【19th Century Chronicle 1874年(M7)】

【19th Century Chronicle 1874年(M7)】
 

*1.17/ 民選議院設立建白書が、副島種臣板垣退助江藤新平ら8人から左院に提出される。
 


 「明治六年政変」で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、「愛国公党」を結成し反政府運動を始めた。愛国公党は、「天賦人権論」に立ち、専制政府を批判、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張し、士族や平民に参政権を与え、議会を開設せよと主張した。

 愛国公党を結成したあと、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)、および起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で「民撰議院設立建白書」を立法議政機関の左院に提出した。

 民撰議院設立建白書では、現状の政治権力が天皇にも人民にもなく、薩長藩閥中心の「有司専制」(有司=官僚)にあることを批判し、この窮地を救うためには「天下ノ公議」を張ること、すなわち「民撰議院」を設立することであるとした。
 


 愛国公党は、江藤が佐賀の乱で刑死、板垣も一時参議に復帰するなどし自然消滅したが、板垣は地元高知に「立志社」を設立するなどし、参議を辞して「自由民権運動」に復帰した。この時期の自由民権運動は、政府に不満を持つ不平士族らに基礎を置いており「士族民権」と呼ばれる。しかし、武力による士族反乱は、1877年(明治10年)の西南戦争が区切りとなった。

 1878年明治11年)に愛国社が再興し、1880年明治13年)には「国会期成同盟」が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、民権運動は不平士族のみならず、農村にも広がっていった。地租の負担に敏感な各地の農村の指導者層などを中心に、運動は全国民的なものとなっていき、この時期の民権運動は「豪農民権」とされた。
 


 やがて明治14年1881年)、10年後に帝国議会を開設するという「国会開設の詔」が出され、板垣は自由党を結成して総理(党首)となった。全国を遊説して廻り党勢拡大に努めていた、明治15年(1882年)4月、板垣は岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷する(岐阜事件)。この際に発した言葉が、「板垣死すとも自由は死せず」と広く伝わることになった。

 その後、紆余曲折もありながら、明治23年(1890年)の帝国議会開設にこぎつけると、分立していた旧自由党各派を統合して「立憲自由党」を再興、翌年には「自由党」に改称して党総理に就任した。暴漢に襲われたが、決して「板垣は死せず」に、帝国議会の草創期に政党政治の確立に活躍し続けた。
 
 

*5.4/長崎 西郷従道大久保利通大隈重信の会見が長崎で行われ、「台湾出兵」実施が決まる。
 


 1871年明治4年)10月、当時の「琉球王国」に属する宮古島の貢納船が台湾に漂着し、乗員66名中の54名が、台湾の先住民「生蕃」(現在の台湾パイワン族)に殺害されるという事件が起こった。残り12名は漢人移民により救助され、台湾府の保護により宮古島へ送り返された。
 


 当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国とされ、両国間でその帰属を巡って対立が生じ始めていた。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は、琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではないとし、台湾の生蕃(先住民)については清朝の「化外の民」(統治範囲外の人々)であるから、管轄外として拒否した。

 明治政府は、琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして清朝が処罰できないなら、自ら討伐するとして、1874年5月4日、陸軍中将西郷従道の指揮の下、3600名の台湾遠征軍を派遣することを決定した。西郷従道の遠征軍は、生蕃の統領を殺害するなど本格的な制圧を進めたが、現地の風土病であるマラリアで500人以上が死ぬという想定外の事態に直面した。

 

 日本は通告なしに派兵したという外交的失策を犯しており、一方の清国も、当時は洋務運動の最中で、近代装備が整わない海軍では具体的対抗ができなかった。やがて、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。


 交渉の結果、清は日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、征討軍を撤退させることに合意した。 また、清国は補償金として50万両(テール)を支払い、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が認知されたとし、琉球併合を推し進めることとなった。
 


 前年には「征韓論政変」で、西郷隆盛ら半数近くが政権から去るという大政変があったばかりだが、その一方で、台湾出兵は、大久保らの征韓論反対組が、積極的に進めた矛盾もあったが、翌1875年の「江華島事件」では朝鮮半島への侵略の足掛かりをつけるなど、対外膨張路線には変わりなかった。
 
 そして台湾出兵は、琉球帰属問題の解決後の琉球処分琉球併合)、さらにその後の台湾領有に向けての第一歩となった。やがて、日清・日露の戦争から朝鮮併合と、軍事力の強化と並行して、領土の拡張を進める。以降、日本の軍備力は、太平洋戦争の敗戦によって確認されるまで、ひたすら拡大してゆくことになる。
 
 

*6.23/北海道 北海道の開拓のため、農業と防備を兼ねた「屯田兵」の制度を設ける。
 


 江戸時代には北海道は蝦夷地と呼ばれ、大半が未開の地だった。旧幕府海軍の指揮官榎本武揚は、幕軍残党を率いて箱館戦争を戦ったが、そもそもの狙いは、幕府の遺臣を蝦夷地に移して、北方警備と開墾に従事させることだった。榎本の計画は、実現こそしなかったが、最初の屯田制構想であった。

 明治新政府になると、西郷隆盛が士族による北方警備と開拓を主唱したが、征韓論問題で下野すると、同じ薩摩閥の開拓次官黒田清隆屯田制を建議し、政府は1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。そして翌1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で屯田が開始された。

 

 屯田兵制とは、平時は農民として開墾に従事し、一方で辺境の警備兵として緊急時に備えるという制度である。その意味で、未開の辺境地域を開拓するのに最適な仕組みであるとともに、急激な体制の変換によって身分と職を失った旧士族を、屯田に向かわせるという大きな狙いもあった。

 屯田は当初、札幌近くの石狩地方に展開し、しだいに内陸や道東部などに範囲を広げた。屯田兵は、二百余戸の中隊を一つの単位として兵村を作った。中隊はいくつか集まって大隊が編成された。はじめ、屯田兵は「開拓使(北海道の中央官庁)」の屯田事務局の下に置かれ、1882年(明治15年)に開拓使が廃止されると、陸軍省に移管された。

 

 通常軍の兵士には既に徴兵制がしかれていたが、屯田兵は長期勤務の志願兵制という特殊な扱いとされた。初期の屯田兵募集は身分上の制限もあり、旧下級士族が多く志願したが、のちには平民も採用されるようになり、その構成率は一般人口での比率に収斂していった。

 屯田兵は、1877年(明治10年)の西南戦争にも動員された。初期の屯田兵には、旧幕府側に立って戊辰戦争で敗れた東北や北越の旧下級藩士も多く、仇敵薩摩を相手に意気込んで戦った。ただし、上級指揮官は旧薩摩藩閥が占めていたため、軍上層の士気は緩かったという。

 

 1882年(明治15年)の開拓使の廃止後、屯田兵の構成も農民の比率が多くなっていく過程で、北海道庁長官兼屯田兵本部長となった永山武四郎は、ロシアのコサック兵制度などを参考に、屯田兵拡大の具体策を立て、屯田兵の改革・増設計画を急速に進めた。

 農民出身者が増加した屯田制の後半期には、初期の札幌中心の石狩川周辺から、内陸の上川、空知などへ重点が移された。この時期になると、過去の経験の蓄積、良好な土地選定、農民出身者が多かったことなど、好条件が重なり、屯田の経営は好成績を収めるようになった。
 

 やがて北海道の開拓が進展し、大規模な入植の土地が少なくなるとともに、北海道の人口が徴兵制で兵士を集めることが可能な水準に達してきたので、屯田兵の必要性が弱まり、1904年(明治37年)に屯田兵制度が廃止されることとなった。当初の過酷な環境に耐え抜いた屯田兵たちの努力もあり、屯田兵制は、その歴史的役割を果たしたと言える。
 
 

〇この年の出来事

*2.-/東京 外務官僚森有礼の主唱により、日本最初の学術団体「明六社」が正式に発足する。(3月「明六雑誌」を創刊)

*3.1/佐賀 佐賀の不平士族の反乱を、政府軍が佐賀県庁をを奪回して鎮圧する。(「佐賀の乱」 4.13 江藤新平ら処刑)

*4.10/高知 板垣退助が、高知に政治結社立志社」をおこす。

*7.-/東京 京橋・銀座一帯が、洋風街としてほぼ完成。文明開化を象徴する東京の新名所となった。

*8.16/山形 酒田県(現山形県)で、1万人が参加する石代上納・雑税廃止を求める農民の騒擾がおこる。(「わっぱ騒動」)