【13th Century Chronicle 1221-40年】

【13th Century Chronicle 1221-40年】

 

承久の乱

*1221.5.15/京都 後鳥羽上皇が、京都守護を討ち、北条義時追討の院宣を下す。(承久の乱

*1221.5.19/ 北条政子(65)が、関東武士に結束を求めて、鼓舞する。

*1221.6.15/京都 執権北条義時の嫡子泰時と弟時房率いる幕府の大軍が入京、後鳥羽上皇院宣を取り消し、鎌倉側に屈服する。

*1221.7.13/隠岐 幕府は後鳥羽上皇隠岐に配流する。

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 承久3(1221)年5月15日、後鳥羽上皇は諸国の兵を集め、京都守護の伊賀光季を討ち、北条義時追討の院宣を下した。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は大いに動揺したが、北条政子御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、義時を中心に鎌倉武士を結集させることに成功したという。

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  鎌倉方では、政子が軍議を裁決して出撃を決定、東海道東山道北陸道の三方から京へ向けて、泰時・時房らの軍勢を派遣した。泰時らは美濃・尾張で京方を打ち破ると、宇治・瀬田の防衛線も打ち破り、一気に京都に乱入した。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り消し、鎌倉方の軍門に屈した。

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 後鳥羽上皇高倉天皇の第四皇子で、平氏滅亡とともに入水した安徳天皇の異母弟に当たる。寿永2(1183)年8月、平氏都落ちの混乱の中で、神器の宝剣の失われたままで、わずか4歳の後鳥羽天皇践祚した。

 譲位して後鳥羽上皇となり、後白河法皇源頼朝も死去したあとは、名実ともに治天の君として院政を仕切った。鎌倉を本拠にした東国政権は、西国への支配は充分に及ばず、いまだ朝廷・院の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。

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 承久1(1219)年1月、3代将軍源実朝が甥の公暁に暗殺された。幕府は新しい将軍として、後鳥羽上皇の皇子を迎えたいと申し出るが、逆に上皇支配下の荘園の地頭を撤廃するよう要望するなどして不調に終わり、朝廷と幕府の緊張はしだいに高まった。承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣を出し、有力御家人を動員させて「承久の乱」を起こすも、幕府の大軍に完敗し隠岐に流される。

 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。以後、朝廷は新たに設置された「六波羅探題」の監視下に置かれ、朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。

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 承久の乱の後、朝廷は幕府に完全に従属することになる。また、上皇はじめ京方に着いた公家・武家の多くの土地が没収され、戦功をあげた御家人に給付したため、多くの御家人が西国に移り住み、幕府の支配が畿内にも定着した。

 この朝廷と武家政権の間で起きた「承久の乱」の結果、東西の二重政権状態は完全に払拭され、鎌倉幕府(=北条得宗家)による武家封建体制が確立されたと言われる。

 

 

◎執権北条泰時御成敗式目

*1224.6.28/ 北条義時が没し(62)、北条政子の差配で義時の嫡子「泰時」と弟「時房」両名を将軍後見とし、事実上の2人執権体制が始まる。

*1224.閏7.3/ 義時の後妻伊賀氏の伊賀光宗らが、一条実雅を将軍に擁立を図るが失敗。

*1225.7.11/ 北条政子(69)没。

*1225.12.21/ 幕府は「評定衆」を定め、裁判・政務を合議評決する評議政治体制を決める。

*1232.8.10/ 第3代執権北条泰時が、「御成敗式目貞永式目)」を制定する。

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 北条泰時は、寿永2(1183)年北条義時の長男として生まれ、13歳で元服する時には源頼朝が烏帽子親となるなど、期待されて育ったようである。父親義時は、他の有力御家人を滅ぼしながら北条氏の政権を確立していったが、泰時は父の意を汲み、それらの戦闘を率先して戦った。

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 承久3(1221)年の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入る。戦後も京に留まり、叔父の北条時房とともに、朝廷の監視・畿内以西の御家人武士の統括など、西国を治める重要拠点の「六波羅探題」を確立した。

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 貞応3(1224)年、父義時が急死すると、伯母である尼御台北条政子の後見のもと、家督を相続し42歳で第3代執権となる。さらに嘉禄1(1225)年6月に有力幕臣大江広元、7月には政子が世を去ると、泰時は独自の方針で政治家としての力を発揮するようになる。

 泰時は、頼朝から政子・義時にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。叔父の時房も執権として複数執権体制をとり、有力御家人代表や幕府中枢官僚などからなる「評定衆」を選んで合議体制を整えた。

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 承久の乱後、幕府の勢力が西国に広がると、新たに地頭として派遣された御家人と従来からの荘園領主らとの法的な揉めごとが増加するようになった。一方で、幕府成立以降、成文法が存在せず、武士の慣習法や先例に基づいて裁判をしてきたが、幕府成立から半世紀近くたって、膨大な先例・法慣習が形成され煩雑化してきた。

 また、集団指導制、合議政治を進めようとする泰時にとって、抽象的指導理念や客観的法制が必要となった。そこで、泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになった。

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 泰時を中心とした評定衆たちが協力して編集を進め、貞永1(1232)年8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。これが、後に「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれる、日本で最初の武家法典となった。

 それまでの律令が中国法、明治以降の各種法律が欧米法を基礎として制定されたものであるのに対し、御成敗式目は日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で重要であり、それもあって、鎌倉幕府滅亡後においても法令としては有効で、室町から江戸時代を通じて、武家法典の指針となった。

 

(この時期の出来事)

*12212.-.-/ この頃、「平家物語」が完成する。

*1224.-.-/ この年、親鸞が「教行信証」を著す。

*1127.-.-/肥後 僧道元が宋より帰国、曹洞宗を伝える。

*1235.5.27/京都 藤原定家が、和歌百首を選ぶ。小倉百人一首の原型か。