『Get Back! 40’s / 1943年(s18)』

『Get Back! 40's / 1943年(s18)』
 

○4.18 [南部太平洋] 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死する。


 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨げるべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第三艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し敵の戦線を攪乱させるという目的で実行された。

 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。


 山本は、ブーゲンビル島ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。4月18日、ブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。

 山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して一カ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例であった。

 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六阿川弘之阿川佐和子の父親)などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
 

【大東亜会議】
○5.31 [東京] 御前会議が大東亜政略指導大綱を決定。マレー、オランダ領インドネシアに軍政をしき、ビルマ(ミャンマー)、フィリピンに形式独立を与え、政略体制を強化する。
○8.1 [ミャンマー] バー・モー政府が英からの独立を宣言。米英に宣戦布告し日本との同盟条約に調印する。(大東亜政略指導大綱の最初の実行)
○10.14 [フィリピン] フィリピンがホセ・ラウレル大統領のもとに共和国独立を宣言。日比同盟条約が調印される。
○10.21 [シンガポール] チャンドラ・ボースが日本の後援で、自由インド仮政府を設立、24日英米に宣戦を布告する。
○11.5 [東京] 大東亜会議が開催される。日本・フィリピン・タイ・ビルマ満州・中国汪兆銘政府の各代表が参加。6日、大東亜諸国の相互協力・戦争完遂などの共同宣言を発表する。


 1943年(昭和18年)11月5日、先の5月31日に決定された「大東亜政略指導大綱」に基づき、東京に各協力国首脳を招いて「大東亜会議」が開催された。参加首脳は、日本・中華民国満州国・フィリピン・ビルマ・タイ・インドであり、インドはオブザーバーとしての参加であった。


 「タイ」は独立国で日本の友好同盟国、すでに英米に宣戦していた。「満州国」は関東軍が画策して独立させた傀儡国。「中華民国」は、対日交戦する蒋介石が内陸の「重慶政府」に陣取っていたが、日本は、懐柔しやすい汪兆銘に「南京政府」を作らせ、彼を中華民国代表として招いた。

 大東亜政策大綱にそって、ビルマではバー・モー政府が成立し、フィリピンでもラウレル大統領が共和国独立を宣言、ともに日本との同盟条約を結んで参加。インドではチャンドラ・ボースが日本の後援で、自由インド仮政府を設立したが、大東亜圏とは独自の扱いにするとしてオブザーバーとなった。

 すでに太平洋海域では劣勢が始まっており、早急にアジア地域占領地の統治方針を定めて、地域の統合を進める必要があった。さらに、この会議は近代史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、日本はその盟主として、欧米白人系国家であった旧宗主国からの解放者としてふるまった。それはさらに、現地住民たちの意識を、宗主国側の連合国軍に立ち向かわせるためでもあった。

 しかしこの会議には、マレー・シンガポールインドネシアは招かれていない。というより、政略大綱ではこれらの地域を、朝鮮や台湾と同じく併合する計画であったとされる。日本の降伏後、インドネシアではスカルノやモハマド・ハッタが、進駐した英国軍や植民地奪回を目指すオランダ軍を相手に独立戦争を開始した。現地に残された旧日本兵が、義勇兵としてこの独立戦争に参加したとされるが、日本に帰還しても戦犯にされるのを恐れたとか、彼らには様々な動機があり、必ずしも純粋に民族自決の戦いにはせ参じただけではない。

 一方、大東亜会議に招聘された各国政府は、大半が日本の敗戦とともにその存在根拠を失った。満州国は国家が消滅し、中国の汪兆銘政府・ビルマのバー・モー政府、フィリピンのラウレル政権も消滅した。タイ国王は裏で連合国とも繋がっており、会議には代わりに皇太子を派遣していたので難を逃れた。チャンドラ・ボースは、インド国民軍を組織して日本軍とともに戦ったが、日本の敗戦直後、日本から調整外交に向う飛行機事故で死亡。一方で国内でのガンジーやネールの無抵抗運動が国民的盛り上がりを見せ、植民地維持の体力を失っていた英国が放棄することで独立を勝ち取った。
 

【戦局悪化にともなう徴兵強化】

(朝鮮・台湾にも徴兵制)
○3.2 兵役法が改正公布され、「朝鮮」に徴兵制がしかれる。(8.1施行)
○9.23 閣議が1945年度より「台湾」に徴兵制の実施を決定する。

 太平洋戦争も劣勢が明らかになった時期、日本は植民地支配していた朝鮮、台湾で徴兵制を実施することになった。日本の朝鮮植民地支配では、すでに1938年から志願兵制が導入されており、この年になってから徴兵制が実施された。台湾においては1942年に陸軍、43年には海軍が特別志願制を実施し、台湾が戦場となる可能性が強まった45年初頭から徴兵制が実施された。徴兵制で動員された朝鮮人は21万人、台湾人は3万5千人に達した。

 形式的には、日清戦争で日本が勝利した時、それまで清国の冊封下にあった朝鮮国(李氏朝鮮)が、日本の影響下で独立し「大韓帝国」を名乗った。やがて韓国統監府が設けられ大日本帝国保護国となったあと、「日韓併合条約」で大日本帝国に「併合」された。つまり、形式的には朝鮮半島は日本の一部となったわけだ。一方で台湾は、日清戦争の結果、日本に「割譲」されたことになり、いわゆる植民地であった。しかし日本は「創氏改名」を強いるなど、双方ともに同様の「同化政策」をとった。


 朝鮮出身者が本格的に陸軍に採用されたのは、1910年の憲兵補助員制度における憲兵補助員に始まるが、やがてこれは朝鮮総督府警察の警察官に転官され、あくまで戦闘用員ではなかった。1938年に陸軍特別志願兵制度、1943年に海軍特別志願兵制度が導入され、志願兵として採用されることになったが、それまでは朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはなかった。

 ただし、陸軍士官学校や陸軍幼年学校では、朝鮮人へも門戸を開放されており、また満州国軍の朝鮮人軍人も陸軍士官学校に派遣留学されることがあった。そのため、洪思翊(こうしよく/ホンサイク)のように中将まで昇進したものもいる。また、のちに韓国大統領となる朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)も、満州国軍軍官学校を経て陸軍士官学校に留学しており、満州国陸軍中尉となり、満州軍第8団副官として内モンゴル自治区終戦を迎えた。なお、海軍の士官養成諸学校は、終始朝鮮人の入校を認めなかった。

 やがて戦争が深刻になると特別志願兵制度が実施され、朝鮮人が一般兵卒として陸海軍に入隊することになった。志願兵といっても、貧しい農家でとりあえず米が食える軍隊にはいるとか、軍隊では二等国民としての差別待遇から免れるとか、また半強制的に志願させられたとか、さまざまな入隊動機であったとはいえ、志願兵として入隊するものは、徴兵された兵隊より意識が高いとされた。しかしそれでは間に合わなくなり、1944年半ばからは朝鮮人の徴兵が始まった。


 朝鮮半島に遅れて、台湾でも1944年4月に特別志願兵制度が施行されると、多くの台湾人志願者が殺到したとされる。中でも、台湾原住民志願者で編成された高砂義勇隊などは、南方のジャングルに慣れない日本軍にとって大きな力となり、勇猛な高砂族として内地でも評判となった。しかし多くの隊員は軍人ではなく「軍属」とされたため、戦闘での戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれ、戦後の補償も満足になされなかった。台湾でも1945年初めから徴兵制が実施された。
 

(学徒動員)
○6.25 閣議が学徒戦時動員体制確立要綱を決定。本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が法制化される。
○10.21 [東京] 明治神宮外苑陸上競技場で、出陣学徒壮行会が開催される。

 6月25日「学徒動員」体制が法制化され、本土防衛のため学生の軍事訓練と勤労動員が課せられることになった。戦局悪化による兵力不足のため、朝鮮徴兵・台湾徴兵と並んで、それまで徴兵猶予されていた高等教育機関在籍の学生を在学途中で徴兵し出征させた。従来、兵役法などの規定により高等教育在学の学生は26歳まで徴兵を猶予されていたが、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。

 1943年10月1日、東條内閣は在学徴集延期臨時特例を公布し、これにより理工系と教員養成系を除く文科系の在学生の徴兵猶予は撤廃された。この特例により、10月と11月に徴兵検査を実施し合格者を12月に入隊させることとした。「学徒出陣」によって入隊することになった多くの学生は、高学歴者であるという理由から、幹部候補生・見習士官などとして、不足していた野戦指揮官クラスの下級将校や下士官の充足にあてられた。これらの最前線の下級指揮官は、最も戦死の確率が高い立場である。


 この第1回学徒兵入隊を前にした1943年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場で、文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、関東地方の入隊学生を中心に7万人が集められた前で、東條英機首相直々に訓示を行った。同様の出陣学徒壮行会は各地でも開かれたが、翌年の第2回出陣以降は戦況悪化で壮行会さえ行われなくなった。翌1944年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定されている。
*出陣学徒壮行会 https://www.youtube.com/watch?v=GzxGnKvwIW8

 死亡した学徒兵達の意思を後世に伝えるため、1947年東京大学の戦没学徒兵の手記として『はるかなる山河に』、続く1949年にはBC級戦犯処刑者を含む日本全国の戦没学徒兵の遺稿集として『きけ わだつみのこえ』が出版された。これらは、時の政府により学業を中断させられ戦場に出征し、軍隊の不条理や死の恐怖と直面した学徒兵の苦悩や思索が込められており、戦後に生き延びた日本人に強いメッセージを与えた。
 

○5.- 「中央公論」に連載中の谷崎潤一郎作「細雪」が、情報局の圧力で中止となる。


 1943年、月刊誌「中央公論」1月号と3月号に「細雪(ささめゆき)」の第1回と第2回が掲載された。谷崎は1941年に「谷崎潤一郎源氏物語(旧訳)」を完成させており、その優雅な源氏物語の世界の現代版とも言える「細雪」にとりかかった。大阪船場の旧家に生まれた妻松子の姉妹たちの生活をモデルに、軍国主義が深まる世相にもかかわらず、阪神間に住まう姉妹たちの家庭どうしの華やかな交友を描いた。


 小説には明示されていないが、描かれた世界は日中戦争勃発の前後から日米開戦の直前までの時期とされる。しかし発表の時にはすでに戦局が傾きつつあり、内容が時局にそぐわないと軍部から掲載を止められた。谷崎はそれでも執筆を続け、1944年7月には私家版の上巻を作り、友人知人に配ったりした。さらに中巻も完成したが出版できなかった。空襲を避け岡山の山間での疎開を経て、終戦後は京都の鴨川べりに住まいを移し、1948年にやっと下巻までを完成させる。『細雪 全巻』が中央公論社から刊行されたのは、その翌年1949年の末であった。


 東京で生まれ育った谷崎潤一郎は、1923年関東大震災の年、すでに所帯をもち横浜山手に居をかまえて、中堅作家として名をなしていた。震災前に結婚した最初の妻「石川千代」は谷崎の好みに合わなかったようで、その妹「小林せい子」を愛人にして、女優デビューさせたりしており、「痴人の愛」のナオミのモデルとされる。大震災では自宅が火災消失し、大震災の惨状をまのあたりにした生来の小心者谷崎は、関西に移住する。

 震災で阪神間に移住後、のちに「細雪」のモデルとなる「根津松子(旧姓森田松子)」と知り合うが、松子はすでに既婚者であった。一方で、谷崎に放置された状態の妻の千代は、谷崎の作家仲間であった佐藤春夫の同情をかい、やがて三者連名の挨拶状を知人に送り、谷崎は千代と離婚し、千代は佐藤と結婚するという「細君譲渡事件」として世間を賑わせる。そのあと谷崎は、その文名にひかれた古川丁未子(とみこ)と結婚するが、これも性癖が合わなかったもようで、のち離婚する。

 その間に松子も夫との間に離婚が成立し、松子と谷崎は芦屋で同居するようになる。谷崎は「盲目物語」「春琴抄」その他の女人崇拝の作品を書き、それらは松子を念頭に置いて書かれた。やがて松子と無事結婚した谷崎は、「松に倚(よ)る」という意味で「倚松庵(いしょうあん)」を名乗り、二人で住まった神戸市東灘区の住まいも「倚松庵」と呼ばれ、「細雪」が書かれた家として移設され保存されている。

 関西移住後、谷崎がおもに住まった阪神間には、芦屋市山手などを中心に、「阪神モダニズム」と呼ばれる近代的な住環境・芸術・文化・生活様式が出来上がりつつあった。しかも、大震災以降の復興しつつある関東と、震災で多くが移転して来た関西を中心に、「昭和モダン」と呼ばれる和洋折衷の近代市民文化が開花していた。そのような華やかな文化の息吹のもとで、没落しつつある旧家の生活・風習が重なり合って、陰影を漂わせ儚さを予感させる華やかな姉妹の生活が描かれる。これが「細雪」の世界であった。
 

*この年
種々の替え歌流行(見よ東條のハゲアタマ〜)/決戦料理の名のもとに野草の食用が推奨される
【事物】いも駅弁・いもパン/硫黄マッチ/貯蓄券/酒場・ビヤホールに順番券
【流行語】転進/元帥の仇は増産で/玉砕
【歌】加藤隼戦闘隊(灰田勝彦)/お使いは自転車に乗って(轟夕起子)/勘太郎月夜唄(小畑実藤原亮子
【映画】姿三四郎黒沢明)/無法松の一生稲垣浩)/花咲く港(木下恵介
【本】島崎藤村「東方の門」(中央公論)/山本周五郎「日本婦道記」(婦人倶楽部)/芹沢光治良「巴里に死す」/武田泰淳司馬遷