

*1180.8.17/伊豆 源頼朝(34)が伊豆で挙兵する。

*1180.9.7/信濃 源義仲木曽義仲)が信濃で挙兵する。

*1180.10.20/駿河 源頼朝軍が、平維盛軍と富士川で合戦、勝利を収める。(富士川の戦い

*1180.10.21/駿河 源頼朝が黄瀬川で、弟義経と初めて対面する。

 

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 平清盛が「治承三年の政変(1179)」で政権を完全に奪取、後白河法皇を幽閉し院政を停止して以来、平氏政権への不満は朝廷内部でくすぶり続けていたが、治承4(1180)年(1180年)3月、園城寺三井寺)が延暦寺興福寺に呼びかけて、後白河・高倉両院を奪取しようという計画した。しかし、この計画を知らされた後白河法皇が動揺し、平宗盛に伝えたため頓挫した。ただしこれを契機に、後白河法皇は幽閉生活から解放されることになった。

  後白河法皇の第三皇子以仁王は、出家せずに皇位へ望みをつないでいたが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。一方、源頼光の系譜で摂津源氏源頼政は、保元・平治の乱を生き抜き、地味ながら軍事貴族の一員として過ごしていた。

 

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 以仁王頼政がどの時点で結びついたかは不明だが、平氏一門の専横と、皇統が高倉・安徳天皇という平氏外戚への流れができたことで、ともに反平氏を唱えて挙兵する意思を固めたとされる。

 治承4(1180)年4月9日、源頼政と謀った以仁王は、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。令旨が東国に伝えられる途中の5月初めに計画は露見し、以仁王は寺院勢力を頼って園城寺へと逃れた。平氏が軍勢を整えて園城寺攻撃態勢に入ったとき、やっと頼政は自邸を焼き、園城寺に入り以仁王と合流した。

 

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 園城寺も危険になると、頼政以仁王園城寺を脱出し南都興福寺へと向かう。途上でやむなく宇治橋の橋板を外して、宇治平等院で休息を取ることになった。追手の平氏軍と宇治川を挟んで両軍は対峙し、「平家物語」ではこの戦闘を「橋合戦」と呼んでいる。

 平氏の軍勢が渡河すると、頼政平等院まで退き防戦するも、頼政方は追い詰められ頼政が自刃、逃れた以仁王平氏軍勢に追いつかれ、討ち取られる。なお、丹波路の亀岡市を通る国道9号線沿いに「頼政塚」がある。頼政の果てた宇治と亀岡は、京の町から反対方向でまったく離れた地にあるが、頼政の家臣がその首を領国に持ち帰ろうとして、この地に埋めたと伝承されている。

 

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 以仁王頼政の挙兵は失敗の終わるが、そ以仁王平氏追討令旨を奉じて、源頼朝源義仲甲斐源氏近江源氏などが各地で蜂起し、そのまま「治承・寿永の乱」と呼ばれる「源平の合戦」が展開されることになる。

 

 (この時期の出来事)

*1161.9.15/ 左馬権守平教盛・右少弁平時忠が、後白河上皇の皇子憲仁親王の立皇太子の陰謀に連座して解任される。

*1162.6.23/ 二条天皇呪詛の罪により、上皇近臣の源資賢が信濃平時忠が出雲に配流される。

*1164.12.17/ 後白河上皇が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)を落慶供養する。

*1165.7.28/ 二条天皇(23)が崩御六条天皇(2)が即位する。

*1168.3.20/ 高倉天皇が(8)即位する。

*1174.7.15/京都 3月に船岡野(船岡山)で千僧供養を行おうとした上人が、朝廷に禁じられていたが、今度は多くの見物客を集めて焼身自殺をする。

 *1175.春/ 法然が専修念仏を唱え、浄土宗を始める。

 

 

【半ドン効果】

半ドン効果】

 

 『「半ドン」よ、もう一度:令和時代“温故知新”の働き方改革』とのタイトルで、次のような記事を目にした。>http://agora-web.jp/archives/2038768.html

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 ただし、この記事にはいくつかの誤解があるようだ。半ドンのドンがオランダ語で日曜日を意味する"zondag”から来ているようで、その半分休みだから「半ドン」というのは合点がいく。

 しかしこれは、明治のころ、いまだ庶民に時計が普及していないので、皇居などで大砲の空砲をドンと鳴らして、正午を知らせたところから来ている。従って語源がzondagにあるかどうかはともかく、庶民は大砲の「ドン」という音のことと認識していたはずである。

 漱石の「坊ちゃん」でも、「腹の減った時に丸の内で午砲どんを聞いたような気がする」と使われていて、午砲と書いてドンと読ませている。

 

 語源はおくとしても、「昭和の末ごろ」に「法定労働時間が法改正されて、半ドンが多く採用された」というのは、明かな間違いだろう。実際には、明治9年に公官庁で土曜半休となったとされているし、学校や民間企業でも、少なくjとも、昭和30年代に兄が中堅企業に就職し、私は小学生になったった頃には、ともに「半ドン」を満喫していた記憶がある。

 小学生の頃には、メーデー(当時は5/1に固定)は平日でも、半ドンにして午后は休みにされた。これは教職員組合員が大多数の教師が、労働者の祭りメーデーに参加できるようにという配慮で、子供には関係ないのだが。

 あるいは、近所の鎮守の森の神社の秋祭りでは、その氏子地域の生徒だけが半ドンで帰してもらえた。それから張り切って神輿を担いだものだ。

 この時代には、比較的安直に半ドンが決められたようで、さすがに休日にするには全体的な判断が必要だろうが、半ドンは簡単に現場レベルで決められる融通性があったようだ。

 いずれにせよ、記事の趣旨は「若者の勞働意識に”半ドン”が与える効果」みたいなもので、それなりの意味があるかも知れない。

 丸ごと一日休みにして若者を朝寝させておくよりも、いったん出社なり登校してから、昼から解放されて街中で活動させる方が、経済活動としてはプラス効果があるだろうし、健康健全性にも寄与するかも知れぬ。

 

 

【12th Century Chronicle 1141-60年】

【12th Century Chronicle 1141-60年】

 

保元の乱

*1156.7.2/ 崇徳・近衛・後白河の3代28年間に及ぶ院政を行った鳥羽法皇が死去(54)。腹違いの遺児である崇徳上皇後白河天皇の対立が決定的となる。

*1156.7.11/ 後白河天皇(30)方の平清盛(39)・源義朝(34)が、崇徳上皇藤原頼長(37)の籠る白河殿を襲い上皇方を破る。(保元の乱

*1956.7.23/ 崇徳上皇を讃岐へ配流、藤原忠実を幽閉する。

 

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 もとより確執のあった「後白河天皇」と「崇徳上皇」の対立が、鳥羽法皇崩御とともに一気に噴出する。さらに摂関家の内紛で、関白「藤原忠通」は一旦養子にしていた弟「藤原頼長」と対立して後白河天皇側にたち、頼長が崇徳上皇側に付くことになった。

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 さらに実際の武力をもつ源氏や平氏の武士一族が、それぞれの思惑から後白河天皇側と崇徳上皇側に分かれて付くことで、大きな二大勢力が対立することになった。平氏では「平清盛」が後白河側で叔父の平忠正が崇徳側、源氏では「源義朝」が後白河、父親の源為義が崇徳側につくなどして、叔父と甥、父と子などが相争う形になった。

 

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  そもそも後白河天皇が擁立されるときにも、裏で策動したのは「信西藤原通憲)」ともいわれ、鳥羽法皇崩御した際にはその葬儀を取り仕切り、駆け付けた崇徳上皇を法王の遺体に対面させなかった。

 そして藤原頼長には謀反の罪がかけられ、源義朝の兵が東三条殿に乱入して邸宅を摂取するに至った。このように挑発を仕掛けて、対立勢力である崇徳上皇藤原頼長を挙兵に追い込んだ裏には信西の策動があったとされる。

 

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  崇徳上皇は危機を察知し、一部側近と共に鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある白河北殿に逃げ込んだ。謀反人の烙印を押された頼長は崇徳を担ぐことを決意し、宇治から上洛して白河北殿に入った。白河北殿の崇徳陣営に結集した武士には源為義平忠正らがいたが、摂関家の私兵集団に限られており、劣勢は明らかであった。

 これに対して後白河陣営も武士を動員する。高松殿には警備していた源義朝源義康に加え、平清盛源頼政らが続々と召集され、「軍、雲霞の如し(兵範記)」と描かれるほど軍兵で埋め尽くされた。信西・義朝が先制攻撃を主張し、清盛と義朝らは出撃の準備に入った。

 

 保元1(1156)年7月11日未明、清盛軍、義朝軍、義康軍と3手に分かれて東に向かい鴨川を越えた。戦闘は鴨川を間に一進一退の攻防が繰り返され、上皇方は源為朝が強弓で獅子奮迅の活躍を見せた様子などが「保元物語」に記されている。

 攻めあぐねた天皇方が新手軍勢を投入するなか、義朝の献策で白河北殿の周囲に火を放つと、白河北殿は火に包まれ上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は白河北殿を脱出して姿を消した。

 

 崇徳上皇が出頭し天皇側の監視下に置かれ、藤原頼長は合戦で重傷を負いやがて死亡する。上皇の出頭に伴って、藤原教長源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。崇徳上皇は讃岐に配流され、二度と京の地を踏むことはなく、無念の想いを抱きながら8年後にこの世を去る。

 合戦の勝利を受けたその日のうちに、朝廷は、忠通を藤原氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。平清盛は播磨守、源義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。

 

 摂関家氏長者であった藤原忠実は、頼長とともに謀反の張本人とされ、氏長者と所領を子の藤原忠通に譲ることでのみ、かろうじて摂関家の領地は維持されたが、頼長領は没収された。この間、忠実を断罪し摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通との間には、激しいせめぎ合いがあったといわれる。

 貴族は流罪となり、それぞれの配流先へ下っていったが、武士に対する処罰は厳しく、崇徳上皇派の平忠正源為義らは一族もろとも斬首された。死刑の復活は信西の裁断によるもので、反論できる者はいなかったとされる。

 

 保元の乱天皇方の勝利となったが、宮廷の対立が武力によって解決されたことで、武士が政治の表舞台に登場することになった。一方で、貴族を代表する摂関家は、この乱で最大の打撃を蒙った。藤原忠通氏長者を引き継ぎ、関白の地位は保持したものの、実質的な政治の中枢から外れていった。

 一方、乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることとなり、平治の乱につながる原因となった。

 

平治の乱

*1559.12.9/ 平清盛の熊野参詣の留守に、藤原信頼(27)・源義朝(37)らが後白河上皇の三条殿を急襲する。(平治の乱

*1559.12.13/ 藤原信頼と対立していた藤原通憲信西 54)が、信頼に首を斬られて晒される。

*1559.12.26/ 平清盛が、弟頼盛・子重盛らに藤原信頼源義朝を討たせる。信頼は六条河原で斬られ、義朝は落ち延びた尾張で殺される。

*1560.3.11/ 源頼朝(14)が伊豆に流される。

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  平治の乱は、保元の乱のように単純に天皇派・上皇派と2分できるわけでなく、かなり錯綜している。まず、保元の乱に勝利した後白河天皇は、二条天皇に譲位して「後白河上皇」となっていたが、「保元新制」を発令して全国の荘園・公領を統制し、統治の安定を図った。

 そしてその国政改革を主導したのは、後白河の側近として後白河を支えた「信西」であった。信西は改革実現のために、身内を重要な地位につけたため、「信西一門」が突出して台頭することになり、それに対する批判勢力も生じてきた。

 

 一方、鳥羽法皇の寵愛を受けた「美福門院(得子)」は、自らの子近衛天皇が早世したため、養子として育てた守仁親王二条天皇)の即位を要望し、後白河が近衛天皇の急死で中継ぎとして即位したという経緯もあり、信西が美福門院に妥協して「二条天皇」が誕生していた。

 そして、二条天皇の下には藤原経宗(二条の伯父)や藤原惟方(二条の乳兄弟)などが集まり、「二条親政派」として後白河院政派との対立するようになった。後白河上皇が頼れるのは信西だけだったが、その信西鳥羽法皇の元側近だったこともあり、美福門院とも強い繋がりがあった。

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 そのため後白河は自らの院政を支える独自に近臣を必要とし、武蔵守「藤原信頼」を抜擢する。信頼は急速に出世し院庁の厩別当となり、もともと武蔵の国で強い繋がりがあった「源義朝」は左馬頭であり、両者は強い関係を持った。こうして、信西とは距離を置いた「後白河院政派」は、信頼を中心に形成された。

 この時点で、平清盛信西を支える立場にあったが、慎重に中立を保ち、その間に着々と平氏一門の実力を蓄えていった。かくして、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループが並立する状況が生じた。

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  この状況で、信西一門の政治主導が突出したため、それに対する反発によって、対立していた二条親政派と後白河院政派も、信西打倒という点で一致、藤原信頼が反信西連合を主導するようになった。

 両派ともに無視できない平氏という大勢力を統率する平清盛は、自らの娘を信西の子成憲に嫁がせ、信頼の嫡子信親にも娘を嫁がせるなど、中立的立場にあった。

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 平治元(1159)年12月9日深夜、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。藤原信頼源義朝ら武将らの軍勢が院御所三条殿を襲撃し、信頼らは後白河上皇の身柄を確保すると、三条殿に火をかけた。

  信西一門はすでに逃亡していたが、信頼らは後白河内上皇二条天皇の居る一本御書所に軟禁した。翌10日には、信西の一族が次々と捕縛され、信西山城国田原に逃れ土中に隠れたところを発見され自害、その首は京の大路に晒された。

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 信西一門を一掃して政権を掌握した信頼は、早速に臨時除目を行い、源義朝を播磨守に任じるなど論功行賞を行った。信西追討には協力した二条親政派だったが、政権奪取後の信頼の独断専行に反発して離反の機会をうかがうようになった。

  急ぎ紀伊から帰京した清盛は、状況を見ながら軍勢を固めていた。二条親政派は清盛に通じて、秘かに二条天皇六波羅行幸を口実にした脱出計画を練る。この計画を聞いた後白河内上皇はすみやかに仁和寺に脱出、二条天皇が内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動すると、諸公卿から摂関家の忠通・基実父子まで参入し、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。

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  一方、義朝はクーデターのため少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。保元の乱では公的な動員だったが、今回はクーデターのための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だった。

 12月26日早朝、天皇上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺する。清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために、六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、御所の信頼・義朝軍を挑発したあとすぐに六波羅へ退却した。清盛の予定通り戦場は六波羅近辺へと移り、義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが、六条河原であえなく敗退する。

 

 逃れた藤原信頼らは仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭したが、信西殺害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。落ち延びた義朝は東国への脱出を図るが、尾張国で殺害され、義朝の首は京都で獄門に晒された。かくして、後白河院政派は事実上壊滅することになる。

 当初、信西に対する藤原信頼の政務奪取クーデターであったものが、結果、信西一門と共に、信西打倒に関わった後白河派や二条天皇派の有力廷臣が共倒れになったため、両者の対立は小康状態となる。

 

 平清盛は、院と天皇と双方が並び立つように慎重に行動し、その間に自らと平氏一門が院および御所での重要な位置を占めることで、朝廷における武家の地位を確立していった。永暦元(1160)年6月に平清盛正三位、8月には参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就き、事実上の平氏政権を形成していった。

 

(この時期の出来事)

*1145.4.18/ 藤原忠実が、次男頼長に摂関家に伝わる律令格式などを譲り、長男の摂政忠通を差しおいて摂関家後継に認める。

*1447.6.15/ 祇園社の臨時祭で、平忠盛・清盛の従者が祇園社神官と争う。延暦寺僧徒が忠盛父子の流罪を強訴するも、清盛に軽微な刑(贖銅30斤)のみが課せられる。

*1150.9.26/ 藤原忠実が、氏長者であった長子忠通と縁を切り、頼長を氏長者とする。

*1152.5.18/京都 京中の民家が、大物忌と称して門戸を閉じ、青木香をかけて疫鬼を祓うとした。これは役人への抵抗を示したものとされる。

*1154.4.-/京都 人々が笛や鼓を打ち鳴らして紫野今宮社へ詣で、疫病を祓う「夜須礼(やすらい)」とするが、これを政治への抵抗とした朝廷が禁止する。

*1154.11.26/ 鎮西八郎「源為朝」が大宰府で乱行したため、父親の源為義が官職を解かれる。 

*1155.8.16/武蔵 源義朝の長子義平が叔父義賢を殺し、源氏の内紛が深まる。

*1158.8.11/ 後白河天皇二条天皇に譲位し、後白河上皇として院政を始める。