【アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1

アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1

 

 1890年、アメリカ合衆国本土のフロンティア消滅が公式に宣言され、インディアン戦争も終わりを告げ、西部開拓の時代も一段落した。ヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を獲得しつつあったので、アメリカも更なるフロンティアを海外へ求め、外に目を向けるようになった。

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 1889年にパン・アメリカ会議が開催されると、これを契機にアメリカはラテンアメリカへの進出を始める。1896年のアメリカ合衆国大統領選挙で、共和党ウィリアム・マッキンリーが勝利を収めると、高関税政策で国内産業を育成し、急速な成長と繁栄の時代を到来させ、国民も自信を強めた。

 

 マッキンリーは大不況からの回復とともに、金本位制を導入して国力を担保すると、スペインに対し、キューバでの専政を批判した。そして1898年、米西戦争が勃発すると、アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、キューバとフィリピンを占領してスペインに圧勝した。

 

 1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバアメリカの占領下に置かれた。さらにマッキンリーは、1898年にハワイ共和国を併合、お膝元のカリブ海や太平洋地域に勢力圏を確保した。マッキンリーは1900年の大統領選で再選を果たしたが、翌1901年に無政府主義者に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが後任となった。

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 アメリカ合衆国は大西洋と太平洋を繋ぐパナマ運河の建設に関心を深めた。1903年セオドア・ルーズベルト大統領は、パナマ運河を建設し支配するために、コロンビアからのパナマの独立を支持した。また、セオドア・ルーズベルトモンロー・ドクトリンに対するその「ルーズベルト命題」を発表し、ラテンアメリカ諸国が近代化と民主主義の推進に無能で不安定な場合には、「良き隣人」として干渉を厭わないと宣言した。

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 カリブ海地域を勢力圏にするために、たびたびこれらの地域に「棍棒外交」と言われる武力干渉をし、また、シーレーンの確保を目的にパナマ運河建設権を買収し、長期間にわたる難工事で多くの犠牲を出しながら完成にこぎつけると、パナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

 

 太平洋の対岸の東アジアでは、西欧列強により中国の分割が進み、新興の日本も日清戦争に勝利して、帝国主義の一員に参加しつつあった。セオドア・ルーズベルトは、清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への参入をはかった。そして1905年には、日露戦争の調停役を買って出て、国際的な立場向上を目指した。

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 またこの時期に、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして巨大資本による独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーなどの巨大財閥が、アメリカ経済を支配するようになった。

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 19世紀後半からヨーロッパでは人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、後発の彼らは都市部で、低所得者としてスラム街を形成した。新移民はカトリック正教会ユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間に軋轢が生じた。

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 また西海岸を中心に、清や日本からの東洋人の移民も多く発生した。彼らは低賃金労働者として、白人の職を奪うことになり、人種差別感情も加わり、彼らに対する排斥運動が起こり、すでに中国人労働者移民排斥法で中国人移民が禁止されていたところに、実質的に日本人移民を禁止する移民法が定められた。

 

 やがて1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、アメリカはヨーロッパの各国に武器や車両を輸出して、空前の経済繁栄を謳歌することになる。