【アメリカの歴史】15.ベトナム戦争とアメリカ社会のかげり(1964-1975)

アメリカの歴史】15.ベトナム戦争アメリカ社会のかげり(1964-1975)

 

 1960年に結成された「南べトナム解放民族戦線(ベトコン)」は、北ベトナムの事実上の支援を受けながら、南ベトナム領域でのジャングルで、ゲリラ戦術を展開し、熱帯のジャングル戦に慣れていないアメリカ軍を悩ませた。

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 ジョンソン大統領は、1964年の「トンキン湾事件」を口実に、北ベトナムを爆撃(北爆)を開始した。さらに北爆は恒常的となり、地上軍20万人の軍が投入され、アメリカと北ベトナムの間の宣戦布告なき「ベトナム戦争」となった。

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 1968年1月の解放勢力側の「テト(旧正月)攻勢」から、形勢は完全に逆転し、ソンミ村虐殺事件など米軍の民間人殺戮事件が表面化し、アメリカ国内や世界各地ではベトナム反戦運動が盛り上がるなど、ベトナム戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。

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 1969年に、共和党ニクソン大統領が就任すると、ベトナム反戦運動の高まりに押されてベトナムからの撤兵を表明した。しかし一方で、供給ルートを絶つとして周辺のカンボジアラオス空爆するなど戦線を拡大し、第2次インドシナ戦争の様相を呈した。

 

 1972年、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領は、中国を電撃的に訪問、さらにソ連も訪問して、お互いのバックにひかえる大国間で頭越しの話し合いを開始した。同時にニクソンは北爆を強化しながら、キッシンジャーとレ=ドク=トの間で秘密交渉を進めさせ、1973年1月に「ベトナム和平協定」を成立させた。

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 アメリカ軍のべトナム撤退は開始されたが、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、北ベトナムの支援の下、南ベトナム解放戦線よって首都サイゴンが陥落し、ようやくベトナム戦争終結北ベトナム主導で南北統一が実現した。

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 ベトナム戦争第二次世界大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。

 

 当初アメリカ合衆国の世論は戦争を支持したが、ベトナムでの米軍若者の死者が増え、一方で米軍の残虐行為などが表ざたになるなど、アメリカの「正当性」が疑われるようになり、世論の支持が失われていった。

 

 ひとつの大学のキャンパスで始まった小さな反戦運動は、戦局の進展に従って大きな世論を形成していった。学生たちは大戦後に生まれたベビーブーマーの世代で、反戦運動公民権運動やフェミニズム環境保護運動など、人権問題や環境問題と絡まり合って、時代の流れにプロテストする若者の運動は、世界の先進国に波及していった。

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 ベトナム戦争での事実上の敗戦は、アメリカ合衆国に大きなダメージを与えた。アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、一方で国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立など、大きな打撃となった。ベトナム帰還兵の社会復帰も深刻で「ベトナム症候群」と呼ばれ、社会的な後遺症をもたらした。

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 そんな中で、若者を中心に「カウンターカルチャー」と呼ばれる新しい価値観が、既存の主流社会の文化に対抗して生まれてきた。より自由な生き方を求めて、平和・愛・自由を主張する「ヒッピー文化」が生まれ、彼らはフォークやロックと言った音楽に心酔し、LSDマリファナなどの幻覚剤を使用する風俗も誕生した。このようなカウンターカルチャー革命は、1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルなどで体現された。