メルロ=ポンティ「身体性の現象学」追補

メルロ=ポンティ「身体性の現象学」追補

 

http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20180719(『知覚の現象学メルロ=ポンティ


 メルロ=ポンティの「身体性の現象学」について述べた時、その構造を「映写室における映写機と映像」に例えた。これは、現象学における「超越論的主観性(=「志向的意識」)」の「意味生成機能」について述べたものであるが、そこでは「超越的真実在」というようなものは想定していない。

 「伝統芸の継承」が、「超越的真実在」を指し示するものだという考えもあるようだが、「超越論的現象学」では、そのような超越的存在が「志向的意識」に対して外在(=超越存在)しているとは考えない。「伝統芸の継承」は、より広く「美(芸)の共有可能性」と「客観的価値の担保」を要請するが、それは必ずしも「超越的真実在」によって保障される必然性はない。
 

 西洋キリスト教世界では、「神=(超越的真実在)」という絶対超越者が「我々の意味世界」を吊り下げて担保する形で、それらの共有性を維持して来た。しかし日本にはそのようなものはなく、「万世一系の皇統」の継承、すなわち「天皇制」によって、それに伴う伝統文化が維持されて来た。いわば、「超越的真実在」の代行的機能を果たしてきたといえる。

 三島由紀夫などは、戦後の「民主天皇」になって、そのような「伝統継承機能」も失われたという危機感を持ち続けていた。しかし坂口安吾はまったく逆の立場で、「必要」のみが伝統を継承するとする。必要がなければ、継承されないで一向にかまわないとする。
 

 現象学に戻ると、「超越的真実在」による担保なしで、いかに「意味共有性」が保証され得るかという問題が残される。ここで、志向的意識の「間主観性」が主題化される。もともとが「間(あいだ)的存在」であり「繋ぐもの」であったわけで、「超越的真実在」などに頼る必要はない。

 これは「主体-客体」の思考では分かりづらいが、むしろ逆に「間主観性」のもとで「主-客」が分節されてくると考えればよい。「映写室(間主観的志向意識)」の中に、「映写機(ノエシス)」と「スクリーン(ノエマ)」が装置されていて、その構造の下で「主-客の物語」が映写されているということで、「映像(主-客構図)」の側からは、その映写システムは見えてこない。
 

 この問題に関して、フッサールでは、「超越論的還元」といった抽象的な概念で、「超越論的主観性(間主観性)」を見出すとされていたが、ハイデッガーになると、「実存(現実存在)」という契機から、「現存在(Da-Sein)」の本来性(=間主観性)を取り戻すというように、置き換えられる。

 安吾の「堕ちよ」とは、「実存せよ」と同じ意味であろう。伝統芸能なるものも、その「伝統」などは一旦断ち切って、「Da-Sein」に立ち戻って、その「必要(=場)」を問い直して見よ、ということではないか。
 
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 カント的な観念論では、「神」や「物そのもの」といった「超越的真実在」によって担保されないと、「現象」は根拠無きものとなり「ニヒリズム」に陥る。

 それに対してハイデッガーは、現実存在(現存在)として「私たちは、私たち自身も、私の周りの世界も、そこに存在していることを知っている」という「自明性」から出発する。「何ものかの、何ものかへの意識」という「志向的意識」だけが、当座の手がかりになる存在者(=現存在)で、それを「映写室」に例えてみたが、その「外」は無く、「志向的意識」そのものが「世界」を構成する。 

 その「特異点」として、「ノエシス(能産)」/「ノエマ(所産)」とされる「契機」が見出される。それはあくまで、ある現象の契機であり、それ自身は存在物ではない。「ノエシス=映写機」/「ノエマ=スクリーン」と例えた。ノエシスの「意味生成機能(能産性)」により、生成された「意味世界(=所産・映像)」がノエマとしてのスクリーンに映写される。

 その生成された意味世界の中で初めて、「主体-客体」という構図も誕生するのであって、映写機(ノエシス)やスクリーン(ノエマ)は、決して「主体や客体」ではないのである。
 

 主体や客体が「先験的」にあって、その間を繋ぐものとして「間的存在」があるのではなく、むしろ順序が逆で、「志向的意識」という世界が「間主観性」という性質を「既に」備えており、そのもとで「ノエシスノエマ」機構により、「主体-客体」という「意味世界(=映像・幻影)」が産出されてくる。

 普遍的な「意味共有性」というものは、伝統芸能を支える日本人といった、意味主体が生成された後のことで、すでに生成された「意味世界=映像」の中での話となる。「映写機=主体、スクリーン=客体」ではなく、「主体も客体も、意味共有制」も、「間主観性」のもとでの映写システムに生み出された、「結果」としての映像の中での「物語り」であり、「主=客」的世界観は倒錯した認識である。 

 「現存在」(=「志向的意識」=「間主観性」)は、そのような「既存の意味世界」に投げ出されてある「被投性」の下にあるから、そこから「既存の意味」を剥ぎ取らねばならない(エポケー=一旦停止・中断)。そのようにして得られた「純粋意識・超越論的主観性」に立ち返って、新たな意味の生成される現場に立ち帰ることで、その価値を捉えなおそうというのが、ハイデッガーの「解釈学」である。


 ハイデッガーは「現存在から存在へ」という主題を掲げ、その契機を「実存」に見出す。実存とは「現実存在」の略語であり、これは「本質存在」に対立する概念である。「実存は本質に先立つ」と言われるように、「本質=意味世界(映像世界)」ではなく「現実の存在様態に立ち返ること(=実存)」である。ハイデッガーは、「志向的意識=間主観性」を「世界-内-存在」と読み替えて、その存在構造を解明しようとした。
 

 このように考えてくると、《新しい形の「間主観性」や「主体」「客体」を創造する》というのは無意味になってくる。「新しい間主観性」などがあるのではなく、すでにある「間主観性」が、「主体-客体」などという迷妄の意味世界で隠されているに過ぎないのだ。

 「現象学」も、広い意味では「観念論」だ。しかし従来の観念論は、「間主観性」のもとで生成された「意味世界=主体客体世界」の幻影映像の上であれこれ考える「狭義の観念論」であり、それを批判検証し、より客観的な基盤に立とうとするものである。それがニヒリズムに見えるのは、神のような超越存在を前提にした「狭義の観念論」の立場で考えているからに過ぎない。

 

メルロ゠ポンティ『知覚の現象学』に関わる対話

メルロ゠ポンティ『知覚の現象学』に関わる対話

 

<Nobuo Sasaki>July 19, 2017  メルロ゠ポンティbotより

《身体は、必然的に「ここ」にあるのと同様、必然的に「今」実存している。それは決して「過去」となることはできない。『知覚の現象学』》

 


<Mori Masahiro>
 近代は、肉体よりも精神や知性を優位に考えて来たとはよく言われることです。「もっとシャキッとしろ」とか言って、身体性よりその精神性を重要視した。しかし、シャキッとするには肉体も重視しなければ出来ない。そんな言葉さえも下手をすると虐待だイジメだと問題視される。

 「人間は顔じゃないよ心だよ」なんて云う現代人の言葉は、持って生まれたものはどうしようもない側面はあるものの、精神が肉体を冒してしまったその延長線上にあるし、「健全な肉体に健全な魂宿れかし」と云う言葉はとんと聞かれない。真摯に肉体を鍛えれば、自然と精神も鍛えられる。

 その例で言えば、顔付きと云ったものも心と同じくらい重要なもので「人間四十にもなれば己の顔に責任を持て」とも云う。美醜の基準は時代と共に違うけれど、肉体の美醜は今や美人コンテストやボディビルコンテストでしか測られず、芸能界ですら余り問題にしなくなり、世の中はエステだ何だと言うわりには相変わらず得体の知れない心の方が大事だと錯覚している。

 しかし、心も体も一つにして命は存在しているのだから、どちらか片方に重きを置くのは間違っている。肉体より精神を優位に置くのは、偽善の始まりです。肉体を優位に置いた方が、未だ可愛げもある。
 
 ポンティの書いていることも判るような判らないような読解力ですが、肉体の復権を説いたことは正しい。現代ほど精神や知性の下に肉体が等閑にされている時代はない。

 ある人と理解し合いたいと思っていくら話し合っても解り合えないなら、最後は肉体を以って闘うしかない。それがお互いへの誠意であり人間愛ですよ。肉体をぶつけ合って闘った者同士の間に生まれる理解や親近感がそれを証明しています。それが現代では暴力事件になってしまうし、自己保身からなぁなぁになってしまう。民主主義、平和主義の重大な欠点です。

 
 この本でポンティは精神や心にも言及しているんでしょうが、上記の言葉で「決して過去となることは出来ない」と云う部分が解らない。相手の顔の印象からその人間性を推し量る「感覚派」としては、「知覚の現象学」と題したこの本は読まなくては。まぁ、佐々木さんがこの文章を引用した思いを判ってないのかも知れませんが、ポンティから受ける僕の感想はこんなところです。お粗末。

 

<Nobuo Sasaki>
 近代観念論の「主体-客体」という構図から脱却するために、いまだ主客未分化の「志向的意識」に着目した「現象学」が、フッサールによって展開された。

 弟子のハイデッガーサルトル、メルロポンティらによって、それぞれ個性的な方向に展開されたが、なかでもメルロは「身体性」に着目した。


 志向的意識といっても、そのままでは抽象的でしかなく、その位置する「場」として、メルロは「身体性の延長」ということに求めた。

 例えば、手を伸ばして指さした、その先に相手がいる。その間をつないでいるものが「身体性による志向意識」というわけだ。その意識の下で「自と他」が分節されるに過ぎず、実在するのは「現象する意識」の方だというわけだ。


 この現象学的な身体性は「いま」「ここ」でしかあり得ない。過去や未来の自分などと言うのは、観念論的な主客構図のもとで「思考」された観念に過ぎない。「いま・ここ」で示されるものこそ「実存」であり、ここで実存主義とも繋がる。

 このような「思考的身体性意識」の下においては、「精神」や「肉体」もその意識のもとでの一つの「現象」に過ぎず、それ自体、実在ではない。となれば、「肉体か精神か」という問題構成も発生しない。どちらを重視するかというのは、もはや意味をなさないということになりますね。

 

<Mori Masahiro>

 この本を読んでから、と思ったんですが、いつ読み終えるや解らず読み終えたところで理解出来る自信もない、と云うことで取り敢えず無い頭を絞って夜も寝ないで昼は寝て考えたことを。まぁ、無学の徒の戯言で退屈でしょうが、お目汚しに。


 現象学なるものはよく判りませんが、世間で言うところの「現象」とは、主体も客体もはっきりしない集合意識が或る一つの方向へ収斂されることで発生するのだとは思います。

 その志向性が拠って来る「場」として、ポンティは「身体性の延長」を規定したと、その「延長」と云うのがよく解らないけれど、それを単に「身体性」と勝手に解釈して佐々木さんの表現を借りれば、「手を伸ばして相手を指差している、そしてその向こうに相手が存在する」そう云う状況を創り出しているのは、確かに「身体性に依る意識」だと云うのも何となく判る様な気がするし、そこに二人の意思と云うものが存在するわけだから当然何らかの志向性を持っていると云うのも・・・。

 しかし、ポンティはその志向意識の中に精神、又は観念といったものの存在はどう関わっていると考えているんだろう。

 

 「身体性による志向意識」と言うのだから、その意識は分化された自己と他者を観ていると考えてはダメなんですかね。そう云う手振りと云う身体性で以てそこに志向的な意識が存在すると意識しているわけだから、意識している自分をそれ以上の自意識で観察している自己が存在する。それも現象に過ぎない? 身体性「意識」だと言っているんだから、そう思念する精神がなければならないように思うんですが。

 「肉体」が現象に過ぎないと云うのも、「過去や未来の自分」が「思考された観念に過ぎない」と云うのも年齢と共に実感しないではないけれど、実存主義と云うのは、例えば佐々木さんと僕がこう云うことを遣り取りしている、現実には屁の突っ張りにもならない話題が何故佐々木さんと僕の意識の中に生じたのかを解明しようとする哲学のように思うんですが、そしてその果てに上手く行けば「超人思想」に行き着くのかも知れないし、下手をするとポンティみたいに「身体性」を持ち出して精神性に何らかの根拠を与えようと云うことになる。

 まぁ、やはりこの本を読了してからまた機会があればお相手願いますよ。それにしても高価な本ですねぇ、最近一冊5000円もするような本を買ったことがありません。
 

 

<Nobuo Sasaki>

《意識している自分をそれ以上の自意識で観察している自己が存在する》

 

 ここに見られるような、「意識している自分」を客体として「観察している自己」という主体が存在する、という考え方は「主体-客体」の観念論的構図ですが、そうすると、さらにその自己(主体)を観察している「もう一つの主体」が存在しなければなりません。
 で、さらに「それを観察している主体」が居るはずとなって、「神」でも持ってこないかぎり「主体の無限退行」が起きます。つまり、そのような「主体」を保証するものは何もない、というニヒリズムに陥るしかないわけです。


 このような近代哲学の「主-客構造」の根本矛盾を回避するために、それらすべての枠組みを取りはらったところに、無規定に純粋に存在する「志向的意識」を見出し、それを基本において、逆にそちらから、これまでの「主-客」と思われていたものを捉え直そうという試みが、現象学の根本スタンスです。
 つまり「志向的意識」とは、「(自己というような)何者かの意識」(主体意識)ではなく、「(志向する)何物かへの意識」(対象意識)なのです。つまり「自己」もまた、指向された対象の一つであって、主体でも何でもない。


 したがって、誤解されやすい従来の「主体-客体」という用語は使わずに、「ノエシス(考える作用)/ノエマ(考えられたもの)」という契機として捉えなおします。「志向的意識」の両極に「ノエシス」と「ノエマ」という契機(=作用)があると考えると、何となくわかる。
 ノエシス(考える作用)の知覚作用を契機として、その対象として知覚・構築されたもの、つまり「考えられたもの」がノエマであるとされる。そのような作用の結果として認識されるものが「主体-客体」という構図であり、それは作用の「結果」でしかない。そこでは、「主体を見るもう一つの主体」という無限退行の矛盾は消失します。

 


 近代人の我々は、無意識の内に「主体-客体」構図の下で考えてしまいがちです。現象学とは、それらの枠組みを一旦捨てて(フッサールはそれを「エポケー ”休止”」と呼ぶ)、意味付けられる前の世界から捉え直そうというものであって、思考スタイルの根本的な変革を必要とします。
 さらにメルロポンティは、そのような志向的意識の作動する「場」を、「身体性」として捉え直した。この身体性は、決して「自己の身体=主体」/「他人の身体=客体」と言った単純なものではないという、さらに厄介な話が関わってきますが、それはまた別の機会にて。

 


<Nobuo Sasaki>

 ちなみに、私は「知覚の現象学」は読んでおりません。というか、ほとんどの原典は読んでおらず、断片知識の寄せ集めで適当に語っています。唯一、読んだと言えるのは「存在と時間ハイデッガー)」ぐらいですか。
 

 

<Mori Masahiro>

 つらつら考えてみたところで、不勉強では理解出来る筈もないのですが、せっかくだからせめて微かな明かりくらいは見たいもんです。

 そこで、現象学に言うところの「超越的な主観」の、その「超越」と云う言葉には超越的存在、即ち神と云う意識は含まれているんでしょうか。それともこの「超越」と云う言葉自体が「主体客体」と云う言葉同様に現象学では一般的な意味ではないのかな? その一般的思考からすれば、神を想定しない「超越的意識」なるものは、哲学と云う学問の中の命題に過ぎない、そんな風にも思えるんですが。


 確かに一般的な「主体ー客体」と云う言葉ではどうも行き詰まってしまう。意識している自分を意識する自分、そしてそれを意識する自分・・・と云う際限の無いことになってしまう。

 そこでそのメビウスの連環を断ち切って「思考スタイルの根本的な変革」を果たし「純粋に存在する志向的意識」や「志向する何物かへの意識」を知覚し、その中では自己などと云うものも単なる「指向された対象」に過ぎず「主体でも何でもない」と悟るためには、人の意識を離れたところに「ノエシス」と意識自体が一つの自主性を持って存在すると仮定し、その対象としての「ノエマ」を想定し、両者の間に何らかの力学的な「作用」が発生すると想像する。そう云うことでいいんですかね。

 

 しかし、その「何ものかへの志向意識」や「考える作用」や「考えられたもの」の存在エネルギーと云うか原初の力と云うか、は何処に帰属すると考えればいいのか。 そう考えるとやはり一般的思考回路では、そこに「神」的な存在を持ち出さなければ辻褄が合わない。

 いつか投稿されていたやはりポンティの「世界の散文」の中の「私と他人を同一化」するに似た超越的、強いて言えば神的な意識と云うものを持ち出しその万人を貫く意識を設定しなければ、人はニヒリズムを突き抜けることが出来ずデカダンスに陥ってしまう。

 ポンティの言うそう云う意識の拠ってくる場としての「身体性」は、自己や他人の単なる身体ではないとなれば、ますますそこに「神的な意思」「神としての身体性」と云ったものを持ち出さなければ、とも思うんですが、まぁ、現象論に限らず哲学自体をもっと勉強する必要があるんでしょう。 この歳でこのアタマで出来るかなぁ。
 

 

<Nobuo Sasaki>

 まず、「超越的」(独:Transzendent、英:transcendent) と「超越論的」(独:Transzendental、英:transcendental)いう二つの術語が、区別して使われます。
 「超越論的」という用語はカントが使いだした。まず「超越的」ということでは、神のような「超越」存在は、我々のような内在的存在には不可知なものとされ、そのような超越存在は、内在的な既存意味体系から「類推」するしかなく、それは独断と偏見に満ちたものとならざるを得ない。


 そこでカントは、「理性自体の批判」を通じて、「人間の理性的認識は、どこまで可能か」「人間の理性は、経験を超えた先験的な超越的真実在と、どのように関わり得るのか」についての、境界策定を行おうとした。つまり「超越的」なものに対する関与の余地を、適正な形で策定しようとした。これがカントの「批判哲学」であり、「超越論哲学」である。
 カントにとって「超越論的」とは、「如何にして我々は”超越的”なものへの認識が可能であるのかを問う」ことであり、「超越論哲学」はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。


 大雑把に言うと、「超越的」とは、外在する超越者について直接語ることであり、「超越論的」とは、あくまで内在しながら「超越者の痕跡」を吟味する立場と言えよう。

 


 フッサールの「現象学」では、かなり違う意味で「超越論的」という使われるが、上記の範囲では共通していると思われる。
 問題は、「超越論的」に探索する方法を、如何に確保するかである。それは、カントでは「批判的方法」であり、フッサールでは「超越論的主観性に基づく超越論的還元」を言い、ハイデッガーは、「世界内存在の解釈学的方法」を提示した。そして、メルロポンティは「身体性に直接問う」という方法を取ったと言える。


 なお、「志向的意識」における「ノエシスノエマ機構」を、「主体-客体の構図」で捉えてはならない。例えれば、ノエシスが映写機、ノエマはスクリーンに投影された映像、指向的意識は、それらを暗幕で囲った映写室全体とすれば分かりやすいか。

 

【15th Century Chronicle 1421-1440年】

【15th Century Chronicle 1421-1440年】

 

◎正長の土一揆

*1428.9.18/畿内 近江・山城の土民が、徳政を求めて蜂起する。(正長の土一揆

*1428.11.22/畿内 幕府は、徳政を求める一揆の禁止令を出す。

*1429.1.29/播磨 播磨国土民が、守護赤松満祐の荘園代官の排除を要求して蜂起するが、赤松満祐に鎮圧される。(播磨の国一揆

*1433.閏7.17/近江 近江草津周辺の馬借一揆が、上洛途上の信濃守護小笠原政康が襲われる。

*1434.11.11/大和 幕府が遣明船のために税を課したため、興福寺大乗院領の農民が蜂起する。

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  1428(正長1)年9月18日、近江坂本や大津の馬借が起こした一揆は、農民を巻き込み畿内一帯に波及し、京都市中でも酒屋、土倉、寺院(祠堂銭)を襲われた。これだけ大規模な一揆は初めてで、一揆土民は幕府に「徳政」を求めたため「正長の徳政一揆」とも呼ばれる。

  この時期には、天候不順による凶作、三日病と呼ばれた風邪かはしかと思われる流行病、足利義持から足利義教への将軍の代替わりなどの社会不安が高まっていた。幕府は管領畠山満家に命じて制圧に乗り出し、侍所所司赤松満祐らが出兵したが、一揆の勢いは衰えず、京都市中に乱入し奈良にも波及した。

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 現代の法感覚では、一旦権利を失った土地などを元に戻せというのは条理に合わないが、当時は元来の所有者に戻すのが正しいという考えがあり、そのような徳のある政治を「徳政」と呼んだ。

 従って、徳政を要求する一揆は、土地を奪われた農民や落剝した武士などにとっては当然の要求であるという観念があったとされる。そしてそれは、政権のトップが交代する時などに行われるという期待があった。

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 そこへ飢饉が重なり、困窮した土民(農民など)がなだれ込み、一気に一揆勢力は膨れ上がった。一揆は酒屋、土倉と呼ばれる金融業者などを襲い、勝手に借金の証文を破棄するなど「私徳政」と呼ばれる実力行使となった。

 大手の寺社も大規模な荘園をもち、高利貸しで所有地を拡大しており、一揆の対象となった。中でも強大な勢力を誇った大和の興福寺は、同地域の守護職も兼ねており、一気に押されて徳政令を認めたために、地域内に公式な徳政を認めたという記録が残されている。(柳生の徳政碑文)

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 1429(正長2)年2月、正長の土一揆の影響を受けて「播磨の国一揆」が起こる。正長の土一揆の鎮圧にあたっていた播磨国守護赤松満祐は、あわてて自らの領地に向かい、一揆を鎮圧する。

 以後、さまざまな形で一揆が頻発するようになり、国人・守護なども関わって将軍の権威は失われ、やがて応仁の乱の戦乱の世の中に突入してゆく。

 

 

◎将軍足利義持・義教と鎌倉公方足利持氏の対立

*1423.3.18/ 将軍義持が将軍職を子の義量(5代将軍)にゆずり、等持院で出家する。

*1423.8.2/常陸 鎌倉公方足利持氏(26)が、幕府派の関東の有力豪族を次々と討滅し、京都と鎌倉の緊張が増す。

*1424.2.5/ 鎌倉公方持氏が、将軍義持に謝罪し和睦する。

*1425.2.27/ 5代将軍足利義量(19)が、酒色に溺れ病死する。

*1428.1.18/ 4代将軍義持(43)没。義持が後継を定めなかったため、くじ引きで青蓮院僧義円に決まり、還俗して6代将軍義宣(のち義教)となる。

*1428.5.25/相模 鎌倉公方持氏が反幕府の挙兵を企てるが、関東管領上杉憲実に制止される。

*1429.3.15/ 足利義宣が正式に6代将軍に就任し、義教と改名する。

*1439.2.10/相模 関東管領上杉憲実が、主君である鎌倉公方足利持氏を攻め、自殺させる。

*1440.3.15/下総 関東の豪族結城氏朝が、持氏の遺児を擁して結城城に籠城するが、4月16日、幕府軍の攻撃の下に落城する。これにより、鎌倉公方勢の東国勢力はほぼ消滅する。(結城合戦

 

 

(この時期の出来事)

*1432.8.17/摂津 将軍義教が兵庫で遣明船を見送り、勘合貿易が再開される。

 

 

【15th Century Chronicle 1401-1420年】

【15th Century Chronicle 1401-1420年】

 

勘合貿易日明貿易

*1401.5.13/ 足利義満が、博多の商人肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣する。(明との本格的通交の開始)

*1402.9.5/ 義満が北山第で明使と会見する。明永の楽帝帝は足利義満を「日本国王」に冊封した。

*1404.5.16/ 義満が北山第で明の使節と会見、勘合府を受領する。

*1407.8.5/ 永楽帝の勅書を携え来日した明使が、北山第で義満に会見、銅銭ほか「日本国王」の印と勘合府100通をもたらし、10年に1回の勘合貿易が開始される。

*1411.9.9/摂津 将軍義持は来日した明使の上洛を許さず、兵庫から帰明し、明との国交が中断する。

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 足利義満は、早くから明との正式な通交を望んでおり、1374(応安7)年)や1380(康暦2)年に遣使したが、明側は天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。

 義満は1394(応永1)年に将軍職を嫡男の足利義持に譲り出家し、太政大臣をも辞して、天皇の臣下ではない自由な立場となった。そして1401(応永8)年、博多商人肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する。翌1402年の明使在日中に永楽帝が即位し、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した。

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 以後、1401(応永8)年)から1549(天文18)年まで、19回に渡り交易が行われた。1404(応永11)年以降は「勘合符」を照合する仕組みになり、回数などが制限された交易となり、これが「勘合貿易」と呼ばれた。勘合符を照合するのは、当時横行した「倭寇」と峻別する目的でもあった。

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 当時の明王朝は強固な中華思想を信奉しており、冊封された周辺民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の「朝貢貿易」しか認めなかった。そのため、室町幕府足利義満将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に朝貢し、明皇帝からの下賜物を持ち帰る形式であった。

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 勘合貿易は対等取引ではなく、明は皇帝と臣下諸王の朝貢と下賜と捉えていたことから、明の強大さを示すため、明からの下賜品は、日本からの朝貢品を大きく上回る価値をもたらした。

 支配権確立のため豊富な資金を必要とした義満は、名分を捨て臣下として朝貢する形で実利を取ったといえる。義満は明皇帝に対して、「日本国王」という臣下の礼で拝したが、これは日本国内では問題とされ、義満死後の1411年(応永18)年、4代将軍足利義持勘合貿易を一時中断する。

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 義満生前には、義持は将軍職を譲られたにもかかわらず実権は与えられず、次男の義嗣の方が可愛がられていた。そのため義満が亡くなると、義持は義満の政策を否定し、北山第を廃して三条坊門邸に移るなど、いくつも反義満の政策を採った。勘合貿易の中断も、その私怨にもとづくものと見られる。

 勘合貿易は1432(永享4)年、6代将軍足利義教時代になって、やっと復活されることになる。応仁の乱以後、室町幕府の権威が弱まると、堺や博多の商人が抽分銭を納めて貿易を代行するようになり、細川氏大内氏など有力守護大名がその支持者となっていった。

 

(この時期の出来事)

*1408.3.8/ 後小松天皇が北山第に行幸する。義満は天皇と同格の席に着くなど、その栄華をきわめる。

*1408.4.25/ 義満の次男義嗣が、親王に準じる形で禁中で元服する。

*1408.5.6/ 将軍義満(51)没。太上法皇の尊号が送られるも、嫡子義持が辞退する。

*1408.6.22/若狭 南蛮船が若狭小浜に来着、象・鸚鵡などをもたらす。

*1409.2.10/ 将軍足利義持は、北山第を破却し三条坊門邸の建設を始める。

*1410.11.27/大和 後亀山法皇が、南北合一後の幕府の処遇に不満のため、南朝旧臣の勢力下の吉野に出奔する。

*1414.9.1/ 北畠親房の曽孫で伊勢国北畠満雅が、称光天皇の即位に反対し、大和・伊勢などの旧南朝勢力を率いて蜂起する。

*1416.10.30/ 将軍義持の弟足利義嗣が挙兵に失敗、洛西高尾に逃れ出家する。

*1418.6.25/ 大津の馬借が、祇園社神輿を奉じて強訴する。

 

 

【「敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本/長岡真意子著」書評】

【「敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本/長岡真意子著」書評】

https://www.amazon.co.jp/敏感っ子を育てるママの不安がなくなる本-長岡-真意子/dp/4798057142

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 いわゆる「子育てハウツー本」という形での出版だが、中身はそれ以上のものがある。もはや子育てとは無縁の古稀を過ぎた自分であり、長年ハウツーものを手にすることもなかったのだが、ひょんなことから読む機会を得た。

 HSC="Highly Sensitive Child"ないしHSP="Highly Sensitive Person"という用語さえまったく知らなかったが、下記サイトなどにあるセルフテストをやってみると、なんとほぼすべての項目に該当した。

HSPのすべて|特徴・診断・適職・敏感で生きづらい理由と対処法について | Take it easy for HSP

 

 自分の子供の頃、ひたすら周りからよく思われたいと思っているにもかかわらず、なかなか友達が出来なくて、仲間外れにされている感じが強かった。これを自分では、「神経質・利己的・内向的・非社交的・陰気・引っ込み思案」な性格のせいだと考え、何ひとつ良い点が見いだせなかった(笑)

「センシティヴ」というと、音楽や絵画などの芸術分野で感受性が高いことだとのイメージが強く、それらはまったく自分には無かったので、無縁の世界だと考えていたわけだ。


 若いときにはそれなりに生きづらさを感じて、なにかと悩んだものだが、いま改めてHSP/HSCといった近年提唱される心理学に照らしてみると、なるほどと思われることが多い。つまり、子育てとは無縁な状況にある自分にも、きわめて興味深い心理学書哲学書・人生論として読めたのだった。

 

 著者の長岡真意子氏は、下記サイトのプロフィールにあるように、

アラスカ州に16年暮らした後、2015年8月米国東海岸ワシントンDC近郊へ引越し。
森と海に囲まれた小さな町で南米出身の夫&二男三女と暮らしたのち、現在東京在住(先日帰米されたもよう)。》

と、海外の文化・生活に詳しく、さらに、5人の子供を育て上げた実体験に裏打ちされた記述には、極めて説得力がある。しかも、子育てママがちょっとした空き時間にも読めるような平易な記述で、自然な形で深い内容に触れられるように語られている。

管理人:長岡真意子プロフィール | ユア子育ちスタジオ

 

 

【14th Century Chronicle 1381-1400年】

【14th Century Chronicle 1381-1400年】

 

◎第三代将軍足利義満

*1381.3.11/ 足利義満(24)が造営させた室町第(花の御所)に、後円融天皇(24)が行幸する。

*1383.1.14/ 将軍義満が源氏長者となる。

*1385.8.26/大和 将軍義満が、摂政二条義基らと春日社に参詣する。

*1386.10.21/丹後 将軍義満が丹後の天橋立に遊ぶ。

*1388.9.16/駿河 将軍義満が駿河に遊覧し、富士山を観る。

*1389.3.11/安芸 将軍義満が厳島社に参詣し、途中で細川頼之や大内義弘らと会談する。

*1389.9.16/紀伊 将軍義満が高野山に参詣する。

*1391.4.3/ 管領斯波義将が辞任した後、細川頼之の弟で養子になっていた頼元を管領とし、頼之が補佐する。

*1391..2.30/京都 京都に攻め上がってきた山名氏清・満幸が、幕府軍に打ち破られ、「六分一衆」と呼ばれた山名氏は大幅に勢力を削がれる。(明徳の乱

*1392.閏10.5/ 南朝後亀山天皇北朝後小松天皇に神器を譲る形で、「南北朝合一」が成る。

*1394.12.17/ 足利義満征夷大将軍を辞任し、子の義持に譲る。義満は太政大臣の職位で、実権は握り続けた。

*1396.9.20/近江 延暦寺大講堂供養が行われ、義満(39)は法皇行幸を擬した様式で受戒し、その権威を知らしめた。

*1397.4.16/ 京都北山の北山第(金閣)の上棟が行われ、義満は出家後の政庁としてこの地を定める。

*1398.6.-/ 義満が畠山基国管領に抜擢し、三管領四職の制が整う。

*1399.11.29/和泉 幕府軍が、大内義弘の堺城を攻撃する。(応永の乱

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  足利義満は、1358(正平13)年8月、2代将軍義詮の子として生まれ、正室の子が夭折したため、早くから嫡男として扱われた。義満が幼少のころ、幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱など、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。

 1366(正平21)年、後光厳天皇から義満との名を賜り従五位下に叙せられた。翌1367(正平22)年、義詮は重病となると、義満に政務を委譲し、細川頼之管領として義満の後見を託したのち死去し、義満(10)が第3代将軍として足利将軍家を継いだ。

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 1378(天授4)年には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした(室町第)。「室町幕府」という呼称は室町第の所在地に由来し、やがて「花の御所」と呼ばれ、義満の代による繁栄の象徴となる。

 本格的に政務を仕切るようになった義満は、京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。

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 1382年には相国寺の建立、1385年には東大寺興福寺などの南都寺院を参詣、1388年には駿河で富士山を遊覧し、1389年には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーションで、義満は自らの権勢を誇示した。

 一方で、1379年、幕府内の対立で、管領細川頼之の罷免を求められ、後任の管領斯波義将を任命するなど内紛があるが、細川・斯波の抗争を利用して将軍権の強化を図ったともみられる。さらに1391年には、「六分一殿」と称された有力守護大名山名氏の内紛に介入し、討伐する(明徳の乱)。

 

 鎌倉時代以来猛威を振るった寺社勢力に対しても、興福寺延暦寺の僧徒が神木や神輿を奉じての強訴に慄く公家たちを差し置いて、義満はまったく動ぜずこれらを鎮圧し、一方で仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けで、これらの勢力をも指揮下に置いた。

 そして義満は、1378年に右近衛大将に任ぜられ、さらに権大納言を兼務するなど、公家社会でも地位を高め、1383年には内大臣左大臣に就任し源氏長者となって、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰め、公武の一体化を推し進めた。

 

 1392年には南朝方の主要武将楠木正勝の河内国千早城が陥落し、南朝勢力が衰微すると、義満は南朝後亀山天皇と和平をすすめ、北朝後小松天皇に吸収する形で、南北朝の合一を実現させた(明徳の和約)。

  義満は1394(応永1)年には、将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居するが、政治上の実権は握り続け、同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号したが、これは征夷大将軍太政大臣として公武の頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためとされる。

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 義満は早くから明との交易を望んでいた。しかし当時の明王朝は、中華思想から朝貢貿易しか認めておらず、太政大臣征夷大将軍という天皇の臣下の身分では相手にされなかった。そこで義満は、太政大臣を辞し出家した。

 1401(応永8)年、明皇帝は義満を「日本国王」に冊封し、両国の国交が正式に樹立され、1404(応永11)年から勘合貿易が始められた。なお「日本国王」とは、明の皇帝が臣下として冊封国の代表と認めた称号に過ぎず、決して義満が天皇に代わって皇位を簒奪したという意味ではない。

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 1397(応永4)年、義満は京都北山に舎利殿金閣)を中心とした「北山殿」(後の鹿苑寺)を造営し、本格的にこの山荘に移り住むと、ここを活動の拠点とした。この義満の治世に開花した文化は、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した「北山文化」と呼ばれる。

 1408(応永15)年4月、義満は病に倒れ、5月6日に死去する。享年51。

 

(この時期の出来事)

*1383.3.27/筑後 南朝の征西将軍として、九州で勢力を広げた懐良親王(55)が、隠棲先で失意のうちに亡くなる。

*1384.5.4/駿河 能楽を大成した観阿弥が、静岡の浅間社で能を演じる。その半月後、死去する。

*1399.5.10/山城 一条竹鼻で、世阿弥らが勧進猿楽を行う。

 

 

【14th Century Chronicle 1361-80年】

【14th Century Chronicle 1361-80年】

 

南北朝の動乱

*1361.12.8/ 楠木正儀細川清氏南朝軍が京都に迫り、将軍足利義詮後光厳天皇を奉じて近江に逃れる。

*1362.9.-/伊豆 鎌倉公方足利基氏が、畠山国清を降伏させる。

*1363.3.24/相模 鎌倉公方基氏が、上杉憲顕関東管領に任命する。

*1364.7.7/ 北朝光厳法皇(52)没。

*1367.4.29/ 南朝と幕府の講和が不調に終わる。

*1367.11.25/ 病床の将軍義詮が、政務を足利義満(10)に譲り、細川頼之(39)を執事(管領)とする。まもなく義詮(38)は死去する。

*1368.3.11/ 南朝後村上天皇(41)が没する。

*1368.12.30/ 足利義満が、第三代室町将軍となる。

*1369.1.2/ 南朝方の楠正儀が幕府に降伏する。

*1371.2.19/九州 今川了俊九州探題となる。

*1373.8.10/河内 南朝から幕府に帰順した楠正儀が、天野行宮を襲う。長慶天皇は吉野に逃れる。

*1378.3.10/ 将軍義満が、花の御所と呼ばれる室町の新邸に移る。

*1379.閏4.14/ 管領細川頼之が、義満に解任され京都を去る。代わって斯波義将が後任の管領に任命される。(康暦の政変)

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 南北朝は、鎌倉時代半ば1246(寛元4)年、後嵯峨天皇後深草天皇に譲位後、皇統は大覚寺統持明院統に分裂した。そして鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められてた。

 1333(元弘3)年、大覚寺統の「後醍醐天皇」は討幕の綸旨を発し、これに応えた足利尊氏新田義貞らの働きで鎌倉幕府を滅ぼし、1333(元弘3)年6月、「建武の新政」がはじまった(元弘の乱)。しかし、すでに浸透していた武士社会の慣習を無視した後醍醐天皇の親政は、実質上、鎌倉幕府を滅ぼした武士たちの支持を得られなかった。

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 北条氏残党による「中先代の乱」を討伐に鎌倉向にかった尊氏は、そのまま新政から離反して、鎌倉で独自の武家政権創始の動きを見せた。後醍醐天皇はこれを反逆とみなし、新田義貞に尊氏討伐を命じて「建武の乱(延元の乱)」がはじまる。

 後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞北畠顕家楠木正成らの奮闘に苦戦するが、湊川の戦い楠木正成に勝利して入京する。1337(延元1)年11月、足利尊氏は、持明院統光明天皇を京都に擁立(北朝)し、建武式目で施政方針を定めて正式に幕府を開いた。

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 後醍醐天皇は京都を出て、奈良の吉野へ逃れて南朝吉野朝廷)を開き、ここに南北朝の対立が始まる。以後、1392(元中9年/明徳3)年、両朝が合一(明徳の和約)するまで、60年にわたる南北朝動乱が続くことになる。

  南朝方は北畠顕家新田義貞らが次々と戦死し、さらに1339(延元4)年8月、後醍醐天皇崩御して、北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348(正平3)年には、四條畷の戦い楠木正成の子楠木正行・正時兄弟が高師直に討たれ、吉野行宮が陥落すると後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、南朝は消滅の危機に追い込まれる。

 

 しかしその後、足利政権の政務を担う足利直義と、足利家執事で軍事を担当する高師直との対立が表面化、直義が高兄弟を討つと、さらに足利尊氏と直義の兄弟が対立することになる。1351(正平6)年には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝と講和し、「正平一統」が成立した。

 尊氏は、鎌倉へ逃れた直義を追って東海道を進み、破れた直義は鎌倉で幽閉された後、急死する(観応の擾乱)。南朝方はこの機に乗じて京都へ進攻し、神器を接収し北朝上皇天皇を賀名生へ連れ去った。北朝は、後光厳天皇を神器無しで即位させ、再度尊氏が将軍に復帰するなど、混乱が続く。

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 1358(正平13)年、足利尊氏が死去した際など、南朝勢は何度も反攻に出て京都に侵入したりするが、徐々に劣勢が明らかになってゆく。1368(正平23)年、南朝で強硬派の長慶天皇が即位すると、和平派の楠木正儀南朝内で孤立し、足利幕府管領細川頼之の誘導で、正儀は幕府に帰順する。

 南朝は強硬路線をとったことで、中心的武将の楠木正儀を失い、かえって勢力を落とす。南朝が衰微していく一方で、第三代将軍足利義満が実権を集中的に握ると、その勢力差は歴然となった。

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 1383(弘和3)年には北畠顕能懐良親王が続けざまに死去、和平派の後亀山天皇が擁立され、南朝の指揮官は正義の嫡子楠木正勝が継ぐが、正勝は1392(元中9)年に本拠地である千早城を喪失し、南朝北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。

 このような情勢の中で1392(元中9)年、足利義満の差配で、南朝後亀山天皇北朝後小松天皇三種の神器を渡す形で南北朝が合体した(明徳の和約)。権力を確固たるものにした義満は、北小路室町に「花の御所」と呼ばれる将軍邸宅を築き、太政大臣にまで昇進し、その御所の場所から、後に室町幕府と呼ばれる時代の最盛期を迎える。