【アメリカの歴史】13.大恐慌と第二次世界大戦(1939年〜1945年)

アメリカの歴史】13.大恐慌第二次世界大戦(1939年〜1945年)

 

 1929年にアメリカに端を発した「大恐慌」は、またたく間に世界を覆いつくし、1930年代を通してその時代を規定した。それは、資本主義そのものを震撼させる大事件であり、カール・マルクスの「恐慌論」がそのまま到来したと思われた。マルクスの恐慌論は、キリスト教の「終末論」の構造を内包しており、欧米のキリスト教徒には現実感を抱かせるものであった。

 

 未曽有の恐慌にみまわられた資本主義先進国は、例外なく大きなダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程については各国なりの事情が影響した。広大な植民地を領有する国々(イギリス・フランスやアメリカ)は、金本位制からの離脱や高関税による「経済ブロック化」によって、自国経済の保護に努めた。

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 後発のソビエト連邦・ドイツ・日本といった全体主義国家ないし権威主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理する道を選び、全体主義政党や軍部の台頭が他の列強諸国との軋轢を生んだ。経済のブロック化は各国の協調体制や国際的調整を困難にし対立を深めた。

 

 大恐慌勃発時の大統領ハーバート・フーバーは、市場の自由に任せることで自動的に均衡が取り戻されるという「古典派経済学」を信奉していたため、効果的な対策を取れなかった。

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 後任となったアメリカ民主党フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心とした「ニューディール政策」によって乗り切ろうとした。これは、発表されたばかりのジョン・メイナード・ケインズによる「ケインズ理論」を採用し、財政出動による有効需要の創出を試みるものであった。

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 ニューディール政策はそれなりの成果を見せたかに思われたが、その規模が縮小されるにしたがって、成果は薄れていった。1930年代後半には再び危機的状況に陥った結果、恐慌からの本格回復は、第二次大戦の「膨大な浪費」を待つしかなかった。

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 ルーズベルトニューディール政策は、必然的に「大きな政府」となったため、連邦政府の力を全体的に強めることになった。そして、連邦政府内の権力中心として大統領の権威が強まった。ルーズベルトは、不況に苦しむ労働者や農民などに、様々な保護策を創設することで、一連の福祉政策を展開した。しかし、保守的な議員が多くを占める連邦議会により、ルーズベルト政権はニューディール政策の縮小を迫られた。

 

 1939年9月、ヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が勃発した。またたくまにフランスなど西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスもドイツの攻撃に疲弊し、英国首相ウィンストン・チャーチルアメリカに参戦を求めたが、ルーズベルトは世論の支持を得られないとして、物資や武器を供給だけで済ませた。

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 一方で、中国大陸への軍事侵攻を行う日本は、アメリカのアジアでの権益と衝突し、日本が東南アジアの油田に対する侵攻を始めると、「ハル・ノート」という強硬通告をし、ついに日本がハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。ルーズベルトは即座に参戦を表明し、世論の反対も立ち消え、同時に欧州戦線にも参画することになった。

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 やがて欧州戦線では形勢が逆転し、フランスへのノルマンディー上陸作戦により、東西両軍からのドイツ挟撃が始まると、連合国側の勝利は決定的となった。日本とはミッドウェー海戦で戦況を反転させると、次々と太平洋の諸島を抑え、沖縄を過酷な戦闘で制圧して、本土の主要都市を爆撃し、日本の国家機能を壊滅させた。

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 戦後世界では、アメリカが圧倒的な主役としてふるまうことになった。しかし、同じ連合国として戦ったソ連は、アメリカに対抗する核保有国となり、「東西冷戦」という構図で戦後世界が展開されることになる。