『Get Back! 40’s / 1942年(s17)』

『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
 

大東亜戦争のイデオローグ】

○1.- 「世界史的立場と日本」座談会が、「中央公論」に4回に渡って掲載され始める。
○7.- 「近代の超克」座談会が行われ、「文学界」9・10月号に参加者による論文が掲載される。


 相次いで行われた雑誌主催の二つの座談会は、「大東亜戦争」の思想的基盤を提供したものとして、戦後痛烈な批判をあび、当時一級の知識人による戦争協力として言及される。「世界史的立場と日本」座談会の参加者は、京都帝大の西田幾多郎門下生で、「京都学派」に所属する高坂正顕西谷啓治高山岩男鈴木成高の哲学者及び歴史学者によって行われた。

 もう一つの「近代の超克」座談会は、「京都学派」の哲学者らと、「文学界」同人らの文学者・文芸評論家ほかにより構成されていた。西谷啓治鈴木成高下村寅太郎小林秀雄林房雄三好達治中村光夫河上徹太郎亀井勝一郎、ほかに音楽・映画評論家や神学者・物理学者など計十数名で行われた。


 これらの座談は、戦後、暗黙のうちに言及が避けられていたが、中国研究者の竹内好が論文「近代の超克」を発表し、ほとんど忘れ去られていたこのシンポジュームを批判的に検討し、日本思想史の問題として全面的に総括することを提起した。

 「近代の超克」の「近代」とは西欧における啓蒙的近代であり、その近代が破綻に面している今、近代は「超克」されねばならぬ。その超克は西欧近代自身の内部的には不可能で、アジアすなわち「大東亜」が出現しなければならない。そのリーダーとしての日本は、その「世界史的立場」を自覚しなければならない。このようなあたりが、座談を設定した出版社側の意図であったと思われる。

 しかし、「近代の超克」座談は、今ならシンポジュームとされるほどの多人数で、むしろ散漫な雑談的になり、取り立てて「戦争協力」だと言うほどの議論にもならなかった。ひと言で落とし処を見つけるような小林秀雄の得意な諧謔的レトリックも、畑違いの専門家の寄せ集めの中では効を奏しない。


 先行して行われた「世界史的立場と日本」座談会は、西田幾多郎門下生だけの京都帝大グループ4名で行われ、統一的な思想形成は「近代の超克」座談メンバーとは雲泥の差があった。双方の座談に加わった西谷啓治鈴木成高は「超克」の内容に落胆を隠せなかったという。彼らは、前述の文明史的文脈に「大東亜共栄圏」を位置付けることに成功し、日米の戦争をも思想的に肯定したとされる。しかし彼らの想定する戦争は、あくまで思想的に仮構された戦争に過ぎなかった。

 これらの思想的な座談会には、彼らの師匠である西田幾多郎田辺元たちは参加していない。むしろ、絶対的な発言権を持っていた陸軍の専横をいかにくい止め、戦争を拡大させずに軟着陸させるにはどうすれば良いかを考え、開戦に消極的な海軍の秘密会合に参加していたともされる。座談に参加した4名も、そうした状況を背景に師たちの意をくんで、表の世界でのギリギリの思想表現を試みていたとも考えられる。

 西田は日米開戦時には京都帝大病院に入院しており、病院に見舞った弟子筋の相原信作は、帰途で真珠湾攻撃の号外に出くわし、慌ててその号外を手に病院に戻ったという。西田はかなり早期から敗戦を予見していたとされ、終戦直前の1945年6月に息を引き取る。戦後、新制の京都大学となって、哲学科の京都学派ないし西田学派はほぼ解体された。

 戦後「京都大学人文科学研究所(人文研)」を中心に、桑原武夫今西錦司梅棹忠夫らが輩出され、彼らのグループも「京都学派」と呼ばれることがある。これはフランス文学、霊長類研究、生態学民俗学など多岐にわたる研究者が集まり、フィールドワークを重要手法として、事実中心の帰納的な方法で科学するという学際的な研究グループである。西田観念論の反省をふまえて、人文研の研究者たちはオリジナリティ溢れる国際的業績をあげている。
 

東京ローズ

○4.1 日本放送協会が、米軍兵士向けに「ゼロ・アワー」の放送を開始する。女性ディスクジョッキーが人気を集め「東京ローズ」と呼ばれる。


 太平洋戦争中、日本放送協会は「ラジオ・トウキョウ放送」として、連合国軍向けプロパガンダ放送を行っていた。当初「日の丸アワー」として、連合国軍の捕虜に軍部が用意した原稿を読ませるといった稚拙なものだったが、やがて捕虜の中でもアナウンサー経験のあるものを選んで、「ゼロ・アワー」と名称変更し、音楽と語りをとり合わせたディスクジョッキー風の放送を流し始めた。

 やがて「ゼロ・アワー」は、英語を話す女性MCを前面に出して、太平洋前線の米軍兵士に評判となり、終戦の前日まで放送された。甘く魅了する声や口調で語りかけながら、「今ごろ故郷の奥さんや恋人は他の男性と宜しくやっているでしょうね、兵役ごくろうさま」などと棘のある内容を話す声の主に、アメリカ兵たちはいつしか「東京ローズ」との愛称で呼ぶようになった。


 ゼロ・アワーに参加した女性アナウンサーは複数存在したが、声だけしか聴いていない米軍兵士の証言はまちまちで、誰が「東京ローズ」に該当するのかは特定されていない。戦後、日本を占領したアメリカ軍は、ゼロ・アワーの関係者を捕らえるべく探しはじめたが、戦後の混乱の中で関係者を見つけるのは困難であった。

 そこである従軍記者が、東京ローズが取材に応じたら破格のギャラを出すとの告知をして、唯一申し出たのが「アイバ・戸栗・ダキノ」という日系二世であった。彼女は1943年11月からアナウンサーに加わって、自ら「孤児のアン」(Orphan Anne)という愛称を名乗っていたという。米国生まれの二世で、開戦直前に日本の叔母の見舞いのために訪日したが、すぐに日米開戦により帰国できなくなった。
"Tokyo Rose", Tokyo, Japan, 09/20/1945> https://www.youtube.com/watch?v=Cdqiky9WJHU

 東京ローズ現るとの報が駆け巡ると、かつて彼女の声に魅了された元兵士たちは色めき立った。しかしその容姿はともかく、彼女の声は兵士たちの聴いた東京ローズの声とはかけ離れていたようだ。たしかに彼女は「東京ローズの一人」であることは間違いなかったが、兵士たちの耳にはそれぞれ別々の「東京ローズ」が存在したというわけであろう。


 独占取材契約に反したとしてギャラは支払われず、その上、勧められても日本国籍の取得を拒み米国籍を維持したゆえに、米国に送還され米国籍者としての国家反逆罪、禁錮10年の上にアメリカ市民権を剥奪されることになる。かつての同僚たちの評によると、自己主張が強くかなり我儘な性格だとされるが、これも米人として育った個人主義的な性格ゆえともいえるかもしれない。1977年になってやっと、むしろ敵国で「米国籍を守り続けた愛国的市民」として、大統領特赦によりアメリカの国籍と名誉を回復した。

 これと同じく「ドイツ版トウキョウローズ」も存在した。ナチスドイツの謀略放送に従事したアメリカ人女性で、ミルドレッド・エリザベスと言い、女優を夢見てドイツに渡るもベルリン放送局にアナウンサーとして採用され、結果的にナチの宣伝放送に従事した女性であった。連合国軍兵士からの愛称は「枢軸サリー」であったという。

 さらにヨーロッパ戦線では、数奇な運命をたどった「リリー・マルレーン」という曲がある。ドイツのララ・アンデルセンの曲だが、レコードはまったく売れずヒットもしなかった。しかしそのレコードが、たまたま東欧のドイツ前線放送局にあり、それを流したところ、故郷の恋人を懐かしむ兵士たちが涙を流して聴いたという。ドイツ軍兵士のみならず、対峙する英国軍など連合国兵士の間でも評判となった。互いに敵対する兵士たちが、同じ曲を聴いて故郷の家族を想いうかべるという姿は悪くない。ドイツからアメリカに渡ったマレーネ・ディートリッヒが大ヒットさせ、ヨーロッパ戦線の米軍兵士たちを慰問してまわった。
https://www.youtube.com/watch?v=hZAV4hsP5WU
 

【南方侵攻】

○1.2 [フィリピン] フィリピン占領

 1941年12月、日本は米国ハワイの真珠湾を攻撃(真珠湾奇襲作戦)すると同時に、英領マレー半島に侵攻を開始(マレー作戦)、米英に宣戦布告して太平洋戦争は開始された。同時に作戦を開始していたフィリピン攻略は、1月2日、アメリカ極東陸軍(米比軍)を率いるダグラス・マッカーサーが、早々とマニラから撤退、マニラ湾を挟んで対岸のバターン半島コレヒドール島の要塞に立てこもった。


 マニラの無血占領に成功した日本軍は、さらにコレヒドール要塞を攻撃し、3月12日、マッカーサーコレヒドール島を脱出しオーストラリアに逃げる。あの有名な「必ずや私は戻るであろう(I shall return)」という言葉は、止むを得ず一時退却する将軍が、あたかもフィリピン住民や当地に置き去りにする米兵の前で、勇ましく約束した演説のように勘違いされているが、実はオーストラリアに脱出したあと記者団に語ったから威張りに過ぎなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=NEbwuehH35I

 バターン半島に追い詰められた米比軍は、大量に日本軍の捕虜となる。この捕虜や現地難民を後方送致するときに、「バターン死の行進」と呼ばれる事件が起こされた。大量の捕虜は現地日本軍の数倍だったとされ、最寄りの鉄道駅に至るまでの移送手段は、トラック不足で多くが徒歩によるしかなかったとされる。デング熱マラリア赤痢が蔓延するなかで、灼熱の下で食料も欠いた数万の傷病疲弊した捕虜たちは、約40kmの行程を三日にわたって行軍させられることとなり、10000人近くの死者を出したとされる。

 バターン攻略が膠着したときに、大本営から戦闘指導の名目で派遣された下級参謀の「辻政信」は、米比軍が降伏し兵士が続々と投降し始めるなか、「米比軍投降者を一律に射殺すべし」という大本営命令を伝達してまわった。ところが大本営はこのような命令を発しておらず、現地指揮官の本間中将も全く関知していなかった。後日これは辻の独断による偽命令であったことが判明するが、一部の部隊では実際に処刑が実行されたという。もしこれが全部隊で実行されていたら、バターン死の行進はなかった代わりに、太平洋戦争史上最大の捕虜虐殺事件となっていたかもしれない。
 

○2.15 [シンガポール] 日本軍が英領シンガポールを占領する。


 前年12月、英国への宣戦布告前にマレー作戦を開始していた日本軍は、1942年1月末には英領のマレー半島を占領、2月始めにはシンガポールを目指した。シンガポールには、大英帝国アジア支配の拠点として、東南アジア最大の植民地軍と最強といわれた要塞がおかれていた。

 前年末の「マレー沖海戦」では、英国海軍が切り札として出撃させた戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが撃沈されており、制海制空権は日本軍が優勢であった。さらにマレー半島を占領されてしまった英国軍は、残されたシンガポールにこもって防衛戦に徹するしかなくなっていた。兵力人員は拮抗していたが、勢いと装備にまさった日本軍は、シンガポール市街をほぼ包囲し降伏を迫った。2月15日、日本軍に最終防衛線を突破された敵将「アーサー・パーシバル」中将は、13万の残存兵と共に降伏、これは英国史上最大規模の降伏であった。


 この時、降伏交渉の席で対面したのがマレーの虎と呼ばれた猛将「山下奉文」中将であり、敵将パーシバル中将に対して、机を叩きながら「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話が報道され、一躍有名になった。実際には、通訳を交えたまどろっこしいやり取りのなか、「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という冷静に言った趣旨を、通訳がうまく伝えられないことに苛立って放った言葉であったという。
*山下/パーシバル会談> https://www.youtube.com/watch?v=5WL2sMh2ufI

 シンガポール占領時には「シンガポール華僑粛清事件」というものが引き起こされる。シンガポールには華僑が多く住み、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると考え、山下奉文軍司令官は、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長鈴木宗作中将、軍参謀辻政信中佐が指示し、辻参謀が作戦の監督役とされた。

 シンガポール在住の成人男子華僑は全員集められ、抗日分子かどうか選別されたが、その選別は困難なうえに期日を定められていたため、かなり雑になった。ここでも、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と檄を飛ばすなどしたため、期日に終了させるために員数合わせ的な処刑も行われたという。

 山下奉文は、その後、敗色濃厚なマニラ防衛指揮官として派遣され、終戦後、戦犯とされマニラでの軍事裁判で死刑判決を受ける。その罪状は、この「シンガポール華僑粛清事件」とマニラ市街戦中に起きた「マニラ大虐殺」の指揮官としてのもので、現地で絞首刑を執行される。シンガポールの現場で処刑をあおってまわった辻政信は、終戦時にはインドシナから中国に潜伏して、戦犯を免れた。
 

○3.9 [インドネシア(蘭印)] オランダ軍が、今西均中将率いる日本軍に無条件降伏する。


 1942年1月に始まったオランダ領東インド(蘭印・現インドネシア)侵攻作戦は、3月9日、バンドン要塞を落とし、バンドンの蘭印軍司令部は降伏した。オランダは、多数の島が広大な海域に広がるインドネシアを植民地支配していたが、本国はナチスドイツに征服され、イギリスに置かれた亡命政権しかなかった。蘭印は、スマトラ島を中心に、日本の必要量をまかなうことのできる石油を産出し、錫・ボーキサイト・ゴムなど必須の戦略物資も豊富、アメリカの経済封鎖に対抗するには必要不可欠の地域であった。

 蘭印作戦は、マレー、フィリピンなど第一次侵攻作戦の後に続く作戦であったため奇襲攻撃が出来ず、さらに広大な海洋での渡洋作戦となるため制海権制空権の確保が必須であったことなど、長期的な侵攻作戦が予想された。本国オランダがドイツに占領されているのに乗じて、当初日本軍は蘭印への無血進駐を企図したが、亡命政府はこれを拒否し日本に宣戦布告したため、現地オランダ軍を中心に英米豪の連合軍と戦うことになった。


 今村均中将を軍司令官とした日本軍は、マレー半島などの破竹の進撃の勢いを受けて、寄せ集めの連合軍を次々と打ち破って重要な島嶼を攻略、最重要拠点のジャワ島を、当初予定より1カ月も早く占領した。蘭印では、長年の過酷なオランダの植民地支配もあって、フィリピンやマレーのような抗日活動が少なく、日本軍の統治も現地独立運動家を保護するなど、将来の独立を念頭に置いた政策がしかれたという。その結果、日本の敗戦が決まると、いち早くスカルノなど民族主義者がインドネシアの独立を宣言し、インドネシア独立戦争には、現地に残された多くの旧日本軍兵士が参加したとされる。

 一方で、日本軍と戦い、東洋の植民地を失うことになったオランダは、戦後にはヨーロッパでも最も反日感情の強い国の一つとなった。江戸以来のオランダ貿易や幕末の蘭学など、日本ではなじみの深いオランダであるが、400年の交遊も一度の戦争がぶち壊してしまった。 

 蘭領印度(インドネシア)は、日本の江戸時代が始まる1600年前後から、長期にわたってオランダの植民地として支配されてきた。当地のオランダ人は支配民として、インドネシア人社会に融合することなく、オランダ風の生活を守っていた。当地に居住した外国人は、日本軍の支配下に落ちると指定居住区に集められた。そのうえ、オランダ人の女性・子供を中心に、拘束が厳しく劣悪な環境の抑留所に押し込められたという。

 そんな中で、「もう一つの慰安婦事件」が発生した。数カ所の収容所レベルで発生したとされ、「スマラン事件」などが報告されている。日本軍将校のための「慰安所」を作るとして、抑留所のオランダ人女性などを選別して、慰安婦を強要したという。これは軍幹部の知るところではなく、部隊付きの憲兵隊などが将校のご機嫌取りに企んだものだといわれ、軍本部に情報が伝わるとすぐに閉鎖命令がだされ、現場企画者らは処刑されたと言われる。
 

【太平洋戦局の転換】

○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦ガダルカナル島の戦い


 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。

 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。

 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。

 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。


 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。

 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジーサモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。

 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。


 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。

 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
 

*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄姿三四郎