『Get Back! 70’s / 1973年(s48)』

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『Get Back! 70's / 1973年(s48)』

#そのころの自分#
 4月に某化粧品メーカーに入社、京都支社に配属されたので自宅通勤だった。最初の数ヶ月はまず商品を憶えろということで、商品センター配属で出荷作業など、9月から営業部門に転じてセールスマンとして担当店をあてがわれ、市内の大手百貨店の担当となった。
 馴れる間もなくオイルショックにおそわれ、ショーケースの化粧品は空っぽ、店頭見本だけが空しく並んでいた。当然、売上げノルマなど達成できるはずもなく、ほぼ一年ほど思うに任せない営業活動であった。
 

○1月 パリ「南北ベトナム南ベトナム臨時革命政府・アメリカの4代表が、ベトナム和平協定に調印する」

 パリで行われたベトナム和平協定協議は、会議のテーブルを丸型にするか角型にするかで数ヶ月ももめるという難儀な会議であった。難航の末、北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で、やっと調印にまで漕ぎつけた。

 内容は多岐に渡るが、要諦は「1954年のベトナムに関するジュネーヴ協定によって承認されたベトナムの独立、主権、統一性、領土を尊重する」とされ、ベトナムの南北統一を前提にした主権の確立と外部勢力(つまりアメリカ)の介在を無くするということであった。つまり早い話が、米軍および関係者の完全撤退を円滑に進めるための時間稼ぎ的停戦協定にすぎなかった。

 「北緯17度線統一総選挙までの停戦ライン」と規定されただけで、事実上の北ベトナムの勢力圏は南に深く進入したままであった。やがて米軍が捕虜返還を受け、完全撤退を終えると、もはや北が協定を破って進撃するのを食い止める具体的なガードはなく、75年のサイゴン陥落を待つばかりの状勢となった。

 その間、米ではウォーターゲート事件が発覚、スキャンダルにまみれたニクソンは退陣し、副大統領のフォードが大統領職を次いだが、内外の情勢からベトナムには無策に陥り、米軍関係者の南からの無事撤収だけが仕事となった。
 
 
○4月 宮城「石巻市の菊田昇医師が、中絶希望の母親を説得して出産させ、子供のいない家庭に実子として斡旋していた事実が明らかになる」

 「菊田医師赤ちゃん斡旋事件」というのは、今ではあまり記憶されていないかも知れないが、いくつかの重要な問題を含んでいるので敢てとり上げる。菊田産婦人科医師が、人工中絶の可能な時期を過ぎた中絶問題に突き当たり、母体胎児ともに問題のない限り出産を勧め、子供を必要とする家庭に「実子」として斡旋して、違法性を問われた事件。

 医師としては、中絶といっても実質泣き声を上げて取り出される嬰児もある。それを放置するなど、実質的な嬰児殺しに直面するという倫理的な問題に突き当たる。カトリックなどでは、人工中絶そのものが殺人行為である。

 中絶する母体にとっては、実質22週を過ぎると違法行為である。しかも母体胎児ともの生命の危険をはらむ。にもかかわらず、一方で中絶せざるを得ない事情もあり得る。

 子供をもらい受ける側でも、戸籍上「養子縁組」という形となり実子とは見做されないことが明記される。また生んだ母体も、出産事実が戸籍に残される。こういう問題を表面化させないようにするとすれば、違法な出生証明を書くしかないのであった。

 菊田医師は違法承知で出生証明を書き、ひそかに赤ちゃんを生んだ母親から育てる家族へと斡旋した。しかし三者、さらに出生児自身にとっても妥当な方法はそれしかなかった。報道されると賛否両論が巻き上がり、菊田医師は、優生保護法指定医を剥奪され一時医療停止の行政処分を受けた。

 菊田医師の斡旋事件は法案改正にも一石を投じ、およそ10年近くたってから「特別養子縁組制度」の法案が可決された。関係ある人もない人も、それぞれの立場で考えていただきたいものだ。詳細を記述したブログにリンクしておく。
http://www.cool-susan.com/2015/07/24/%E8%8F%8A%E7%94%B0-%E6%98%87-%E8%B5%A4%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E6%96%A1%E6%97%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

 
 
○8月 東京「韓国の元大統領候補 キム・デジュン(金大中)が誘拐される」

 東京のホテルに滞在中の元大統領候補で野党の党首 金大中氏が突然誘拐された。事実上の軍事独裁政権を維持していた朴正煕大統領は、非常事態宣言を発布し韓国内を戒厳令下に置いた。民主化活動家として朴大統領の立場を脅かす存在になっていた金大中は、帰国すれば朴に殺されると、避難的に日本に滞在していた。

 にもかかわらず、それが東京のホテルで白昼に堂々と拉致された。麻酔を嗅がされ縛られて船で日本を出航、翌日釜山を経由してソウルの自宅近くで解放された。明らかに海に投げ込み殺害されるところだったが、日本の自衛隊ヘリコプターが察知し追跡されたため、殺害をあきらめ解放したとされる。一連の拉致は、韓国中央情報部(KCIA)が主導したのは、のちに韓国政府も承認している。

 朴の側近であった李厚洛(イ・フラクKCIA長官が、大統領の機嫌を取るために指揮したのはほぼ間違いないが、それを朴大統領自身が直接指示したかどうかは不明。日本の暴力団や右翼組織も何らかの形で関与していたり、日本政府が察知しながらも黙認したとか、最終的にアメリカ当局が殺害させるなと通告してきたとか、さまざまな未確定情報が散在している。

 その後、日韓政府は政治決着をはかり、韓国側もこの事件の捜査を打ち切ることになった。さらに四半世紀後には、何度も政治的危機を経ながらも、金大中民主化された韓国の大統領となる。しかも、金大統領はこののすべてを不問に付すという声明を出し、日本の主権侵害などの請求に発展する真相究明を牽制した。なおかつ現在の朴槿恵大統領は朴正煕の実子であることからも、もはや真相解明は永遠の闇に葬られることになるであろう。
 
 
○10月 中東「エジプト・シリア両軍が、イスラエルにたいする攻撃を開始する(第4次中東戦争)」

 第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに打ちのめされたエジプトやシリアは、この当時、リビアも含め「アラブ共和国連邦」という連邦国家を形成していた。両国は第三次中東戦争での失地回復をめざし進軍し、初めてイスラエルに打撃を与えるという健闘をした。

 イスラエルは一時、核の使用も検討する窮地に追込まれたが、アメリカのバックアップなどもあり、まもなく反転攻勢に転じた。米ソは直接の対決になることも恐れ、国連安全保障理事会などで停戦工作を押しすすめた結果、やっと停戦決議が発効した。

 緒戦のみとはいえアラブ側が健闘したことは、イスラエルとの対等の立場での話し合いを可能とし、やがて数年後の、サダトとベギンによる「キャンプ・デービッド合意」と「エジプト・イスラエル平和条約」へとつながることとなる。
 
 
○10月 中東「ペルシャ湾岸6カ国が原油公示価格の21%引き上げを決定。OAPEC10カ国石油担当相会議は、イスラエル支持国向け石油生産を5%削減する石油政策を決定する」

 第4次中東戦争が勃発すると、石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、アラブ支援のため、イスラエル協力国などへの石油輸出を制限。その影響はまたたく間に世界のエネルギーや製品生産に波及し、日本でもエネルギー不足、商品不足にみまわられた。環境問題以外での省エネ・省電力に直面したのは、高度成長期以降はじめての経験であった。

 急激なインフレーションが進み消費者物価は急上昇、「狂乱物価」という造語も生れた。それとともに物不足になるという情報が駆けめぐり、十分に足りる生産があるにもかかわらず、パニックになって駆けつける消費者で、すべて品ぎれとなった。

 トイレットペーパーや洗剤など、石油に直接関係しない日用品も店頭から姿を消した。私が勤務した化粧品会社では、売れないで倉庫に何年も積んであった石鹸や歯磨きを、社員に緊急放出した。石鹸はやせ細って包装の中で遊んでいる状態、歯磨きは分離していてチューブをしぼると先に水が飛び出すありさまだった。

 とても市場に出せる商品ではなかったが、この時期にはそれでも貴重品。会社から歯磨き入りの紙袋を下げて帰る途中、一杯呑み屋に立寄った。カウンターの隣りの中年単身者らしき男性と会話になった。「私みたいな単身生活してると、誰からも歯磨きなどまわって来ない」と言いながら、足元に置いた歯磨きの紙袋をチラ見する。仕方なく、歯磨きの半分をその男性に差し上げるはめになった(笑)
 
 
*この年の流行
【事物】ゴキブリホイホイ/コーヒーメーカー/デジタル腕時計
【流行語】省エネ/狂乱物価/オイルショック/終末/同棲/ディスカバー・ジャパン(国鉄)
【歌】神田川南こうせつかぐや姫)/危険なふたり(沢田研二
【映画】仁義なき戦い深作欣二)/四畳半襖の下張り(神代辰巳)/ラストタンゴ・イン・パリ(伊・仏)
【本】小松左京日本沈没」/五島勉ノストラダムスの大予言