【アメリカの歴史】03.西方領土拡大とモンロー主義(1789年〜1829年)
【アメリカの歴史】03.西方領土拡大とモンロー主義(1789年〜1829年)
1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日に13植民地連合は「独立宣言」を発表し、1783年には植民地側の優勢の下で「パリ条約」が締結され、「アメリカ合衆国」として独立(建国)を果たした。そしてイギリスからは、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南を獲得した。
1787年合衆国憲法が制定され、1789年3月4日発効、アメリカは「共和制国家」となり、初代大統領として大陸軍司令官であった「ジョージ・ワシントン」が就任した。アメリカ合衆国議会は、アメリカ合衆国憲法の修正条項という形で「権利章典」を採択し、新しい国家としての法体系を整えていった。
アメリカ合衆国は、近代の共和制国家として「自由」と「民主主義」を標榜し、当時としては稀有な民主主義国家ともなった。しかし、女性・黒人奴隷・アメリカ先住民の権利はほとんど保障されず、奴隷制度と人種差別は独立後のアメリカに大きな課題を残すことになった。
この時代のアメリカ合衆国は、イギリスから割譲されたミシシッピ流域以外にも、ルイジアナ買収・米英戦争・モンロー主義・米墨戦争など、諸外国との交渉・紛争を経て、西方へ領土を拡張していった。
フランス革命を経てナポレオン・ボナパルト治世下のフランスは、イギリスとの対立を深めており、ナポレオンはルイジアナ植民地がイギリスとの闘争に負担になるとして、1803年、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナをアメリカに売却することにした。これにより、合衆国は広大な西部の土地を得て、ミシシッピ川も物流路として自由に使えるようになった。
アメリカ合衆国は建国以来西へ西へと拡がってきたので、西部の定義は時代と共に変わってきた。独立の初期は、東部13州の東に横たわるアパラチア山脈が境界とされたが、独立時にイギリスから割譲されたミシシッピ川までの地域や、フランスからのルイジアナ地域の取得以降には、ミシシッピ川以西を西部とするようになった。
アメリカの地域区分では、東部・中西部・西部・南部の四つに分けられることが多い。ただし、現在のように飛行機などでの移動時間が重要になってくると、アメリカン標準時に基づいて、東部・中西部・山間部・太平洋部と四つの地域に分けられることもある。
ルイジアナ買収の直後、フランスとイギリスは戦争状態に入ったが、トラファルガーの海戦でフランス海軍が敗れると、イギリスは海洋貿易の締め付けを強めた。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出たよる状態であったので、中立の態度を取っていたが、イギリスの海上封鎖でアメリカの農産品輸出が大きな打撃を受けたため、イギリスに宣戦布告する。
アメリカは、初期には優勢であったが次第に苦戦となり、1815年のガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前のままに戻ったが、この米英戦争中に経済的・文化的な欧州との関係が途絶えたため、アメリカではナショナリズムが高まり、経済・文化的自立を促進することになった。
ジェームズ・モンローが第5代大統領となると、1823年、欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱える「モンロー宣言」を発表する。これはその後のアメリカ孤立主義の典型のように言われることが多いが、一方で「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」という宣言でもあった。
1803年のルイジアナ買収以来、アメリカは領土拡大を続け、1848年にメキシコからカリフォルニアを獲得すると太平洋岸に到達、フロンティアと呼ばれる開拓最前線を西へ西へと移動させてゆく。このフロンティア西漸は、「フロンティア・スピリット(開拓者魂)」が形成されアメリカ民主主義を増進させたという考え方がある一方、この期間は、アメリカインディアン虐殺と黒人奴隷の下で成り立った白人支配社会の成立の歴史でもあった。
それとともに、アメリカ合衆国内で産業革命の勃興と南北の対立が、奴隷問題として先鋭化してゆき、1861年の南北戦争として衝突することになる。一方で、南北戦争中から大陸横断鉄道の建設が進められ、この開通によりフロンティアはさらに西へ移動し、1890年にインディアン組織的抵抗が終わったことをもって、「フロンティアの消滅」とされた。
この時期になると、アメリカは「孤立主義の時代」から脱皮し、「自らの縄張り」とした中南米のラテン諸国への干渉を強めるとともに、東洋にも進出し、日本などとの対立を深めていった。