【アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)

アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)

 

 リチャード・ニクソンは、中華人民共和国を電撃的に訪問して外交関係を結び、ソ連を訪問して軍縮デタント(政治的緊張緩和)を演出し、泥沼のベトナム戦争を何とか終わらせた。また経済対策ではドル防衛のため、米ドルの金兌換停止を宣言して、ニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれる衝撃を世界に与えた。

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 ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力を立て直すために、迅速に対策を打ち出したニクソンの政策は評価され、1972年アメリカ合衆国大統領選挙では圧勝した。しかし、やがて「ウォーターゲート事件」が発覚すると、側近らと汚い言葉で話す様子なども暴露され、それまでのニクソン人気は一転して地に落ちた。

 

 ニクソンは議会の公開の公聴会で証言させられ、さらに国会の弾劾に直面すると進退は極まり、1974年テレビの会見で辞任を発表する。その後継となったジェラルド・フォードは、ニクソンに対する恩赦を発効し事件調査を終わらせた。

 

 ニクソン辞任で大統領を引き継いだフォードだったが、ニクソンに恩赦を与えたことなどが尾をひき、1976年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党ジミー・カーターに敗れた。ジミー・カーターは人格的高潔さなどで知られたが、その任期中にイランのイラン革命ニカラグア革命・ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻など、幾つもの外交的難問に直面することになる。

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 1979年11月、革命後のイランではアメリカ大使館人質事件が起こり、52人の大使館員を人質にして、アメリカに亡命したシャー(前国王)の引き渡しを要求した。カーター政権は、アメリカ大使館占拠を防げず人質救出作戦にも失敗したことから、「弱腰外交」との批判を浴びた。人質が解放されたのは、占拠から444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日は、共和党レーガンに選挙で敗れ、カーターがホワイトハウスから去る日だった。

 

 1970年代はアメリカの自信を揺るがせる時代となった。ニクソンの不名誉な辞任、ニクソンに特赦を与えて国民の不信をかったフォード、そして民主党になっても弱腰外交と批判されたカーター、国民は大統領に信頼を置けない時期が続いて「強い大統領」を渇望する状況となっていた。そして1980年の大統領選挙では、共和党レーガンジミー・カーターに圧勝した。

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 ロナルド・レーガンは、ハリウッドの映画俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1981年1月大統領に就任した。レーガン大統領の1期目は、カーター政権から続くスタグフレーションの解決が課題となった。レーガンは、「レーガノミクス」と呼ばれた経済政策を推進した。

 

 レーガノミクスは、供給面から経済を刺激するサプライサイド経済学に基づいており、直面するスタグフレーションの弊害を抑える対策とされた。減税や規制緩和による供給面からの経済刺激を重視し、マネーサプライを増やすマネタリズム的な「通貨高政策」を前提条件にしておち、これはF・ルーズベルト以来の、ケインズ経済学に根拠を置いた需要重視政策からの転換と考えられた。

 

 しかしレーガノミクスは実質的に、ミルトン・フリードマンが主唱者とされるマネタリズムと、それまで主流だったケインジアン政策との、折衷策だったことがうかがえる。1983年に景気回復が始まったが、これは軍事支出の増大と減税という財政政策による消費の増大(乗数効果)が主因と考えられ、ケインズ効果でしかないとされる。

 

 一方で、レーガンノミクスで高金利政策が行われたことによって、ドル高が進行し、輸出の減少と輸入の増大が起こったこと、また、スターウォーズ計画のような防衛政策に対する巨額の財政支出や減税政策が、海外からの輸入増によって需要超過を満たすことで、高インフレから脱出することに成功した。

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 しかしながら、税収減と軍事歳出の増加は「財政赤字」を増大させ、ドル高の持続と景気回復によりさらに「経常赤字」が増大した。レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」としたと政策の効果を主張したが、この「双子の赤字」は、その後のアメリカ経済の大きな重石となった。

 

 外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命などに弱腰の対応しかできなかったとして、レーガンは外交に関しては強硬策を展開し、「強いアメリカ」を印象付ける政策を推進した。

 

 しかしレーガン政権の2期目には、「イラン・コントラ事件」に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に批判が集中した。それでもレーガンは強気の姿勢を通し、デタント(軍縮などに緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判した。

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 「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗しつつ、「レーガン・ドクトリン」を発して「新自由主義」を提唱し、イギリスの「サッチャー首相」・日本の「中曽根康弘首相」・西ドイツの「コール首相」などの同盟国の首脳と密接な関係を結び、世界中の反共主義運動を支援し、ソ連を経済的に追い詰めることに成功した。

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 東西緊張関係は「ミハイル・ゴルバチョフの登場」後に急速に緩和された。ゴルバチョフは、西側諸国の支援と協調でソ連の復興を目指したが、時すでに遅く、やがて東欧やソ連の崩壊に至る。かくして「東西冷戦」は終結した。