【アメリカの歴史】05.アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)

アメリカの歴史】05.アメリ南北戦争1861年〜1865年)

 

 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、産業化が進んだ北部と綿花生産を主産業とする南部とは、産業育成のための「保護貿易」と綿花などの輸出優先の「自由貿易」とをめぐって利害が対立した。そこへ、重工業化の進んだ北部では労働者不足となり、南部での「黒人奴隷」を黒人労働力として利用すべく、奴隷解放を望んだ。

f:id:naniuji:20211201131236j:plain

 次々と西部に広がる新たな植民地を州に格上げするとき、新州に奴隷制を認めさせるかでどうかで南北対立となった。そして1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える「共和党」が結党され、奴隷制の下での農業主の支持が多かった南部「民主党」と対立した。

f:id:naniuji:20211201131536j:plain

 1860年共和党エイブラハム・リンカーン」が大統領にえらばれると、黒人奴隷解放を目玉政策とし、北部の資本家から大歓迎された。しかし政治経験の少なかったリンカーンが、大統領に選出されるまでにはさまざまな困難があった。


 1858年のイリノイ州における上院議員選挙では、現職のスティーブン・ダグラスと、下院議員を1期務めただけのリンカーンとの間で、有名な「リンカーン・ダグラス論争」が展開された。リンカーンは新しい領土に奴隷制を拡張することに反対したが、ダグラスはそこに住む人々が決めるべきと考え、これを人民主権と呼んだ。

 

 リンカーンスプリングフィールドにおいて、有名な「分かれたる家演説」を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25)」から引用して、アメリカ合衆国がが分かれ争うことを期待しない。奴隷制の反対者が、あらゆる州で奴隷制を非合法になるまで突き進むしかないとしたが、自分は奴隷制度廃止論者そのものではなく、彼等が自分で判断する自由が与えられるべきとするものだと主張した。

f:id:naniuji:20211201131805j:plain

 一方、ジョン・ブラウンという過激な奴隷制度廃止運動家が、ゲリラ活動で市民を殺し黒人奴隷を武装蜂起させようとしたが、土地の奴隷達は立ち上がることはなく、ブラウンは逮捕され処刑された。これは南部人を震え上がらせ、ブラウンを英雄かつ殉教者と祭り上げた北部奴隷制度廃止運動家に対する不信感を増大させた。

f:id:naniuji:20211201131838j:plain

 このような対立激化の下でリンカーンが大統領に選ばれると、南部諸州は「アメリカ合衆国」からの脱退を宣言し、「ジェファーソン・デイヴィス」を初代大統領に選出して南部諸州の「アメリカ連合国」を結成した。そして1861年4月12日、南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して「南北戦争」が勃発し、またたくまに戦火はアメリカ中に拡がった。

 

 当初北軍は圧倒的な軍隊を集めて、南部アメリカ連合国の首都リッチモンドを一気に占領し戦争を終わらせようと考えたが、士気の高い南軍に打ち負かされ、さらに南軍北バージニア軍の指揮官となった「ロバート・E・リー将軍」の強い抵抗に直面し、東部での戦線は一進一退を繰り返した。この間、エイブラハム・リンカーンは「奴隷解放宣言」を出し、戦争に大儀を与えて北軍の士気を高め、また、ヨーロッパからの干渉を防ぐことに成功した。

 

 南軍リー将軍北軍を打ち負かして大きな戦果を挙げ、その勢いに乗ったリーは更なる北部への侵攻を企図した。そしてペンシルベニアゲティスバーグで総力戦が行われた。この「ゲティスバーグの戦い」は事実上の雌雄を決する戦闘となったが、この戦闘でリーの南軍は貴重な戦力を多く失い致命的なダメージを受けた。

f:id:naniuji:20211201132210j:plain

 ゲティスバーグの後、リー軍の追撃に不満を抱いたリンカーンは、新しい北軍指揮官に「ユリシーズ・グラント将軍」を指名した。グラント将軍は北軍の強みが軍事資源と人的資源にあるとし、リー軍を消耗戦に持ち込んだ。

 

 グラントは、バージニア州での「オーバーランド方面作戦」でリー軍をピーターズバーグに追い詰めた。一方で南軍の兵站の拠点であったジョージア州アトランタも、シャーマン将軍に占領され、南北戦争の帰結は極まった。グラントの軍隊に捕まったリーは、アポマトックス・コートハウスで降伏し、4年間にわたっり甚大な損失をアメリカに与えた「南北戦争」が終わった。

f:id:naniuji:20211201140941j:plain

 なお「南北戦争”American Civil War”」は、北部の「アメリカ合衆国」と合衆国から分離した南部の「アメリカ連合国」の間で行われた「内戦」であり、アメリカ国内では「The Civil War」 と表記される。

 

 1865年4月14日リー将軍の降伏から4日後、お祝い気分が首都を覆っているなかで、リンカーン大統領はフォード劇場で観劇に臨んでいたが、俳優でアメリカ連合国のシンパであったブースに後頭部を撃ち抜かれて死亡する。ブースはリンカーン大統領ほかの政権重要人物を暗殺し政府を転覆しようとしたが、大統領以外の暗殺には失敗、その企みは失敗した。

 

 リンカーンは暗殺された最初の大統領になり、アメリカの歴史に大きな影響を与えた偉大な人物としてその死が悼まれた。共和党政権は後継者に恵まれず若干の混乱をきたしたが、ブースの企みは水泡に帰した。

 

 しかし、穏健派のリンカーン大統領暗殺により、急進派共和党員が議会の実権を握り、南北戦争終結後の処理である「リコンストラクション(再建)」は、南部に対して過酷な処置を強いたため、闇に潜ったクー・クラックス・クランなどのテロが台頭し、逆に溝を広げる結果となった。

 

 さらに、形式上は解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人)も、必要な法的・政治的・経済的・社会的な具体策は取られずに、元の農場主のもとに戻るものも多く、その後も残された数々の隔離政策によって、黒人に対する不当な待遇や差別は20世紀半ばまで放置されることになる。