【9th Century Chronicle 841-860年】

【9th Century Chronicle 841-860年】

 

◎有力貴族の没落と藤原北家の抬頭

*842.7.17/ 伴健岑橘逸勢らが、謀反のかどで逮捕される(承和の変)。

*843.12.22/ 筑前の前国司文室宮田麻呂が、謀反の罪で伊豆に配流される。

*857.2.19/ 藤原北家藤原良房太政大臣となる(人臣太政大臣の初め)。

 

 

 

(この時期の出来事)

*841.12.19/ 左大臣藤原緒嗣らが、続日本紀につぐ勅撰史書日本後紀」40巻を完成する。

*847.10.2/ 遣唐僧の円仁が、弟子と唐人を連れて帰国する。

*850.3.28/近江 左近衛少将良岑宗貞が出家し、六歌仙の一人「僧正遍照」となる。

*858.6.22/筑前 唐に渡った円珍が帰国する。

*859.8.-/山城 僧行教が宇佐八幡宮の分霊を祀り、石清水八幡宮を創祀する。

*859.9.3/近江 僧円珍園城寺三井寺)の再興供養をする。

*860.-.-/出羽 円仁が立石寺を開創すると伝えられる。

 

 

【9th Century Chronicle 821-840年】

【9th Century Chronicle 821-840年】

 

最澄空海

*805.6.-/ 遣唐使藤原葛野麻呂とともに、最澄が帰国し、天台宗を伝える。

*806.8.22/ 空海が帰国し、真言宗を伝える。

*815.-.-/ 最澄が東国での布教活動を始める。

*819.3.15/近江 最澄が、比叡山戒壇設置を請願する。

*819.5.3/紀伊 空海が、高野山金剛峯寺を建立する。

*820.2.29/京都 最澄が「顕戒論」を著し、天台の自立をめざし南都勢力に反論する。

*820.-.-/ 空海が東国に布教を始める。

*821.5.27/讃岐 空海が、讃岐に満濃池の造築を監督する。

*822.6.4/ 最澄(56)没。

*827.5.2/近江 延暦寺戒壇院の設立が認められる。

*828.12.25/京都 空海綜芸種智院を創設し、広く庶民の入学も許される。

*830.-.-/ 空海が、密教の優越性を説いた「秘密曼荼羅十住心論」を著す。

*835.3.21/ 空海(62)没。

 

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 最澄は、767年ごろ近江国に生れ、804年空海とともに留学僧として遣唐使に同行、中国で天台宗を学び、805年帰朝し上洛すると、宮中で病床の桓武天皇の病気平癒を祈る。806年1月には、天台宗の開宗が公式に認められる。

 その後、天台には密教の教えが欠けていたため、空海から真言を学ぶなどしたが、のちに考え方の相違から袂を分かつ。また、南都の学僧と論争、なかでも法相宗の学僧会津徳一との間で激しい論争を展開した。

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 比叡山延暦寺を開山し、戒壇の設立を幾度か請願していたが、弘仁13(822)年6月4日、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目に、大乗戒壇設立の勅許が下された。これにより、南都六宗から完全独立した天台宗が確立された。

 貞観8(866)年清和天皇より伝教大師諡号が贈られ、以後「伝教大師最澄」と称された。最澄の開いた延暦寺は修行の本山として、平安から鎌倉時代にかけて、良源・源信法然栄西慈円道元親鸞日蓮など、多くの名僧を輩出することになる。 

 

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 空海は、774年讃岐国に生れ、804年最澄らと遣唐使に同行したが、空海の乗った船は嵐に遭い大きく航路を逸れて福州に漂着、空海が州の長官へ嘆願書を代筆し、やっと正規の遣唐使として認められた。

 同年12月に長安入り、翌年2月西明寺に入り、さらに醴泉寺の東土大唐三藏法師や長安青龍寺の恵果和尚に師事し、伝法阿闍梨位の灌頂を受ける。大同元(806)年10月、空海は無事帰朝し、真言仏教を伝える。

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 大同4(809)年、平城天皇が譲位し嵯峨天皇が即位した年、空海は入京し高雄山寺(神護寺)に入る。大同5(810)年、薬子の変が起こると、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行う。弘仁7(816)年6月、修禅の道場として高野山の下賜を請い、弘仁10(819)年春には四方に結界を結び、伽藍建立に着手した(金剛峯寺)。

 弘仁12(821)年、讃岐で満濃池の改修を指揮して、唐で学んだ当時の最新工法を駆使し工事を成功に導く。弘仁14(823)年正月、太政官符により東寺(教王護国寺)を賜り、真言密教の道場となした。後には天台宗密教台密、対して東寺の密教東密と呼ばれるになる。

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 天長元(824)年2月、干ばつがあり、神泉苑で雨乞いの祈祷を行った。この話は、ライバル関係にあった東寺の空海と西寺の守敏の、雨乞い祈祷合戦などとして伝えられ、空海が勝ったため、守敏の西寺は寂れたとされる。

 天長5(828)年には、私立の教育施設「綜芸種智院」を開設し、貴族や学僧だけでなく、広く庶民にも教育の門戸を開いた。さらに、仏教だけでなく儒教道教などあらゆる思想・学芸を網羅する画期的な総合的教育機関でもあったため、日本の大学の嚆矢ともされる。

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 やがて病を得た空海は、真言密教の基盤の強化に精力をこめて尽力したのち、承和2(835)年3月21日、高野山で弟子達に遺告を与え入定。享年62。のちに、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られる。

 

 最澄天台宗空海真言宗は、台密東密と並び称され平安密教の双璧とされる。ただし、天台宗法華経を基盤とした戒律や禅・念仏・そして密教の融合による総合仏教の様式を備えているのに対し、真言宗は仏教各派の教学の中でも真言を最上位に置くことによって、あらゆる思想体系を真言密教に包摂一元化させ、顕教と比べて密教真言密教)の優位性を説く。

 いずれにしても、桓武天皇から嵯峨天皇に至る平安京の草創期には、南都六宗など平城旧仏教に対抗するように、最澄天台宗空海真言宗の平安密教が称揚された。いわば、これら新宗教が平安新都に魂を入れる役割を担ったとも言える。

 

(この時期の出来事)

*825.閏7.2/ 葛原親王の子高棟王に平姓が与えられる(桓武平氏)。

*826.7.24/ 藤原冬嗣(52)没。

*834.1.19/ 藤原常嗣を遣唐大使に、小野篁を副使に任命する。

*834.1.27/ 京都の治安維持にあたる検非違使別当をおく。

*840.-.-/ 広隆寺講堂の阿弥陀如来像・観心寺如意輪観音像が完成する。

 

 

【9th Century Chronicle 801-820年】

【9th Century Chronicle 801-820年】

 

薬子の変

*809.12.4/奈良 平城上皇平城京旧京に移り、藤原式家藤原薬子や兄の藤原仲成らが従う。

*810.9.10/ 平成上皇藤原薬子とともに東国に脱出し、重祚と平城再遷都を狙い兵を起こそうとしたが、嵯峨天皇は機先を制して企てを阻止する。

*810.9.12/ 平成上皇は出家、藤原薬子は自殺、仲成は射殺され、薬子の変は決着する。

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 天武天皇流が続いた奈良時代だが、光仁天皇からは天智天皇流に皇統がもどり、その子桓武天皇は、政事を刷新するため、平城京から山城の国長岡京に遷都する。桓武藤原式家藤原種継を、長岡京造営の造宮使(責任者)に抜擢する。

 ところがその種継が、長岡京造営の途上で暗殺され、そのあとも不吉な出来事が続いたため、桓武天皇長岡京を放棄し、その東北の平安京へ改めて遷都した。

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 桓武は、南都六宗と呼ばれた奈良既存仏教の強い影響力を厭い、その力を削ぐために遷都を選んだが、天武系の一族を始め、遷都反対勢力も多かった。晩年の延暦24(805)年になっても、平安京の造作が百姓を苦しめているとの藤原緒嗣の建言を容れて、造営を中断させている。

  桓武天皇延暦25(806)年3月17日に崩御、その子の平城天皇践祚した。しかし平城天皇は、皇太子時代より妃の母で夫のある藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられていた。

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 即位した平城天皇は、薬子を尚侍として手元に戻し、その夫である藤原縄主は大宰帥として九州に赴任させてしまう。宮中では、薬子とその兄の藤原仲成が専横を極め、兄妹は人々の怨嗟の的になった。

 大同4(809)年4月、もともと病弱だった平城天皇が発病するが、これを宮中抗争で亡くなった親王たちの祟りと考えた天皇は、在位僅か3年で皇太弟の嵯峨天皇に譲位し,、大同4(809)年12月、平城上皇として旧都である平城京に移り住んだ。

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 このため平安京平城京に朝廷が並立し、薬子と仲成は平城上皇の復位(重祚)をめざし平城京への遷都を画策する。二所朝廷の対立が深まる中で、大同5(810)年9月6日に平城上皇は、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出した。

 嵯峨天皇は遷都を拒否することを迅速に決断し、藤原仲成を捕らえ、薬子の官位を剥奪し、坂上田村麻呂を大納言に昇任させ、藤原冬嗣式部大輔に任じるなど、周囲を固めた。

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 嵯峨天皇の動きを知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、薬子とともに東に向かったが、嵯峨天皇の命を受けた坂上田村麻呂に阻止される。挙兵を断念した平城上皇平城京に戻り、直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺し、すでに捕縛されていた仲成は処刑される。

 こうして「薬子の変」はあっけなく鎮圧され、事件後、嵯峨天皇は寛大な処置をとることを詔し、上皇は平城法王として名誉をもって遇された。かつては薬子らが中心となって乱を起こしたと考えられていたが、律令制下の太上天皇制度が王権を分掌していることに起因して事件が発生した、という評価の下に、近年は「平城太上天皇の変」という表現がなされるようになった。

 

最澄空海

*805.6.-/ 遣唐使藤原葛野麻呂とともに、最澄が帰国する。

*806.1.26/ 最澄がもたらした天台宗が公認される。

*806.8.22/ 空海が帰国し、真言宗を伝える。

*812.-.-/ 空海の「風信帖」ができる。

*815.-.-/ 最澄が東国での布教活動を始める。

*818.5.13/ 最澄天台宗の根本を説いた山家学生式を定める。

*819.3.15/近江 最澄が、比叡山戒壇設置を請願する。

*819.5.3/紀伊 空海が、高野山金剛峯寺を建立する。

*820.2.29/京都 最澄が「顕戒論」を著し、天台の自立をめざし南都勢力に反論する。

*820.-.-/ 空海が東国に布教を始める。

  

(この時期の出来事)

*802.4.15/陸奥 蝦夷の総帥アテルイが、征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏する。

*806.3.17/ 桓武天皇(70)没。

*810.3.10/ 令外官として、内政を仕切る「蔵人所」が新設され、藤原冬嗣らが蔵人頭となる。

*814.-.-/ 勅撰漢詩集「凌雲集」が完成する。

*816.2.-/京都 京の治安強化のため「検非違使」が設置される。

*818.-.-/ 勅撰漢詩集「文華秀麗集」が完成する。

 

【16th Century Chronicle 1591-1600年】

【16th Century Chronicle 1591-1600年】

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文禄・慶長の役

*1591.10.10/肥前 秀吉が、名護屋城の築城を九州の大名に命じ、工事が始まる。

*1592.4.13/朝鮮 日本軍先鋒の小西行長らが、釜山に上陸する。(「文禄の役」はじまる)

*1592.5.1/朝鮮 朝鮮王李昖が首都漢城を放棄して平城に向かい、小西行長加藤清正らが漢城に入城する。

*1592.6.15/朝鮮 小西行長黒田長政らが、平壌を占領する。

*1592.7.7/朝鮮 李舜臣が、脇坂安治らの日本水軍を撃破する。

*1593.1.7/朝鮮 小西行長らが平城から撤退する。

*1593.5.15/朝鮮 石田三成小西行長らが、明使を伴って名護屋に帰着する。

*1954.12.13/中国 小西行長の使者内藤如安が北京で明帝と会見、修好を約束する。

*1596.9.2/大坂 秀吉が明国の使節大坂城内で接待するが、講和の真相を知り、朝鮮再出兵を決める。

*1597.2.21/朝鮮 秀吉が、朝鮮へ出陣させる諸将の陣立てを定める。(「慶長の役」はじまる)

*1597.8.13/朝鮮 宇喜多秀家が、明軍を全羅道原城で攻略する。

*1597.9.16/朝鮮 朝鮮水軍を率いる李舜臣が、伊予来島領主来島通総全羅道で打ち破る。

*1597.12.22/朝鮮 明国軍が、浅野幸長らの慶尚道蔚山城を攻囲したため、加藤清正が急遽、駆け戻る。

*1598.8.25/朝鮮 徳川家康前田利家が、秀吉の喪を秘して、朝鮮在陣の諸将を召喚させる。撤兵は12月にまでかかる。

 

文禄の役

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 日本の政権が朝鮮半島に出兵するのは、663年、唐・新羅連合軍と大和朝廷百済連合軍が衝突した「白村江の戦い」で、大和・百済側が敗北した時以来、930年ぶりであった。豊臣秀吉が朝鮮に出兵した動機や意図も、諸説あるが確定的なものがなく、功なり遂げた秀吉の、老いによる誇大妄想的な要素も否めない。

 秀吉は大明帝国の平定を究極の目的として、まず朝鮮を帰服させるとともに、明との仲介をするよう強要した。その旨を伝える使者の役割を命じられた対馬守護の宗義調は、その途方もない要求に困惑し、秀吉重臣で舅にあたる小西行長と通じて、朝鮮には単なる通信使を要請し、あたかも服属使節であると偽って朝鮮使節を招いた。

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 秀吉は一向に進まない朝鮮の仲介をまたずして、 天正19(1591)年8月、征明遠征の不退転の決意を諸大名に発表した。遠征軍の宿営地として肥前名護屋城築造を指示し、翌天正20(1592)年には、征明軍の編成が整った。

 偽って朝鮮交渉を進めた小西行長宗義智は、その露顕を恐れ、自らが先鋒を務めることを願い出た。そして、文禄元(1592年)年4月12日、日本軍の一番隊の宗義智小西行長対馬・大浦を出発し釜山に上陸した(文禄の役開始)。

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 開戦まもなく釜山を落とすと、上陸からわずか20日で朝鮮の都 漢城京城)を占拠。漢城から進路を分かち、小西行長平安道北朝鮮西部)を平壌まで侵攻し、加藤清正咸鏡道北朝鮮東部)を兀良哈(北朝鮮・中国・ロシア国境付近)まで攻め上がった。

 朝鮮国王宣祖は、はやばやと首都漢城を放棄し逃避行を続け、明に援軍を要請した。朝鮮軍の瓦解をみて明軍が参戦すると、日本軍は進撃を平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとした。

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 戦線は膠着し、両軍ともに兵糧が尽きはじめると、文禄2(1593)年3月、日本と明は講和交渉を始めた。この講和交渉の場から朝鮮は外され、交渉に口を挟む余地もなく、ただ明にすがるだけだった。

 合意に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使 沈惟敬・朝鮮の二王子とともに釜山まで後退した。5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見し、6月28日には答礼使として、小西行長の家臣内藤如安を北京へ派遣することとした。

 

 明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。

 交渉を任された小西行長らの偽装により、秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けた。これは日明双方の講和担当者が戦闘は無益と考え、穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたからである。この偽装が露顕したとき秀吉は激怒し、次の「慶長の役」へと繋がることになった。

 

慶長の役

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 「関白降表」という偽りの降伏文書を受けて、明は秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5(1596)年9月、秀吉は来朝した明使節と謁見するも、その実情を知り激怒、朝鮮への再度出兵を決定した。

 慶長2(1597)年、九州・四国・中国勢を中心に総勢14万人を超える軍勢が、対馬海峡を渡り朝鮮半島に上陸した。同年7月、秀吉の陸上軍は、慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。また全羅道沿岸に展開した日本水軍は、李舜臣が率いる朝鮮水軍に悩ませられながらも全羅道沿岸を制覇する。

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 明・朝鮮連合軍は漢江を主防衛線に設定したが、漢城京城)は日本軍の接近でパニックに陥っており、朝臣たちはわれ先に都から避難しつつあった。しかし日本軍は漢城へ進まず、計画通り慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際の城郭群域の外縁部に、新たな城郭群を築いて恒久領土化を目指した。

 築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。慶長2(1597)年12月には、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍が襲撃し、攻城戦が開始される。籠城戦の日本軍は、未完の蔚山城で食料備蓄も不足して苦戦を強いられるが、毛利秀元等が率いる援軍により、明・朝鮮連合軍を敗走させ勝利した(蔚山城の戦い)。

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 大軍で再攻勢を行う計画が発表されていたが、豊臣秀吉は慶長3(1598)年8月18日に死去する。五大老五奉行により撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。ただし、朝鮮の日本軍には秀吉の死は秘匿されていた。

 明軍は本国から増援されており、9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路(東路軍、中路軍、西路軍)に分かち、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出て、これを受けて日本軍は沿岸部に築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った。

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 三路の戦い(第二次蔚山城の戦い・泗川城の戦い・順天城の戦い)では、明・朝鮮連合軍は11万を超えて、最大規模の一大攻勢であったが、日本軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。

 慶長3(1598)年8月の秀吉が死去して以降、大名間の対立が顕在化し、対外戦争を続ける状況にはなかったため、10月15日、五大老による帰国命令が発令された。朝鮮半島に展開していた諸武将は、明・朝鮮軍の妨害を受けながらも、何とか撤退を進めたが、すべての撤退完了は、同年末に至ったという。

 

 秀吉の無謀な朝鮮出兵は、何ら得るものもなく、やがての豊臣政権の滅亡につながった。戦場となった朝鮮は、人口は減少し国土も荒廃、両班支配の政権は、効果的な対策も施せず細々と続く。また、朝鮮支援の大軍を動員した明は国力を大幅に消耗し、やがての滅亡へと突き進む。

 

関ヶ原の戦い

*1599.閏3.4/大阪・山城 石田三成が、加藤清正福島正則ら7将の襲撃計画を知り、大坂から伏見へ逃れて、家康を頼る。

*1600.3.-/陸奥 上杉景勝会津に新城を築き始め、景勝が石田三成と通じて挙兵の準備中との密告が家康に届く。

*1600.7.11/近江 石田三成が、大谷吉継佐和山城で会見して家康追討策を練り、挙兵の盟主に毛利輝元を選ぶ。

*1600.7.17/大坂 豊臣氏五奉行が、家康の罪科13ヶ条を挙げて諸大名の挙兵を促す。

*1600.7.17/大坂 石田三成が、諸大名の妻子を人質として大坂城に移す指示をし、大坂天王寺の細川邸を取り囲まれた細川忠興の妻ガラシャ夫人は、これを拒否して覚悟の死を遂げる。

*1600.7.25/下野 三成挙兵の報をうけ、上杉征討中の家康は軍議をひらき、軍団を西へと反転する。

*1600.9.15/美濃 関が原で東西両軍が激突、一日で東軍勝利で決着が付く。

*1600.10.1/京都 石田三成小西行長らが六条河原で斬首される。

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 慶長3(1598)年8月5日、死期の近づいた秀吉は、幼少秀頼の後見を家康ら五大老に託して、8月18日に息を引き取る。秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は五奉行五大老による集団運営体制へと移行する。しかし五大老筆頭格の徳川家康の力が群を抜いており、結果的にこの不均衡がこの体制を崩壊させてゆく。

 分裂政争の原因は複雑に込み入っており、「中央集権派と地方分権派の対立」や「朝鮮出兵をめぐる文治派と武断派の対立」や「秀次切腹事件への対応での内部対立」さらには「秀吉の遺言遵守をめぐる豊臣奉行衆と家康支持一派との対立」などが挙げられるが、いずれも確定的ではない。

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 徳川家康はその力にもの言わせ、私的な婚姻計画をはじめ、正室北政所に代わっての大坂城西の丸入城、大老奉行の合意を無視した大名への処遇変更など、「太閤様御置目」(秀吉の遺言など事後定め置)に反する独断行為を乱発した。これに対して、太閤置目の遵守を旨とする大老前田利家や豊臣奉行衆が、家康を制御する動きを見せる。

 大老前田利家や豊臣奉行衆による家康追及の動きが起こると、 一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見るが、翌年の閏3月には前田利家が死去する。

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 豊臣政権内においては、七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立があり、大老前田利家が調停に努めていたが、その利家の死去によって、両派の対立が表面化する。

 慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家の死をきっかけに、加藤清正福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興蜂須賀家政浅野幸長の豊臣家子飼いの七将が、五奉行の一人石田三成を襲撃する事件が起こる。襲撃の動機は、慶長の役での蔚山の戦いの事後処理で、七将らに不満があったためとされる(石田三成邸襲撃事件)。

 

 これは豊臣家臣団内部の反目であり、五大老は直接関与していないとされるが、背景には反徳川派と親徳川派の対立があったともいわれる。襲撃を察知した三成は、かろうじて伏見城西丸の自身の屋敷に逃げ込んだ。結局、家康ら大老と秀吉正室北政所による仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

 

  慶長4(1599)年9月7日、家康が秀頼に節句の挨拶で伏見城から大坂城に入城する機を狙っての、家康に対する暗殺計画が密告により発覚した。首謀者は前田利家の嫡男前田利長(加賀金沢城主)であるとされ、家康は「加賀征伐」の号令を発した。金沢の利長はこの加賀征伐の報に接し、重臣を家康の下へ派遣して弁明に努め、父利家正室で利長自身の母芳春院を人質に出す約束を交わす(加賀征伐騒動)。

  この間、家康は秀吉に伏見在城を命じられたにもかかわらず、北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、城中から大名への加増や転封を実施するなど、事実上、政権を主導するごとく振る舞った。これに表立って抗うものはなく、大老や奉行もほぼ恭順するが如くであった。

 

 こうした政治的状況下、慶長5(1600)年春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化、景勝が勝手に築城や架橋をしているのは豊臣政権への反逆であるとして、家康は会津征伐を決定する。6月18日に伏見を発った家康は7月1日に江戸に到着し、7月21日に出陣すること決める。

 一方、上方に残った前田玄以増田長盛長束正家の豊臣三奉行は、広島の毛利輝元宛に大坂入りを要請する。輝元は7月15日に広島を出発し、同日、島津義弘上杉景勝毛利輝元宇喜多秀家・三奉行・小西行長大谷吉継石田三成が秀頼のため決起したことを伝える。

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 7月17日豊臣三奉行は、家康が犯した違背を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付、また家康に従った大名の妻子を人質に取ろうとした。人質要求を拒否した細川忠興の妻ガラシャらは自刃する。7月19日には輝元が大坂城に入城し、7月29日に三成が伏見に到着する。

 一方、石田三成大谷吉継が「別心」したとの知らせが家康に届き、7月29日には家康から黒田長政藤堂高虎に西進の命令が出されている。8月5日家康は小山から江戸に戻り、8月22日には、東軍諸大名は清須周辺に集結する。

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 こうして対決姿勢が明確になり、石田三成が主導し毛利輝元を総大将に迎えた西軍と、徳川家康率いる東軍は、続々と関ヶ原終結した。9月14日中に東西に布陣した両軍は、慶長5(1600)年9月15日午前、戦闘を開始、昼過ぎには東軍勝利でほぼ決着がついた。

 9月27日、家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と和睦をかわす。10月1日には、西軍を主導した石田三成らが京六条河原で斬首される。こうして、徳川家康が事実上の政権を掌握するが、秀頼以下豊臣方の勢力も西日本中心に残存し、豊臣氏は、慶長20(1615)年の大坂夏の陣大坂城落城によって滅亡する。

 

(この時期の出来事)

*1591.閏1.8/京都 イエスズ会バリニャーニとともに、天正遣欧使節の4人の少年が帰国し、聚楽第で秀吉に謁見する。

*1591.閏1.-/京都 秀吉が、京都の周囲に堤(御土居)を築く。

*1591.2.28/京都 千利休(70)が、秀吉の命をうけて葭屋町の屋敷で自害する。

*1591.12.27/京都 秀吉が、羽柴秀次に関白の位を譲り、以後、太閤と称する。

*1593.8.3/大坂 秀吉の側室淀君が、秀頼を出産する。

*1595.7.8/山城 秀吉が関白秀次を伏見に呼びよせ、関白・左大臣の位を剥奪し高野山へ追放する。その後、秀次は切腹、子女・妻妾は処刑される。

*1596.1.16/山城 秀吉が宇治川に太閤堤を築かせる。

*1596.12.19/肥前 秀吉が、京・大阪で捕えた宣教師・キリスト教徒を長崎で処刑させる。(26聖人の殉教)

*1598.3.15/山城 秀吉が醍醐三宝院で、盛大に観桜の宴を催す。

*1598.8.5/山城 死期を悟った秀吉が、長男秀頼を家康ら五大老に託し、8.18に没する(62)。

*1599.1.10/大坂 豊臣秀頼が、伏見城から大坂城に移る。

 

【世界世論情報戦】

【世界世論情報戦】

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>高笑いの文在寅。韓国側の情報戦に負けた日本が「悪役」になる日 https://www.mag2.com/p/news/410425

 

 センセーショナルな時事ネタのトピックスに、しゃかりきに反応する必要はないが、「反日」を戦略的に情報戦に組込んでいる中国や韓国に対して、日本外交が連戦連敗してきた理由を、冷静に抑えておく必要はあるだろう。

 

 たとえば日韓併合について、保守系識者などは「大韓帝国からの申し出で、当時の国際法にもとづいて併合した」などと言う。理屈上はその通りかもしれないが、事実上は植民地化して植民地支配したと、おおむねは考える。そして欧米の一般人など、朝鮮や日本がどこにあるかも関心がないので、そんなもんだろうと思っている。

 

 従軍慰安婦や徴用工問題も同じで、「軍が強制的に慰安婦を連行した事実はない」とか「強制労働ではなくて、自主的な雇用労働者で給料も支払われていた」などと言ったところで、関心の薄い韓国や日本の若者は、どうでも良いとしか受け取らない。

 そして性差別・人権人道問題として普遍的・世界的な話題として展開されると、セックス・スレイブ(性奴隷)だのスレイブ・レイバー(奴隷労働者)という言葉にされて独り歩きする。となると、ネット拡散したフェイクニュースと同様、もはや対応不可能である。

 

 韓国による福島などの水産物輸入禁止問題も、圧勝と思われていたWTO提訴でも、判断できないから二国で決めてくれとされ、事実上の敗北。これも環境問題や消費者人権問題に話を普遍化して、ロビー活動を徹底した韓国の勝利だろう。

 

 中国との間でも、古くは満州国建国問題で、国際連盟リットン調査団が、中国のメンツと日本の権益を両立させる玉虫色の報告を出したのに、日本は勝手に切れて国際連盟を脱退、以降、世界にメッセージを発信する場所を失くしてしまった。

 さらに、南京大虐殺事件でも、「当時の南京の人口は20万程度、どうやって30万人の虐殺ができるのだ」とか「国民党兵が民衣をまとって便衣兵として民間に紛れたから、国際法にてらして(スパイはその場で射殺可)行っただけ」だとか言うが、一般民を含む数万単位の虐殺があったのは否めないだろう。「大虐殺」か「虐殺」かなど、当事者以外は関心を持たない。

 

 つまり、日本は「真実・事実を示せば、通る」とか「国際法にとって正しい手順を踏んでいる」とか主張するが、そんなことは当事国以外は関心がないし、関係のない他の国々、他国民にとって、どうでも良いことだし、当事者同士で決めてくれというスタンスに流れるのは当然だ。

 そういう場合、より早くより広くより浅く、一方的な情報を流して浸透させた方が勝つ。ジャイアンに一方的に吹き込んで、のび太をぶん殴らせるスネ夫方式が勝つわけで、この種の世界に、のび太を助けるドラえもんは存在しないのだ(笑)

 

 

 

【16th Century Chronicle 1581-1590年】

【16th Century Chronicle 1581-1590年】

 

豊臣秀吉の政権樹立

*1581.6.25/因幡 羽柴秀吉が毛利方鳥取城を包囲し、兵糧攻めにする。

*1582.5.7/備中 秀吉が、毛利氏の武将清水宗治が守る高松城(岡山)を攻囲し、水攻めにする。

*1582.6.2/京都 明智光秀が謀反をおこし、本能寺宿泊中の織田信長(49)を急襲し自刃させる(本能寺の変)。

*1582.6.13/山城 秀吉が毛利攻めから急遽とって返し、山崎で明智光秀を破る。

*1582.6.27/尾張 織田家宿老の羽柴秀吉柴田勝家らが清州城に集まり、織田家後継を長男信忠の遺子三法師(秀信)に決める。

*1582.10.15/京都 秀吉が、京都大徳寺で信長の葬儀を行う。

*1583.4.21/近江 秀吉の軍勢が柴田勝家の軍勢を破り、勝家は越前北庄城を包囲され自刃する(賤ケ岳の戦い)。

*1584.4.9/尾張 徳川家康が、三河侵攻をはかる秀吉勢の三好秀次らを打ち破る(長久手の戦い)。

*1585.3.8/京都 秀吉が京都大徳寺で、千利休を茶頭として大茶会を催す。

*1585.7.11/京都 秀吉が関白となり、姓を羽柴から藤原に改める。

*1585.8.6/阿波 秀吉が長宗我部元親を降伏させ、四国を統一する。

*1585.-.-/大坂 大坂城天守が完成する。

*1586.10.27/大阪 家康(45)が大坂城で秀吉(50)と会見、臣従を誓う。

*1586.12.19/京都 秀吉が太政大臣に任じられ、豊臣の姓を授けられる。

*1587.6.19/筑前 秀吉がキリシタン禁教令を出し、宣教師に帰国を命じる。

*1587.9.13/京都 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る。10月には京都北野で空前の大茶会を催す。

*1588.7.8/ 秀吉が諸国の農民に武器の所持を禁じる(刀狩り令)

*1590.7.11/相模 3ヶ月にわたる籠城戦のすえ、北条氏の小田原城が落城し、北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられる。

*1590.7.13/相模 秀吉が小田原城に入り、徳川家康に関東8国を与える。まもなく家康は江戸城に移る。 

 

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 豊臣秀吉は、天文6(1537)年ごろ、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる。木下藤吉郎と名乗り、当初、今川氏配下の松下家に仕え、天文23(1554)年頃からは織田信長に小者として仕え、次第に頭角を現した。

 信長の草履取りをした際の機知から、清洲城の普請奉行、台所奉行などでのそつのない手配、墨俣一夜城建設の逸話などとともに、永禄11(1568)年の近江箕作城攻略戦や、元亀元(1570)年、越前国朝倉義景討伐で浅井と朝倉の挟撃での危機に見事な退却戦(金ヶ崎の退き口)を務めた手際など、戦略面での功績が語られ、「木下藤吉郎」として信長の有力部将となってゆく出世物語が語られる。

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 そして元亀元(1570)年、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を打ち破った「姉川の戦い」では、奪取した横山城の城代に任じられ、その浅井氏との攻防戦(志賀の陣)や小谷城の戦いで、浅井・朝倉を打ち破る大功をあげた。

 浅井氏滅亡の後、北近江の長浜城主となる。天正3(1575)年、長篠の戦いに従軍し、翌年、北畠具教の旧臣が篭る霧山城を落城させた。天正5(1577)年には、越後国上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を命じられるが、作戦をめぐって勝家と意見が食い違い、勝家らは謙信に敗れて(手取川の戦い)、信長から叱責される。

 

 しかしすぐに、明智光秀らと共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げ(信貴山城の戦い)失点を回復するとともに、重要武将の一人としての地位を確保した。天正5(1577)年10月からは、天下統一を目指す信長の命を受けて、毛利輝元らの中国地方攻略を進め、播磨・但馬・備前・美作などを次々に平定し、鳥取城の兵糧攻め高松城の水攻めなど歴史に残る攻城戦を実行した。

 しかし、天正10(1582)年6月2日、主君織田信長明智光秀の謀反により、京都本能寺で自害させられる「本能寺の変」が起こった。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に軍を返す(中国大返し)。

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  天正10(1582)年6月13日、秀吉は「山崎の戦い(天王山の戦い)」において明智光秀を打ち破り、光秀は落ち武者狩りにより討たれた。秀吉はその後、京都における支配権を掌握する。

 天正11(1583)年、対立するようになった柴田勝家軍を近江「賤ヶ岳の戦い」で打ち破り、越前に撤退し勝家は正室お市の方と共に自害する。さらに織田家の実力者たちを次々に葬りさった秀吉は、家臣第一の地位を確立、実質的に信長を継承することになった。

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 天正12(1584)年、信長の次男織田信雄は、秀吉に反発し徳川家康と結び、半年にわたる「小牧・長久手の役」が始まる。4月9日の長久手の戦いでは、信勝・家康連合軍が、秀吉側軍勢を圧倒したが、秀吉が直接に反攻態勢に出ると、信勝は単独で講和を結び、家康も兵を引いて戦役は終わる。

 天正14(1586)年、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り太政大臣に就任する。徳川家康に対しては融和策に転じ、婚姻や人質を交わすことで、家康は上洛して秀吉への臣従を誓うが、東国に関しては家康を介しての間接支配を認めた。

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 天正15(1587)年、西国も平定した秀吉は、平安京大内裏跡(内野)に「聚楽第」を建設し、翌天正16(1588)年4月、聚楽第後陽成天皇を迎え、徳川家康織田信雄ら有力大名に忠誠を誓わせ、ここに豊臣政権を確立を天下に示した。

 天正19年(1591年)、甥の秀次を家督相続の養子として関白職を譲るが、やがて側室の淀殿が秀頼を産んだため、秀次を謀反の疑いで切腹させ、幼い秀次を後継に据える。これが秀吉の死とともに、豊臣氏滅亡の禍根を残すことになった。

 

(この時期の出来事)

*1581.2.28/京都 信長が、御所門外に正親町天皇の隣席のもと、盛大に「御馬揃」を行う。

*1582.1.28/肥前 大友・大村・有馬の九州3大名が、少年使節ローマ教皇のもとへ派遣する(天正遣欧使節)。

*1582.3.11/甲斐 武田勝頼(37)が織田軍に攻められ、嫡男信勝とともに自害する。

*1582.6.4/三河 堺滞在中だった徳川家康(47)は、本能寺の変の報せに接し、必死の脱出行で居城岡崎にたどり着く。

*1584.6.28/肥前 ポルトガル商船が平戸に来航する。

*1586.-.-/京都 彫金師後藤徳乗により、天正大判が鋳造される。

 

【16th Century Chronicle 1571-1580年】

【16th Century Chronicle 1571-1580年】

 

織田信長の全国制覇

*1571.9.12/近江 信長が延暦寺を焼き討ちにする。

*1573.7.18/山城 将軍義昭が、宇治槙島城で信長に降伏、京を追放される。(室町幕府1573.滅亡)

*1573.8.20/越前 織田軍に包囲された朝倉義景が、自刃する。

*1573.8.27/近江 織田軍に小谷城を包囲され、浅井久政・長政父子が自害する。

*1573.12.26/大和 松永久秀・久通父子が信長に降伏、多聞城を明け渡す。

*1574.9.29/伊勢 長島の一向一揆が信長に降伏する。

*1575.5.21/三河 信長・家康の連合軍が、設楽原で武田勝頼を破る(長篠の戦い)。

*1575.8.16/越前 信長が越前府中の一向一揆を制圧する。

*1576.2.23/近江 織田信長が安土に新城を築き、美濃岐阜城から移る。

*1577.6.-/近江 信長が、安土城下町を楽市とする。 

*1577.11.20/京都 織田信長が右大臣に任命される。

*1578.11.6/大坂湾 信長の水軍九鬼嘉隆が、木津川河口で毛利水軍を破る。

*1578.11.16/摂津 高槻城主の高山右近が信長に降伏、信長に服属する。

*1579.5.11/近江 信長の安土城天守が完成する。

*1580.閏3.5/摂津 本願寺顕如織田信長の和議がなる(石山合戦終結)。

 

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 織田信長は、天文3(1534)年、尾張国織田信秀の嫡男として誕生、幼名は吉法師。尾張国守護代織田氏も分裂しており、その分家であった信長の父 信秀は、守護代織田達勝らの支援を得て、尾張国内において勢力を急拡大させていた。

 天文21(1552)年、父信秀が死去し、家督を継ぐと信長と名乗り、織田家間で対立する尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼし、弟の織田信勝を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めた。

 

 永禄3(1560)年、信長は「桶狭間の戦い」において、駿河戦国大名今川義元を撃破した。そして、三河徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8(1565)年、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。

 永禄10(1567)年、信長は「稲葉山城の戦い」で美濃斉藤氏を倒し、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となり、印文「天下布武」の朱印を使用しはじめて、室町幕府再興の意志を示すようになった。

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 永禄11(1568)年、足利義昭を奉戴し信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は足利義昭を第15代将軍に擁立し、室町幕府との二重政権(連合政権)を形成した。

 しかし、信長が平定を目指した五畿内には敵対勢力も多かった。元亀元(1570)年、徳川家康と連合して、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を「姉川の戦い」で破るが、さらに三好三人衆比叡山延暦寺石山本願寺など窮地に追い込まれる。

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 元亀2(1571)年、比叡山を焼き討ちにして延暦寺勢力を駆逐するも、元亀4(1573)年には、「三方ヶ原の戦い」で織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れる。さらに元亀4(1573)年に入ると、武田軍は遠江国から三河国に侵攻し、こうした武田方の進軍を見て、足利義昭は信長を見限り敵対するようになる。

 そんななかで、元亀4(1573)年4月、武田信玄(53)が病死し武田軍は撤退する。武田氏の攻撃停止により信長は態勢を立て直し、7月には山城守護所(宇治槇島城)に立て籠もった足利義昭を破り追放する(足利幕府滅亡)。

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  将軍不在で中央政権を担うようになった信長は、元亀から天正への改元を実現させ、その天正元(1573)年に浅井長政朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼす。天正3(1575)年には、「長篠の戦い」での武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。

 天正8(1580)年、長期にわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示した。さらに天正10(1582)年、甲州征伐を行うと、武田勝頼を自害させて武田氏を滅亡させるなど、東国の大名の多くを従属させた。

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 信長は、さらに四国の長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、安芸(広島)の毛利輝元討伐のため中国地方攻略の準備を進めていた。しかし、天正10(1582)年6月2日、全国統一目前にして、重臣明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害してはてる(本能寺の変)。享年49。

 

(この時期の出来事)

*1571.夏/肥前 ポルトガル船が長崎に来航、初めて交易を行う。

*1572.12.22/遠江 武田信玄が、徳川家康軍を三方ヶ原で破る(三方ヶ原の戦い)。

*1573.4.12/ 武田信玄(53)没。

*1578.3.13/ 上杉謙信(49)没。