【アメリカの歴史】02.独立戦争と国家建設(1776年〜1789年)

アメリカの歴史】02.独立戦争と国家建設(1776年〜1789年)

 

 18世紀に入ってイギリス系植民地では、あまり農業に適していない北東部で造船や運輸などの産業が発達し、英国本国の経済に対抗するようになってきた。英国本国は、アメリカ植民地に英国以外との独自貿易を禁じたり、様々な物品税をかけるなどして植民地の産業発展を阻害してきたが、「フレンチ・インディアン戦争」などで必要になった戦費をねん出するために、さらなる重税を課してきた。

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 英国は「印紙法」で貿易独占を企て、これに住民が反発すると今度は「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。これに対して植民地住民たちが、1773年にボストン港を襲撃し「ボストン茶会事件」が起こる。これはマサチューセッツ植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンで、イギリス本国の植民地政策に憤慨した植民地急進派が、植民地から輸出する茶の販売独占権を持ったイギリス東インド会社の貨物船に乗り込み、積み荷の茶を海に投棄した事件である。

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 英国がボストン港を閉鎖するなど強硬な姿勢を示すと、アメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで、史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国本土に対して反抗する意思を示した。このような情勢の中で、翌1774年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、事態は戦争に発展した。

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 植民地住民代表は第2次大陸会議を開催し、バージニアの指導者だったジョージ・ワシントンを総司令官に任命して大陸軍を結成、さらに、トーマス・ジェファーソンが起草し、「アメリカ独立宣言」を発表した。これは、プロテスタント的思想を体現したもので、近代民主主義の原点ともなるものであった。

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 アメリカ独立戦争は、フランスとスペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世が他のヨーロッパ諸国に呼びかけて、武装中立同盟を結んだりした。このため英国は外交的・軍事的に孤立し次第に劣勢となって、1781年に「ヨークタウンの戦い」で敗れると、本国内でも独立容認の声が、1783年、アメリカに対して「パリ条約」を結ぶ。これによって大陸13州は完全に独立し、さらにミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得する。

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 独立した13州合衆国は、まだ統一国家としての形態が未熟で政策も州ごとに異なるという状態でであった。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年フィラデルフィア憲法制定会議が開催された。ここにおいて「主権在民の共和制」「三権(立法・司法・行政)分立」「連邦制」を基本とした「アメリカ合衆国憲法」が制定された。

 

 かくして「アメリカ合衆国」(首都ニューヨーク)が誕生するが、この憲法に対する批判運動が起こり、連邦憲法容認の「連邦派(フェデラル)」と連邦制反対の「協和派(リパブリカン)」が対立するようになり、これが後の政党の源流となった。その後主流となったリパブリカンが、連邦主義を容認する「国民共和党(ナショナル・リパブリカン/ホイッグ党)」と州権主義を維持する「民主共和党(デモクラティック・リパブリカン)」に分裂し、後者はアンドリュー・ジャクソンを第7代大統領に当選させると、「民主党」と改名して勢力を拡大した。

 

 ジャクソンは、競争の自由・普通選挙制(白人)など民主的な政策を進めたが、その後、黒人奴隷制を支持する南部党員と奴隷制に批判的な北部党員の間で亀裂が深まった。奴隷制支持に振れていった民主党に対して、ほぼ消滅したホイッグ党に代わって、北部を基盤に反奴隷制を標榜する進歩主義政党「共和党」が結成された。

 

 奴隷制が争点となった1860年アメリカ合衆国大統領選挙では、北部の都市を中心に選挙戦を展開した共和党の「アブラハム・リンカーン」が当選した。そして南北の対立は決定的となり「南北戦争」が起こる。北軍を支持した共和党は圧倒的に支持を増やし、南北支持に分裂した民主党は勢力を失う。なお、この時期の支持基盤層や支持基盤地域は、現在の共和党民主党とは、ほぼ逆だったことに注目する必要がある。