【19th Century Chronicle 1863-64年】

【19th Century Chronicle 1863-64年】
 

◎幕末の政変(1863/文久3)

*1863.3.4/京都 将軍家茂が上洛し、二条城に入る。

*1863.4.20/京都 上洛中の将軍家茂は、朝廷に約束した攘夷の実行期日を5月10日と伝える。

*1863.5.10/長門 長州藩は、約束期日を待ち受けて攘夷を実行、馬関海峡(関門海峡)を通過するアメリカ商船を砲撃、さらにフランス船やオランダ船も砲撃した。藩の制止にもかかわらず、久坂玄瑞ら急進攘夷派が強行したが、その後アメリカやフランス艦隊から報復攻撃を受ける。「下関事件」

*1863.7.2/薩摩 薩摩藩がイギリス艦隊7隻と戦う。「薩英戦争」

*1863.8.18/京都 薩摩・会津両藩が宮中の尊攘派排撃を企て、宮中クーデターで尊攘派の公家を京都から排除する。「八月八日の政変」

*1863.8.19/京都 宮中政変で追放された三条実美ら7公卿が長州に下る。「七卿落ち

*1863.12.30/京都 公武合体を推進するため、朝廷は幕臣と有力大名を朝議参与に任じて「参与会議」を実現させようとする。将軍後見職一橋慶喜福井藩松平慶永(春獄)・土佐藩主山内豊重(容堂)・宇和島藩伊達宗城に加えて薩摩藩国父島津久光が参与となる。

 

 攘夷履行の確認として将軍家茂が上洛し、朝廷に攘夷の実行期日を5月10日と伝えた。将軍後見職一橋慶喜は、期日が来てもこちらからは仕掛けないように通達していたが、急進攘夷派が支配する長州では、当日を待ち受けたように下関で外国船に無差別砲撃を加える。しかし、アメリカやフランスの艦隊の報復攻撃で、長州藩は敗北を蒙る。「下関事件」

 

 一方同年7月、薩摩では、生麦事件の補償をめぐって艦隊の力で迫るイギリス軍と、攘夷実行の名目のもとに実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突する。戦闘で鹿児島城下は大きな被害を受けたが、英艦船も大きな損傷を受け、相互に実力を確認することになり、一転して両者が接近する契機となった。「薩英戦争」

 

 京都では各地から尊攘派志士が集結し、天誅と称してテロを繰り返した。朝廷内においても三条実美姉小路公知ら急進攘夷派が実権を握った。また、尊皇攘夷の急進派が集う場となっていた京都学習院でも、そこにに出仕していた尊攘派真木和泉久留米藩士)や久坂玄瑞長州藩士)らが朝廷に影響力を持つようになっていた。このような情勢のもと、孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂・石清水への行幸などが相次ぎ、ついには5月10日を攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂に約束させるに至った。
 


 5月10日、長州藩が下関海峡で攘夷を実行に移すが、他藩はこれに傍観を決め込み、攘夷実行を約束した将軍家茂も江戸に帰ってしまった。この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、朝廷の尊攘急進派は、天皇大和国神武天皇陵・春日大社に詣で、親征の軍議を主宰するという行幸を企図した。

 当の孝明天皇は熱心な攘夷主義者ではあったが、急進派の横暴には不興であり、攘夷の実施は幕府や諸藩が行うものと考えていた。大和行幸の詔は8月13日が発せられるが、これと前後して会津藩薩摩藩公武合体派は、朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策し、8月15日、松平容保京都守護職会津藩主)の了解のもと、中川宮が参内して天皇から密命を得た。
 

 文久3(1963)年8月18日早朝、会津藩兵に加えて薩摩藩兵らが御所九門を封鎖、三条ら尊攘急進派公家に禁足を命じ、国事参政の職を解いた。諸侯の参内をまって開かれた朝議で、大和行幸の延期・尊攘派公家や長州藩毛利敬親らの処罰等を決議した。長州藩は御所警備の任を解かれ京都を追われた。翌19日、長州藩兵千余人とともに、失脚した三条実美らの7公卿は長州へと下った。「八月八日の政変・七卿落ち」。

 

 政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮した。10月には島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永山内豊信公武合体派大名もこれに続き、翌文久4(1964)年1月にかけて島津久光松平慶永山内豊信松平容保一橋慶喜伊達宗城による参預会議が成立した。朝廷内においては鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わった。

 しかし、将軍家茂が再上洛し開かれた参与会議は、元治1(1864)年3月、幕府を代表する将軍後見職一橋慶喜の意向と諸大名の思惑が対立し、もろくも瓦解する。一方で、政変に敗れた長州藩などの尊攘派は、京都で失地回復を狙って暗躍し、京都における政情は混迷を極める。そして、同年6月の池田屋事件をきっかけに、長州の急進派は京都へ攻め上がり、禁門の変(7月)で会津・薩摩らと戦火を交えることとなる。
 
 

◎幕末の政変(1864/元治1年)

*1864.1.15/京都 将軍家茂が再度上洛する。

*1864.3.9/京都 参与会議で一橋慶喜が横浜鎖港と攘夷を主張し、他の参与大名と対立し、参与会議は崩壊する。

*1863.3.13/京都 将軍上洛の警護の命を受けて京に入っていた浪士組だが、率いる清河八郎の方針急変更により、幕府は江戸に呼び戻す。分裂し残留した芹沢鴨近藤勇らは、京都守護職支配下に入り「新撰組」を結成、京都の治安維持にあたることになった。

*1864.6.5/京都 新撰組が、京都三条池田屋尊攘派を襲う。「池田屋騒動」

*1864.7.19/京都 久坂玄瑞らが率いる長州藩兵が、京都御所の蛤御門をはじめ諸門に迫り、幕府軍と交戦する。「禁門(蛤御門)の変」

*1864.7.24/ 幕府は、長州追討の勅命を受けて、西国21藩に出兵を命じる。「第一次長州征伐」

*1864.8.5/長門 英米仏蘭4国連合艦隊17隻が、下関攻撃を開始する。「四国艦隊下関砲撃事件」

*1864.11.11/長門 長州藩が幕府に恭順の意を示し、禁門の変の責任者として3家老に切腹を命じる。

*1864.12.16/長門 高杉晋作が遊撃隊を率いて下関を襲撃し、藩保守派から攘夷派が主導権を奪回する。
 

 前年の「八月十八日の政変」で長州藩や攘夷派公卿が失脚したあと、朝廷では公武合体派が主流となっていた。幕府と諸侯による参与会議が破綻すると、一橋慶喜将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督という朝廷と密接な立場の職に就く。配下に京都守護職松平容保京都所司代松平定敬らを従え、慶喜は京都にあって、水戸藩執行部や鳥取藩主池田慶徳岡山藩池田茂政(いずれも慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。
 

池田屋騒動>


 一方、京の市中では、尊攘派が巻き返しを図り、長州藩をはじめとする各藩脱藩志士などが暗躍して、不穏な空気が流れていた。そんな折、京都守護職配下について市中警備を担った新撰組近藤勇らは、長州藩ほかの尊王派が、御所を襲撃するなどの陰謀を察知した。

 元治1(1864)年6月5日、河原町木屋町を虱潰しに探索していた近藤らは、木屋町三条の池田屋で謀議中の志士集団を発見、凄惨な斬り合いの末、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。翌朝の市中掃討でも20余名が捕縛され、京都の尊攘派宮部鼎蔵ほかの志士を失い大打撃を受けた。この「池田屋騒動」で、新撰組は一躍勇名を馳せた。
 

<禁門(蛤御門)の変>


 一方長州藩では、参与会議崩壊を見て、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が強まっていた。そして6月5日、池田屋事件の一報がもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いた。慎重派の周布政之助高杉晋作久坂玄瑞らは藩論の沈静化に努めるが、進発派三家老らが「藩主の冤罪を帝に訴える」という名分をかかげ、挙兵を決意する。

 元治1(1864)年6月4日、長州にて進発令が発せられると、久坂玄瑞来島又兵衛真木和泉らと諸隊を率いて東上、長州勢は山崎天王山・嵯峨天竜寺・伏見長州屋敷に分かれて陣容を構えた。6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奏上するが拒絶され、長州兵に退去命令が出される。7月17日、男山八幡宮の本営で長州勢により最後の大会議が開かれ、久坂は退去命令に従うべきと主張したが、来島、真木らの強硬論に押されやむなく挙兵する。

 

 元治1(1864)年7月19日、御所の西辺の蛤御門付近で、長州藩兵と御所警護の会津桑名藩兵とが衝突、来島隊は中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると敗退し、来島又兵衛は敗死。真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知るが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし御門を破れず、止むを得ず久坂玄瑞らは、朝廷への嘆願を要請するため鷹司邸に侵入するも、願いはかなえられず自害して果てた。


 帰趨が決した後、長州藩邸付近や堺町御門付近から出火した大火は、「どんどん焼け」と呼ばれ、京都市街を焼き尽くした。生き残った長州勢はめいめいに落ち延び、大阪や播磨方面に撤退した。主戦派であった真木和泉は天王山に立て籠もったが、会津藩新撰組に攻め立てられ、自爆して果てた。
 

<第一次長州征伐>


 御所に向かって発砲した長州藩は朝敵とされ、朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。元治1(1864)年7月24日、それを受けて幕府は、西国21藩に出兵を命じて、「第一次長州征伐」が開始される。征長総督に尾張藩元藩主徳川慶勝が任命され、最終的に西国諸藩など35藩、総勢15万人の征長軍が動員された。

 10月22日、大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。征長軍で重要な戦力を占める薩摩藩からは、西郷隆盛が参謀格で長州側との交渉役を担当することになった。元治1(1864)年11月11日、長州藩は、禁門の変を主導した三家老の切腹と四参謀の斬首によって恭順の意を示し、長州落ちしていた尊攘派の五卿は九州の諸藩の預かりで決着を見た。

 福岡藩の預かりとなった五卿の一人、三条実美は、勅命であれば受け入れるとしたが、正規藩士ではない諸隊及び脱藩浪士らからは騒擾が起きる可能性があると語った。諸隊とは奇兵隊、遊撃隊、八幡隊、御楯隊、南園隊など藩の正規兵と異なる軍隊であり、藩論に関わらず独自の指揮系統を持つ部隊であった。
 

長州藩・元治の内乱>

 長州藩内では禁門の変の前から、正義派(改革派)と俗論党(保守派)の主導権争いが展開されていた。正義派が主導した禁門の変に敗北すると、第一次征長に面して、俗論党の椋梨藤太らが幕府への完全恭順を訴え、正義派の周布政之助を失脚させ、三家老を切腹させて幕府への恭順を示した。奇兵隊はじめ諸隊には解散令が出され、政敵であった周布を自害へと追い込み、正義派を大量に処刑していった。


 萩藩庁は椋梨らの俗論党恭順派が支配したが、正義派に近かった諸隊は、長州征討軍の九州小倉副総督府と萩藩庁の間の防衛として、長府(下関)に陣取っており、武備恭順を主張していた。福岡に退避していた高杉晋作は、急遽下関へ帰還し、即時挙兵を説いたが諸隊は決起しなかった。元治1(1864)年12月16日、長府に集まった高杉と力士隊(総督伊藤博文)、遊撃隊(総督河瀬真孝[石川小五郎])らは功山寺で挙兵する。「元治の内乱」
 

 藩内クーデターの勃発に、萩政庁は諸隊を敵として協力を禁じる布告を出したため、12月18日、静観していた山縣有朋率いる奇兵隊など諸隊も決起する。萩からの討伐軍に対し、山縣の奇兵隊などは秋吉台周辺で激しい戦闘を繰り返す。諸隊は山口へ入り、萩からは討伐軍に対して撤退命令が出されて、元治2(1865)年1月28日までの休戦協定が結ばれた。

 ところが、その後に俗論党(選鋒隊)による暗殺事件などにより、俗論党への排斥運動が高まり、2月14日、諸隊は萩に入り、俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。圧倒的に不利とされた高杉晋作らの正義派は、あらためて藩政の主導権を握った。
 
 

(この時期の出来事)

*1863.5.12/武蔵 伊藤博文井上馨長州藩士5人が、イギリス留学のために横浜から密出国する。

*1863.5.20/京都 尊攘派の公卿姉小路公知が暗殺される。

*1863.6.7/長門 長州藩は、高杉晋作に「奇兵隊」を創設させる。

*1863.8.17/大和 中山忠光天誅組が、大和五条代官所を襲う。(天誅組の乱) 

*1863.9.21/土佐 土佐藩では、武市瑞山ら尊皇派を投獄して「土佐勤皇党」を崩壊させる。

*1864.3.22/江戸 フランスの日本駐在公使として、レオン・ロッシュが着任、幕府側の支援にまわりイギリスと対立する。

*1864.3.27/常陸 水戸藩武田耕雲斎らが、攘夷を唱えて筑波山で挙兵する。(天狗党の乱)

*1864.5.21/摂津 幕府は勝海舟を頭取として、神戸に海軍操練所を設置する。

*1864.7.11/京都 佐久間象山が攘夷派に暗殺される。

*1864.11.10/相模 幕府が、フランス公使ロッシュに横須賀製鉄所やドック建設の援助を求める。

*1864.12.16/越前 水戸天狗党加賀藩に投降し、以後、水戸藩攘夷論は発言力を失う。