『Get Back! 70’s / 1972年(s47)』

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『Get Back! 70’s / 1972年(s47)』

#そのころの自分#
 大学4年生から5年生、つまり留年した。卒論は一週間で100枚を書き上げてクリアしたが、5年生になってもゼミに出席させてもらった。必要ないのだが、好きなことを発言できるので、週一回登校する理由付けになった。さすがに下宿代の負担をかけられないので、二時間かけて自宅通学することになった。この5年目が在学中ではもっとも自由に楽しく過ごせた。


○1月 グアム島「密林内で元日本兵 横井庄一が発見される」

 「恥ずかしながら帰って参りました」という第一声が報道され流行語にもなった。終戦から27年後までジャングルに掘った穴で過し、野草や小動物を食べて生き延びた。日本に帰還後は、高度成長下で激変した戦後日本にも、おどろくほど柔軟に対応し、耐乏生活評論家と称し講演活動なども行った。

 だがその二年後、フィリピン・ルパング島で小野田寛郎少尉が「投降」する姿をみて、さらに日本人は驚くことになる。その帝国陸軍将校としてふるまう姿は、凛々しくさえ感じられた。しかし徴兵された一兵卒に過ぎない横井軍曹と、士官志願して諜報将校としての訓練を受けた小野田少尉を、同列に扱うこと自体に無理がある。

 帰還後の小野田氏の証言にも、そのまま信じられないものを含む。あくまで20数年間「遊撃戦」を展開していたのだから、現地民間人も多数殺害しているはず。一方の横井さんは、一介の仕立て屋職人が徴兵され、壊滅した帝国陸軍グアム守備隊に放置され、ジャングルに逃げ込み洞穴でネズミやカエルを食いながら生き延びてきただけだ。

 もうひとつ不思議なのが、両人とも帰還後しばらくして奥さんを迎えることになるが、共に奥さん側から申出たように報道されていること。申出る女性側の気持ちなども窺い知りたいが、他方で、そういうのをお世話する遺族会などの組織もあったのではないかとも思う。

  
 
○2月 北海道「冬季オリンピック札幌大会が開催される」

 戦争で中止になった幻の1940年東京五輪は有名だが、実は同年開催予定の札幌冬季五輪も同時に中止になっている。つまり日本復興のご祝儀として64東京五輪、そしてその総仕上げが72札幌冬季五輪だったわけである。

 不振というか実力とおりというか、苦戦する日本選手団の中で、一気に光がさしたのが70mスキージャンプ競技。のちに日の丸飛行隊と呼ばれた日本選手が、金銀銅を独占するという快挙を達成した。笠谷幸生金野昭次青地清二、三選手の名前は、我が国スキージャンプ界に永遠に刻まれることになった。ほかに、その可憐な縁起で「氷上の妖精」と呼ばれたジャネット・リンは、フリーで転倒しながらも最高点を出して、大会を通じてのアイドルとなった。

 札幌五輪直前には、アルペンスキーの第一人者 オーストリアのカール・シュランツなどの有力選手が、アマチュア規定違反で追放された。この時のIOC会長はミスター・アマチュアリズムと呼ばれたアベリー・ブランデージである。その後フアン・アントニオ・サマランチが就任し、84ロス五輪以降、商業化・プロ化を推進した流れからみると、今昔の感がある。

札幌五輪テーマ曲「虹と雪のバラード」(トワエモア)
https://www.youtube.com/watch?v=oXAHDozm-rY
  
 
○2月 長野「連合赤軍が軽井沢の河合楽器浅間山荘』に籠城する」

 日本国民が一日中テレビにかじりついた浅間山荘事件、もっとも有名になったのが工事用の巨大鉄球であろう。しかしもう一方の影の主役は、日清のカップヌードル、寒空で凍える機動隊員たちが、うまそうに湯気の立ち上るカップヌードルで一時の暖をとる様子も、全国津々浦々に放映された。その結果この年、発売された前年の三十数倍の売り上げを記録したという。

 この事件によって連合赤軍は壊滅状態に追込まれるが、それまでの赤軍派の経緯を確認しておこう。そもそもは、60年安保時に日本共産党から分離した、全学連学生たちによって結成された新左翼連合体「共産主義者同盟」(共産同・ブント)にまでさかのぼる。70年安保闘争の過程でブントは分裂、解体、再結成、さらに四分五裂し、その最左翼 軍事闘争路線をとり塩見孝也ひきいる「共産同赤軍派」が頭角を現した。

 その後、軍事訓練として極秘に集合していた大菩薩峠事件で、実働部隊が大半検挙される。その過程で海外後方拠点が必要との「国際根拠地論」が台頭し、塩見議長は逮捕されたが、ナンバー2の軍事委員長 田宮高麿ら一派が「よど号ハイジャック事件」を起こした。

 同じく国際根拠地論に基づきパレスチナに向った重信房子のグループは、パレスチナ解放人民戦線PFLP)と合流して「日本赤軍」を名乗り、一連のハイジャックや空港テロなど海外での破壊活動を行った。

 幹部クラスが軒並み逮捕されたり海外流出したりして、弱体化した国内赤軍派残党は、ただの中堅幹部クラスだった森恒夫が獄外臨時リーダーとなる。そして、本来思想背景は全くことなるが、過激武闘路線だけ一致する京浜安保共闘と連携し「連合赤軍」と名乗る。この京浜安保共闘の臨時リーダー的な立場にあったのが、永田洋子であった。

 森・永田という統率経験の薄いリーダーのもと、山中に秘密軍事拠点を作るとして、実際は雪中の山小屋アジトを転々とするなかで「山岳ベース事件」をひき起こした。12名にも及ぶ陰惨なリンチ殺人事件は、後日になってから逮捕者の供述などで徐々に明らかになる。

 森・永田は、活動資金補充のために一時下山した際に逮捕され、そして逮捕を免れた一部メンバーたちが、無目的な逃走中にひき起こしたのが「浅間山荘事件」であった。
  
 
○5月 大阪「南区の千日デパートビルで火災が発生、118人が死亡する」

 大阪千日前の千日デパートで、死者118名を出した日本のビル火災史上最悪の大惨事が起った。デパートとは名ばかりで、古い建物を改築して様々なテナントを入れた寄り合い所帯、沈火後の検証で防火上の不備も幾つも発見された。出火時は土曜日の午後10時半ごろで、改装工事中の3階から出火したもよう。ほとんどのテナントは閉店しており、唯一営業中だったのは7階のキャバレー(当時はアルサロ)「プレイタウン」のみだった。

 延焼は4階までにとどまったが、合成建材や内装などから出る有毒ガスがまたたく間に充満し、土曜日の夜の多勢の客とホステスでにぎわう「プレイタウン」を襲った。結果、店内で一酸化中毒で100名近く、脱出中に落下や飛び降りで20名強が死亡した。ススでまっ黒になったホステス嬢が、消防のはしご車で救出される模様などが報道され、衝撃を与えた。

 この手の事件の跡地によくあるように、案の定、霊が出るとかさまざまな噂が発生した。実はこの地は、その昔、処刑場であり火葬場であったという。

 「らくだ」という落語でもそのネタが語られる。らくだという男が死に、酔っぱらった二人の仲間が、その遺体を棺桶(坐棺)に入れて、千日前の火葬場に担いでゆく。途中で棺の底が抜けて遺体を落とし、代わりに寝ていた酔っ払いを入れて運んだ。

 火葬にされかけて目を覚ました酔っぱらい、ここは何處だと訪ねると、「火屋(ヒヤ=火葬場)だ、ヒヤだ」「そうかい、ではヒヤ(冷や酒)でもう一杯」というサゲとなる。千日前とはそういう場所であった、ということらしい。
  
 
○5月 イスラエル岡本公三ら日本人ゲリラ3人が、テルアビブ空港で自動小銃を乱射する」

 イスラエルの首都テルアビブの国際空港で、「日本赤軍派」(後日にこの名称を名乗る)3名が、乗降客で満員の旅客ターミナル内でいきなり自動小銃を乱射し手榴弾を投げつけ、一般乗降客ら26人が殺害され73人が重軽傷を負った。実行犯、奥平剛士と安田安之は現場で射殺され、岡本公三は逮捕された。

 「日本赤軍派」は、「国際根拠地論」に基づき、赤軍派重信房子や京都パルチザンの奥平剛士らがパレスチナへ赴き同地で創設した組織。現地の「パレスチナ解放人民戦線PFLP)」と合流し、この事件は PFLP の指揮下でひき起こしたが、のちに「日本赤軍」を正式名称とした。

 同時期に北朝鮮に向った「よど号赤軍派一派」は、そのまま北朝鮮当局により塩漬け状態になったが、日本赤軍派は現地過激集団と連携し、この後世界各地でテロやハイジャック事件を実行する。

 その後、イスラエルパレスチナ・アラブの状勢変化や、各地でのメンバー逮捕で先細りとなり、最高指導者で日本赤軍の女帝とも呼ばれた重信房子も、日本に潜伏中に逮捕され、獄中から日本赤軍解散宣言を出すことになった。

 アルカイダやISIS(イスラム国)などが展開する現在のアラビアの状勢からすると、当時のイスラエルに対するパレスチナ解放闘争という図式は、和平も試みられるなど背景に退行した感があり、かなり分かりづらいかも知れない。

 もはやパレスチナの解放などではなく、「イスラム世界そのものの解放」が主題化されたわけである。かといって ISIS の行動が、それを可能とするものとはとても思えないのであるが。
  
 
○6月 「『中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合』(中ピ連)が結成される」

 世界的な「ウーマンリブ(死語)」運動の波に乗って、榎美沙子らが「中ピ連(忘却の彼方)」を立ち上げ、盛大に記者会見を行った。♀マークの付いたピンクのヘルに連合旗をかかげ全学連スタイルでデモ行進、女性蔑視的な団体に押しかけたり、不倫男性の下に押しかけ吊し上げするなど、奇矯過激な活動でマスコミのネタになった。

 フェミニズム側からはあきれられ、男根主義的オヤジ連からはせせら笑われたが、それもどこ吹く風とマスコミに面白おかしく取り上げられるように、目立つ活動をエスカレートさせた。

 しかしまもなくそのスタイルも飽きられ、当時のピル(経口避妊薬)自体の品質も悪く副作用が多かったため普及しなかった。榎代表は中ピ連の解散後も「日本女性党」を結成したが、これも不発に終った。

 結局「あれは何だったんだ?」というだけの印象を残して消えていったピンクの突風だったが、榎美沙子自身もその後はマスコミから姿を消し、本来の薬剤師として地道に働いて、選挙などで作った借金を返済したあと、夫からは離婚され家も追出された。その後、榎の行方は、誰も知らない(芥川「羅生門」ふうにw)」
  
 
○6月 「『四畳半襖ノ下張』を掲載した『面白半分』が発売禁止となる」

 この時期『面白半分』という都会風のしゃれた月刊誌を購読していた。おそらく「ニューヨーカー」誌などをモデルにしたのだと思う。同じく、週刊文春週刊新潮などの雑誌社系週刊誌も、編集者としては意識しているはずだ。

 一方の雄であった米の読み物誌『リーダースダイジェスト』と表紙を見比べただけでも、その違いがうかがわれる。両雑誌読者層のイメージは「都会、単身者(に近い生活者)、インテリ、学生orビジネスマン、民主党支持」と「カントリー、農場オーナー及びその家族、たたき上げ、共和党支持」という感じかな?(笑)

 『面白半分』の表紙に記された英文副題は "Half Serious" 、つまり「残りの半分は真面目」というわけだ。この真面目不真面目の境界の微妙な扱いが雑誌の質を左右するとして、半年単位で当時の有力作家などを編集長に招くという編集方針をとった。もちろん実質的には、アイデアを出したり意見を言う程度の「編集長」だろうが。

 初代が吉行淳之介で、二代目の「野坂昭如編集長」に代ったときに、伝説的な猥褻文学『四畳半襖ノ下張』を全文掲載した。たまたま継続購読していたものが突然発売禁止処分となって、これは貴重だと今も残してある(写真掲載分)。

 戦後の文芸作品猥褻裁判は、チャタレイ事件・悪徳の栄え事件・四畳半襖の下張事件として三番目になった。「猥褻」の規定が曖昧である以上、判決も時代の流れに沿って曖昧に終わるしかない。前者二件はいずれも翻訳作品で、「下張り」は永井荷風の戯作と通説されているが、旧仮名遣い文語文で書かれているので、戦後生まれとしては「劣情」など催しようもない(笑)。

 「大腰にすかすかと四五度攻むれば」などと、随所に使われる擬音語がやたらユーモラスであったりする。裁判は多くの有力作家たちが被告弁護の証人に起用されたが、ほぼ筋書き通りで有罪罰金刑となったと思う。
   
 
○9月 中国「田中首相が中国を訪問。29日、両国の国交が回復する」
○11月 東京「中国から贈られたパンダ2頭が上野動物園で初公開される」

 7月に成立した田中内閣は、『日本列島改造論』を掲げて、さらに高度成長を推進する方針を採った。外交では、二度にわたるニクソンショックへの対応が急務であった。ニクソンが頭越しに米中関係修復をしてしまったので、急遽田中角栄首相も中国へ飛ぶことになり、「日中共同声明」を発表、半世紀ぶりに日中は国交を回復することになった。

 米はベトナム戦争の後始末、中国は文化大革命の国内混乱を収拾するする必要があった。晩年の毛沢東に代って周恩来首相が実質を仕切るようになり、米・日との関係を修復、その後を訒小平が引き継いで、現実路線のもと経済復興を進めることになる。しかしそこには、二度にわたる「天安門事件」という転回点があったことは忘れてはならない。

 日中国交回復の「おみやげ」として、2頭のパンダが贈られてきた。ランラン・カンカンと名付けられていたパンダは、上野動物園で公開され連日長蛇の列ができることとなった。

 
 
*この年の流行
【流行語】「恥ずかしながら」「総括」「ニーハオ」「三角大福
【映画】「忍ぶ川熊井啓」「ゴッドファーザー(米)」
【本】有吉佐和子恍惚の人』/丸谷才一『たった一人の反乱』
【歌】「赤色エレジーあがた森魚)」「喝采ちあきなおみ)」「結婚しようよ(吉田拓郎)」「瀬戸の花嫁小柳ルミ子)」「女のみち(ぴんからトリオ)」