【過去の雑記帳より(1969/02/01全学集会)】

【過去の雑記帳より(1969/02/01全学集会)】

六甲台正門前でのデモの様子

 FACEBOOK高野悦子二十歳の原点』が話題になっている。この日記自体は読んでないのだが、同年代で同じような場所で過ごした者として、いささか当時の状況を振り返ってみようと思った。その頃の雑記帳に、封鎖中の全学集会に参加した時の感想が記されていた。大学一年生の終わりごろ、いかにも稚拙な文章で、その時の心情を的確に表しているとも思えないが、一資料として掲載してみる。補足が必要であろうから、冒頭に少し触れておく。

 1968年4月に、一浪をへて神戸大学経済学部に入学した。慣れない下宿生活で一年生前期を忙しく過ごしたあと、夏休みに京都実家に帰省してだらだらしてると、遅れてやって来た「五月病」とやらで鬱状態に陥った。そのまま下宿も引き払い、新学期が始まっても登校せずに引きこもり状態、やっと学校に通いだしたのは10月ごろからだった。その頃まで、関東において東大や日大で紛争がくすぶり始めた程度で、関西ではいまだ古き良き時代の空気のまま学園祭などもおこなわれた。

 12月初めに、学寮の寮費問題から当学でも紛争が発生、大学本部や教養部が封鎖され、これからほぼ半年以上講義の行われない状態が続いた。関西ではこのころ、半年から一年遅れで紛争が波及して来て、京都の京大、同大、立命などもほぼ同じような状況だったはず。この記述にある全学学生大会が翌'69年2月初めの開催で、その後進展もなく7月に学外で行われた全学集会と、その後8月の機動隊導入によって、やっと全学が正常に戻ることになる。

 なお'69年1月には東大安田講堂攻防があり、最初の機動隊導入であった。その後、各学とも右に倣へと次々と機動隊を導入して封鎖解除していく。民青色の強かった立命館では、関西でも先陣を切って、2月18日に機動隊導入があったことが高野の日記にも記されている。

 この当時の私の立ち位置は、全共闘シンパ・ノンポリというところであったが、このあたりから全共闘も風通しが悪くなりセクト色が強くなって、徐々に気持ちが離れていったころである。そのまま'69年末まで京都でぶらぶらしていたので、河原町のフランセ・六曜社などで高野とすれ違っていた可能性もあるが、6月の自殺もまったく知らず、雑記長でも触れた痕跡がない。ときを同じくして神戸では、7月に須磨の造成地で大学側主催の全学集会が開かれ、反対派学生のデモ隊も終結して「荒野の決闘」みたいなシーンがあるのだが、そのへんは別稿にしたい。

全共闘・シンパ・ノンポリセクト・民青などなどの当時の「術語」に関しては、コメント欄などで質問いただけばお答えします。


(1969/02/03全学集会に参加して)
≪昨年末より続いている無期限ストは、何ら新しい展開もなく現在に至った。
一昨日の評議会断交に幻滅を感じた私は、わずかな希望を託して今日の学生大会に臨んだが、やはり期待にそうようなものではなかった。
ぎっしりとつまった会場の大講義室には緊張した空気がただよっていた。
最初にスト支持の声明を出した教官が、静かな調子で変革の必要性を説いた。その調子にとまどいながらも、時々拍手や意義ナシの声があがる。しかしその理論展開に、私はついてゆけない。
やがて議長団の選出が行われたあと、まずスト中止の意見が出た。早くも激しい野次がとぶ。
ナンセンス、カエレ、カエレ、その声には意思表示というより、発言者に対する憎しみが表面に出ていた。論理的ではなく、昂奮した群集の声による暴力によって、その意見はほうむり去られた。
この場では理性より感情が支配的である。群衆の期待にそうような意見でないと発言さえ許されない。そしてその期待はあくまでこの会場内の雰囲気で作り出された群集のものであって、冷静にもどった個々の人間のものではないのだ。
スト実行委による議案書の説明が始まる。一句ごとに区切られた、例の単語の羅列のような機械的な声は、単調でかつ耳ざわりであった。私にはどうしても人間が話しているようには思われない。手持マイクが自ら発する機械の声であった。もうこれ以上この場に居る必要は感じられなかった。この空気に私は窒息しそうになって席を立った。私は失望の傷口をさらに大きくえぐられる思いであった。
しかし、外の清々しい冷気を吸って海を見下したとき、やっと私は生気をとりもどした。そして改めて、人間に比べて、自然の偉大さを知ったのである。≫