07【20世紀の記憶 1905(M38)年】

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07【20世紀の記憶 1905(M38)年】(ref.20世紀の全記録)
 

 1904年2月、旅順港攻撃と仁川上陸の奇襲作戦でロシアの機先を制した日本軍は、2月から5月にかけて、旅順港に待機したロシア旅順艦隊を、旅順港の出入り口に船舶を沈め封鎖するという「旅順港閉塞作戦」を試みるが失敗に終わった。

 一方、日本陸軍第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月末の「鴨緑江会戦」で、安東(現/丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。続いて第二軍が遼東半島に上陸し、5月26日「南山の戦い」で、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略し、さらに南満州の戦略的拠点の遼陽を目指す。

 北上を続ける日本軍2個軍の後方に、有力な露軍戦力と「旅順要塞」を残置するのは危険とされ、旅順港と旅順要塞の攻略が必要とされた。海軍側は独力で、旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)を無力化することを主張するが、強大なロシア・バルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航が確定すると、陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯で編成が遅れた日本第三軍の司令官には、日清戦争で旅順攻略に功績のあった乃木希典大将が任命された。

 8月末、日本の第一軍、第二軍および第四軍は、南満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。「遼陽会戦」では、日本軍が進撃し遼陽を占領するものの、ロシア軍司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、ロシア軍の撃破には失敗した。10月にはロシア軍が反転攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。やがて両軍は遼陽と奉天(現/瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対峙する。


 旅順要塞の攻略は難攻を極めた(旅順攻囲戦)。旅順攻略戦と連動して、海軍は「黄海海戦」で、旅順艦隊を何とか無力化に成功した。一方で、乃木大将の旅順要塞攻略は苦戦を強いられ、8月の作戦開始から、翌1905年1月1日敵将ステッセルの降伏まで、5カ月を要し、多大の戦死者を出すことになった。乃木希典の評価は分かれ、明治天皇崩御に殉死するに及んでは神格化されたが、一方でその将としての資質から、作戦の失敗まで多くの批判もある。

 そして日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日、日本軍が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、ロシア軍司令官クロパトキン大将はまたも撤退を指示、ロシア軍の完全撃破には失敗した。

 ロシア・バルチック艦隊は7ヶ月に及ぶ航海の末日本近海に到達、5月27日連合艦隊と激突した(日本海海戦)。バルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかが、この時重要問題であった。ウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得、3ヶ所すべてに戦力を分散するわけにもいかない。連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊対馬海峡を通過すると予測し、主力艦隊を配置した。


 対馬海峡で日本艦隊の迎撃を受けたバルチック艦隊は、5月29日にかけてのこの海戦で、その艦艇のほとんどを失った。日本海軍の一方的な圧勝に終わったこの海戦の結果をうけて、ロシア側も和平に向けて動き出した。ロシアでは、1905年1月9日に血の日曜日事件が発生するなど、内政不安が高まっており、さらにバルチック艦隊の敗北で、もはや戦争の継続が不可能になった。

 日本でも、国力をはるかに超える莫大な戦費と多数の兵力を動員しており、国力の消耗が激しかったため、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介を受容れた。アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
 

〇この年の出来事
*1.22/ロシア 首都ペテルブルクで、10万人のデモ隊に一斉射撃。「血の日曜日事件

*6.27/ロシア 黒海オデッサ港に入港して来たロシア戦艦「ポチョムキン号」で、水兵の反乱が起こる。

*6.30/スイス アルベルト・アインシュタインが「特殊相対性理論」を完成。

*9.5/東京 日比谷公園で行われた、日露戦争講和条約ポーツマス条約)に反対する国民集会が、暴動事件に発展。「日比谷焼打事件」

*12.10/ドイツ ドイツの細菌学者ロベルト・コッホが、結核菌の発見などの研究でノーベル医学・生理学賞を受賞。