【アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)

アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)

 

 第二次世界大戦が連合国側の勝利で終わると、「アメリカ合衆国」がその圧倒的な経済力で、戦後世界で疲弊しきった欧州など自由主義国の復興を支援する立場になった。同じく連合国として戦った「ソビエト連合」は、唯一の共産主義国家として、本質的に相容れない自由主義国家と対立することが明確になった。

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 さらに1949年に、毛沢東によって中華人民共和国が成立すると、ソ連が勢力圏とした東欧諸国も含めて、世界の3分の2を占める勢力となった。アメリカに続いて、ソ連が核実験に成功し、中国もそれに追随するなど東西が莫大な核を保有して、その「抑止力」によってホットな戦い、すなわち兵器を用いての「熱い戦い」ができない状況となった。このような対峙状況は「冷戦」と呼ばれた。

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 F・ルーズベルトの死去により、副大統領だった民主党ハリー・トルーマン」が後を引き継いだが、アメリカ合衆国は、戦後世界の民族自決・平等な経済機会・資本主義の再建をめざし、その膨大な富を提供する方針を示した。

 

 一方、ソビエト連邦を強権的に仕切る「ヨシフ・スターリン」は、ポーランドルーマニア東ドイツなど東欧に親ソ連共産党政権を立て、西ヨーロッパ自由圏との政治・経済的な境界を構築した。これにより欧州大陸は東西に分裂し、これを前英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と呼び、米ソ冷戦時代が始まった。

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 アメリカ合衆国は、第二次世界大戦による荒廃から立ちなおさせるために、マーシャルプランと呼ばれるヨーロッパ復興計画を実施し、膨大な資金を供給した。これは経済支援であるとともに、ソ連を盟主とした共産主義勢力と対抗するためでもあった。

 

 アメリカ合衆国自由主義西欧諸国は、「北大西洋条約機構 (NATO)」という軍事同盟を結成し、一方のソ連は、NATOに対抗するため東側共産主義国を統合し「ワルシャワ条約機構」を結成して対峙することになった。

 

 米ソの東西冷戦はそのまま数十年続くが、その間に何度も最前線で代理戦闘が起きた。最も東西冷戦のシンボルとなったベルリンでは、冷戦初期の1948年、ソ連政府により「西ベルリン封鎖」が行われた。この時はアメリカ側が「ベルリン大空輸」で市民の生活を守った。その後、経済的優位に立った西ベルリンに対して、1961年、東側は「ベルリンの壁」を構築し、その後の東西の対立の象徴となった。

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 一方、東洋での分断国家となった朝鮮半島では、1950年、成立して間もない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、ソ連スターリンの同意のもと、事実上の国境線の38度線を越えて大韓民国(南朝鮮)に侵攻した。マッカーサー指揮の連合国軍と、突然参入してきた中国人民軍との間で、激しいせめぎ合いが続いたが、1953年、スターリンの死にともなって、38度線付近で「休戦協定」が結ばれた。

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 1953年に、民主党トルーマンから引き継いだ共和党ドワイト・アイゼンハワー大統領は、ヨーロッパ戦線の英雄将軍で圧倒的な人気を誇ったが、彼の政権期にはソ連の躍進が目覚ましく、当時始まった宇宙開発競争では、初の人工衛星スプートニックやガガーリンの宇宙周回など、科学や軍事でもソ連の圧勝の雰囲気となった。

 

 この当時、日本の知識人間でも、もし米ソが戦えばソ連の圧勝になると信じられていた。1961年、43歳で民主党から選ばれた若きジョン・F・ケネディ大統領は、受諾演説で「ニューフロンティア政策」を公表し、宇宙競争では、1960年代の終わりまでに月に人類を送る計画を発表し、米国民に夢を与えた。この計画は1969年に実現し、米ソの逆転をイメージ付けたが、ケネディはすでに暗殺された後だった。

 

 スターリンを引き継いだソ連の指導者ニキータ・フルシチョフは、アメリカを初めて公式訪問するなど、一時的な「雪融け」ムードを演出したが、実質支配下にある東欧諸国では、1953年の東ドイツ暴動の鎮圧、1956年のハンガリー動乱にも軍事介入し自由化の歩みは許さなかった。

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 1959年のキューバ革命フィデル・カストロが成功させると、フルシチョフは同盟関係を結び、アメリカのお膝元カリブ海共産党政権が誕生した。米ソはその後の1961年、最大の核戦争危機を迎える。誕生したばかりの若きケネディ政権が、キューバにミサイル基地が建設されているのを発見し、この基地の撤去を求めた。ケネディ大統領は苦渋の決断で、海上封鎖でソ連船舶での資材持ち込みを強制阻止する方針で対処し、衝突直前に、ソ連船舶が引き上げることになった。

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 南北戦争以来放置されてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)への人種差別だったが、この時期の抵抗運動は「直接行動」にシフトし、バスのボイコット・シットイン・フリーダムライドおよび社会改革運動という動きをしめしていた。やがてそれは黒人たちの「公民権運動」として組織化されていった。

 

 1963年8月の「ワシントン大行進」は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに率いられて最大の盛り上がりを見せた。黒人を中心にした二十数万人の大群衆が「仕事と自由」のために結集し、キング牧師の有名な「I Have a Dream」演説は、この集会で為された。

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 ジョン・F・ケネディ大統領や弟の司法長官ロバート・ケネディたちは、公民権法の成立を支持したが、その成立は1964年、J・F・ケネディ暗殺後のリンドン・ジョンソン政権下に持ち越された。

 

 すでに戦争直後から独立運動が始まっていたフランス領インドシナでは、1950年、ホー・チ・ミンが「ベトナム民主共和国」の承認を求め、毛沢東中華人民共和国スターリンソ連の承認を取り付けた。一方のアメリカは、ドミノ理論によるアジアの共産化を恐れ、フランス軍インドシナ三国に軍事援助を始めた。

 

 しかし1953年、フランス軍ディエンビエンフーの戦いで敗れて植民地を放棄、以後アメリカが前面に出てくる。アメリカはゴ・ディン・ジエム政権を誕生させ、直接支援を行うが、これは事実上の傀儡政権に過ぎなかった。かくしてべトナムは17度線で、朝鮮と同じく南北の分断国家となった。当時のアメリカのケネディ政権は、積極的に南ベトナム支援に兵員を送り出したが、彼の暗殺後のジョンソン政権で、アメリカはますますベトナム戦にのめりこんでゆく。