【アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

 

 1828年の大統領選挙で、「アンドリュー・ジャクソン」が第7代大統領となり、選挙権を拡大して民主政治を発展させるなど、ジャクソン流民主主義が進められた。それまで東部都市部の商工業主など資産家中心だったところに、西部の農夫や東部の労働者・職人・小規模商人に投票権が拡大されると、ジャクソンの主導した「民主党」が有力となった。他方でジャクソン流の民主主義に反発する派はホイッグ党に集まった。

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 ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場するとともに、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会が出現した。

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 一方、中西部の新領土は、ルイジアナ買収以来拡大を続け、1848年にメキシコからカリフォルニアを獲得すると太平洋岸に到達した。そして、フロンティアと呼ばれる開拓最前線を、西へ西へと移動させてゆく「西部開拓史」が展開された。「フロンティア」とは、1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下の開拓前線とされた。

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 ジャクソンは米英戦争などで軍指揮官として活躍し、英国軍と同盟したインディアンの徹底虐殺によって、戦争の英雄として大衆的支持を集めていた。ジャクソンは政治家としても、庶民"common man"の味方として振る舞い人気を高めた。

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 一方で、白人以外のインディアンや黒人などに対しては、徹底した人種差別主義者であり、先住民であるインディアンを掃討し、「インディアン移住法」を制定して辺境の保留地"Reservation"に強制隔離した。さらにジャクソン自身、テネシーに大農地を所有し、多数の黒人奴隷を酷使していた。

 

 また、ジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」であり、大きな連邦政府を望まないジャクソンは、政府が設けた第二合衆国銀行を、州の独自財政を奪い庶民の利益に沿わないとして、これを破産に追い込んだ。これらの影響から、彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。

 

 ジャクソン大統領は「インディアンは白人と共存し得ない」として「インディアン移住法」を可決すると、ミシシッピ川以東の大多数のインディアンを、強制的に白人のまばらなインディアン準州(現オクラホマ州)の、連邦政府が保留した居留地"Reservation"に移住させ、白人社会に同化させる方針で、これに従わない部族は絶滅させるという民族浄化政策であった。

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 オクラホマへのインディアン強制移住は「涙の道」と呼ばれた。どの部族も徒歩による大陸横断を強制され、数千、数万と言われる途上死者を生んだ。ジョージアからフロリダに居住したセミノール族インディアンたちは、逃亡黒人奴隷を受け入れて「セミノール戦争」を戦ったが、ジャクソンは焦土作戦を採って殲滅させた。これらは、今では「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれる悲惨な結末をむかえた。

 

 アンドリュー・ジャクソンは、その強権ぶりからアンドリュー1世とも揶揄され、権威的な独自な政策を展開した。ジャクソンの政権下を中心に、アメリカ独立戦争南北戦争の間は「ジャクソン・エラ(ジャクソン時代)」などと呼ばれた。

 

 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との競争のため保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため自由貿易を求めて、南北の対立が非常に深まった。これが、奴隷制をめぐる対立として激化して、やがて「南北戦争」が勃発することになる。