27【20世紀の記憶 1925(T14)年】

【20世紀の記憶 1925(T14)年】(ref.20世紀の全記録)
 

*3.29/日 日本で初の「(男子)普通選挙法」が成立。25歳以上の男子に選挙権。納税額制限が撤廃され、有権者は従来の4倍に。
*4.22/日 「治安維持法」が公布さる。「国体変革を目的とした結社を禁ず」など、の条項で、以後の思想弾圧の根拠となる。
 


 第一次世界大戦後、大正デモクラシーといわれ民主主義拡張の雰囲気が増した時代、まさに大正の末の1925(大正14)年に至って、加藤高明内閣の時に「普通選挙法」が成立した。高橋是清犬養毅加藤高明を中心に、普通選挙の実施を公約に掲た護憲三派が結成され、衆議院選挙で勝利を収めると、憲政会総裁である加藤高明が内閣を組閣した。こうして、公約通りに衆議院議員選挙法(普通選挙法が成立した)が改正されることになった。


 普通選挙法によりそれまでの納税額の制限がなくされたが、選挙権所有者の年齢は変らず、満25歳以上の男子が衆議院議員選挙権、満30歳以上の男子が被選挙権を保有するとされた。そして、有権者の割合は全体の約20パーセントとなり、今までの約4倍に増加したが、依然として女性には参政権が与えられなかった。また、公的な扶助を受ける者、住居不定の者らは、選挙権の欠格者とされた。
 


 一方で、普通選挙法により無産政党などの勢力が増大し、社会運動などが過激になることをおそれた政府は、普通選挙法の公布の直前に「治安維持法」を公布した。治安維持法は、天皇主権の国家体制を変えることや社会主義の動きを取りしまるために制定されたものであるが、やがて日本の軍国主義が進むと、共産主義者だけでなく自由主義者まで弾圧されるようになり、思想の自由を完全に奪うための悪法として機能するようになった。


 この年の1月、ロシア革命によって成立したソビエト連邦との国交が樹立されると、共産主義運動の激化が懸念された。また、米騒動が起きるなど従来の共産主義社会主義者とは無関係の暴動が起き、さらに、関東大震災後の社会不安なども高まっていた。このような社会運動の大衆化のもとで、特定の「危険人物」を監視するだけでは対応できなくなるとの懸念から、反社会的な思想や結社を予防的に取り締まる必要があるという流れが出来つつあった。
 

 普通選挙法が成立すると、社会変革を恐れた枢密院の圧力などにより、同時に治安維持法も成立し、衆議院議員選挙法改正公布より先行して、4月22日に公布された。普通選挙法とほぼ同時に治安維持法も制定されたことから、飴と鞭の関係にもなぞらえられる。


 当初は、共産主義の浸透を懸念したものであったが、その後の改正などにより、「国体変革」と「私有財産制度の否認」を明確に分離し、共産主義活動以外の体制批判思想・活動も、幅広く「国体変革的思想活動」として取締られるようになる。すなわち、軍国主義的体制が進められるにつれて、宗教団体、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。
 

 普通選挙法で除外された女性参政権は、平塚らいてう市川房枝などにより参政権運動が続けられたが、結局、敗戦後のGHQによる占領下で、やっと1945年(昭和20年)12月に、成人男女による完全普通選挙が行われるのを待つことになる。
 また、治安維持法は敗戦後も運用は継続され、終戦後の1945年9月26日にも、同法違反で服役していた西田幾多郎門下の哲学者の三木清が獄死している。治安維持法もまた、GHQによる人権指令によって廃止されるのを待つことになった。

 

$『人生論ノート』(三木清/1937年)
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/64_jinseiron/index.html
 


*2.27/独 ナチスミュンヘンで再建大会。ヒトラーが釈放後、初めて公衆の前で演説する。
*7.18/独 ヒトラーの獄中の書『わが闘争(マイン・カンプ)』が刊行され、世界支配を説く。
*11.9/独 ナチスが「親衛隊(SS)」を創設。ヒトラー総統崇拝の選り抜き私設軍隊で、レーム率いる「突撃隊(SA)」に対抗させる。
 


 1923年11月、ミュンヘン一揆に失敗し収監されたヒトラーは、その裁判で得意な弁舌をふるい、刑務所では特別の扱いを受けた。獄内では、口述でルドルフ・ヘスらに筆記させ、出獄後『我が闘争 "Mein Kampf"』として刊行する。おそらく、演説するのと同じ調子で筆記させたものと考えられる。

 ヒトラーは、1924年12月に釈放されるが、それまでの間にナチ党は内部抗争によって分裂し、12月の州選挙でも大敗を喫した。翌1925年2月ナチ党は再建され、釈放後初めて公衆の前に姿を現したヒトラーは、大規模集会で演説を行った。この演説で政府批判を行ったため、ヒトラーには2年間の演説禁止処分が下された。


 この間にヒトラーは、ミュンヘンの派閥をまとめ上げ、突撃隊の実力者レームを引退させ、分裂した対抗派閥に居たヨーゼフ・ゲッベルスを取り込むなどして、党内独裁体制を確立してゆく。同時に獄中で執筆した『我が闘争 第一巻』を刊行し、「指導者ヒトラー」の指導者原理をアピールすることに成功した。
 


 この年に刊行された『わが闘争/第一巻』では、自分の生い立ちを振り返り、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述され、全体的には、ヒトラー自身の幼年期から反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。

 翌年に刊行される『第二巻』では、自らの政治手法、群衆心理についての考察など、ヒトラー独自のプロパガンダのノウハウなども記されている。さまざまな分野での自らの政策を提言する中でも、特に顕著なのが人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観が展開される。

 第一巻、第二巻を合わせても、発効時の売り上げは6千部に満たず、ナチ党以外の一般人にはほとんど行き渡っていない。独裁者の自伝や語録によくある例にもれず、ナチ党員のバイブル的な象徴として機能しただけであった。後にナチスが政権を獲ると、全国民に配布される「国民書」となるが、はたしてドイツ人が内容を読んだかは疑わしい。
 


 当時のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが常態であり、各党は独自の実動部隊を持つのが一般的であった。バイエルン州ミュンヘンでのナチスも例外ではなかったが、ドイツ革命で重要な働きをしたフライコール(ドイツ義勇軍民兵組織)などに影響力のあった、エルンスト・レームを中心に組織された「突撃隊(SS)」がその任に当たることになった。

 突撃隊は「ミュンヘン一揆」に至る、ナチ党の伸張に活躍したが、レームの影響下で、党から半独立的な準軍事組織であった。一方で、この年、「総統アドルフ・ヒトラー」を護衛する党内組織として、「親衛隊(SS)」が創設された。突撃隊は、ミュンヘン一揆の失敗後、党に従属する組織として再出発したが、その歴史的経緯から、ヒトラーにとっては、思うままにならない厄介な組織となりつつあった。
 

 1933年、ナチスが政権を奪取すると、ヒトラーに忠実なハインリヒ・ヒムラー率いる親衛隊によって、復権していたレームをはじめとする突撃隊幹部が粛清された(長いナイフの夜)。粛清後の突撃隊は勢力を失い、親衛隊の配下として、以降は国防軍入隊予定者の訓練など主任務とする傍系組織となった。

 一方で、党内警察組織として急速に勢力を拡大していった親衛隊は、当初は「ヒトラーボディガード」に過ぎなかったが、やがてナチスが政権を獲得した1933年以降、警察組織と軍組織との一体化が進められ、保安警察ゲシュタポと刑事警察)、秩序警察、親衛隊情報部、強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織をほぼ傘下に置くとともに、親衛隊特務部隊(武装親衛隊)として、正規軍である国防軍からも独立した、独自の軍事組織として強大な権力を行使した。
 


*12.12/イラン イランのシャー(国王)にリザー・ハーンが即位、「パハレビー王朝」が始まる。
 


 イランは紀元前から、古代オリエント世界に強大な「ペルシャ帝国」を築き栄えた。ペルシャ帝国は、ゾロアスター教をその統治の理念とし、何代か王朝の変遷を経たが、その間、あのアレクサンダー大王と戦ったり、後にはローマ帝国と抗争した。ペルシャ帝国は、オリエントの大帝国として独自の文明を誇り、ローマ帝国イスラム帝国に、政治、文化面で大きな影響を残した。

 7世紀に入ると、ペルシャ帝国最後の王朝サーサーン朝は国力を落し、イスラム帝国(サラセン帝国)によって征服される。以後イスラム教に席巻され、ゾロアスター教は消滅するが、古代以来のペルシャの独自文明を維持し、アラブ圏とは異なった独自イスラム文化圏を形成することになる。

 

 イスラム勢力による征服後、イランでは何代ものイスラム王朝が入れ替わるが、その間、モンゴル人やトルコ人の侵入支配なども受ける。近代になると、イスラム最後の王朝ガージャール朝は、近代化したイギリス、ロシアなど列強の侵食を受け弱体化してゆく。

 イギリスとロシアなど外国からの干渉と内政の混乱の下で、ガージャール朝の専制に対する批判が高まり、憲法の導入などを求めて、イラン立憲革命が始まった。イラン国民は国王に対して議会の開設を求め、国王に議会開設の勅令を発しさせるが、内部対立やロシアによる介入により、立憲革命は失敗に終わる。
 

 第一次世界大戦勃発すると、イギリスは1919年8月9「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に反発したイラン国民は、ガージャール朝打倒を目指し急進的に革命化してゆく。そんな中、1921年2月イラン・コサック軍がクーデターを起こし、実権を握った「レザー・ハーン」は1925年10月にガージャール朝廃絶法案を議会に提出、翌1926年4月には「皇帝レザー・パハラビー(パハラビー1世)」として即位し、「パハラビー朝」が成立した。

 レザー・パハラビーは、イスラムより「イラン民族主義」を重視し、遅れていたイランの近代化を推進する一方、反共政策を強化するとともに独裁化を進めた。第二次大戦中には、枢軸国よりの姿勢を見せたため、連合国による進駐を受け、レザー・パハラビーは退位し、息子の「モハンマド・レザー・パハラビー(パハラビー2世)」に譲位した。
 

 戦後、国民の圧倒的支持を受けてモハンマド・モサッデクが首相に就任すると、英米が支配するイラン石油の国有化を推進したが(石油国有化運動)、英米の秘密諜報活動と、それを受容れたモハンマド・レザー・パハラビーによって失脚させらた。以後、英米の強い支援のもとで、パハラビー2世は権力の集中に成功し、独裁的にイランの近代産業化を推進した。

 英米の利益に沿ったパハラビー2世の急激な産業化政策は、秘密警察サヴァク(SAVAK)による強権政策や、徹底した世俗化(反イスラム)などで国民やイスラム宗教者の反感を買った。そして1979年、ホメイニーらイスラム法学者の指導する「イラン・イスラーム革命」により、パハラビー朝の帝政はたった2代で倒れ、パハラビー2世(日本では「パーレビ国王」と呼ばれた)は亡命する。かくして、近代には特異なイスラム宗教国家「イラン・イスラーム共和国」が誕生した。

 
 

$『イランとイスラム : 文化と伝統を知る』(2010/森茂男編)
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784861102158
 
 

〇この年の出来事

*1.20/日ソ 日・ソが北京で基本条約に調印し、ロシア革命以後、途絶えていた国交回復。

*2.20/米 軽快さ、粋、風刺など、都会的センスが売りものの週刊誌『ニューヨーカー』が創刊さる。 

*8.8/米 秘密結社「クー・クラックス・クランKKK)」がワシントンで第1回全国大会を開催し、20万人が参加。

*8.16/米 チャップリンの『黄金狂時代』がニューヨークで封切られ、大成功をおさめる。

*12.24/ソ エイゼンシュテイン監督の不朽の名作『戦艦ポチョムキン』が、モスクワのボリショイ劇場で初公開される。