【16th Century Chronicle 1521-1540年】

【16th Century Chronicle 1521-1540年】

 

◎下克上と戦国の世

*1521.3.7/和泉 将軍足利義稙(義伊)が、管領細川高国の専横に憤り和泉に走る。

*1521.7.6/ 前将軍義澄の子亀王丸が、播磨守護代浦上村宗に奉じられて入京、12代将軍足利義晴(11)となる。

*1521.9.17/播磨  浦上村宗が、主君の守護赤松義村室津に幽閉し、自刃に追込む。

*1521.11.23/甲斐 駿河守護今川氏親の軍が、甲斐の上条で竹田信虎(27)の軍と戦い敗れる。

*1522.3.-/安芸 大内義興が、尼子経久の属城を攻略する。

*1523.閏3.-/近江 浅井亮政が、主君の京極高清を尾張に追う。

*1523.4.-/中国 大内義興細川高国が、それぞれ明へ使者を派遣するが、両使が中国の寧波で争う(寧波の乱)。

 *1527.2.14/ 将軍足利義稙細川高国は、三好元長らに京都を追われ、近江の坂本へ脱出する。 

 *1528.5.28/ 将軍義稙と細川高国は、前将軍義澄の子義維を奉じる三好元長と和睦をはかるが講和ならず、京都を脱出する。

*1530.1.13/美濃 守護土岐頼芸の執権長井長弘が、西村勘九郎斎藤道三)に殺される。

*1531.2.21/和泉 三好元長が堺に出陣し、細川晴元を支援、細川高国は破れて捕らえられ、自害する。

*1535.12.5/尾張 織田信秀との戦いで守山(名古屋)に出陣中の三河松平清康が、家臣に殺害される(守山崩れ)。 

*1537.2.10/駿河・甲斐 今川義元武田信虎と、甲駿同盟を結ぶ。

*1538.10.7/下総 北条氏網が、小弓御所足利義明と里見義尭を国府台で破る。

 

 下克上とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさすが、こうした傾向は室町期に顕著となり、戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともなった。

 元来、武士団とは主人と家来が強い結びつきで結成された集団とされてきたが、中世の武家社会においては、主君と家臣団は相互に依存協力しあう運命共同体であり、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなかったと考えられる。

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 とりわけ室町幕府は、有力大名の力のバランスの上に足利将軍が担がれたというようなところがあり、将軍の権威は、鎌倉時代のそれより弱かった。それは、各守護大名においても同様であり、家臣団の意向が反映される傾向が強かった。

 一般に「下克上」といえば、家臣が主君を倒して、主君に成り代わるということになるが、このような典型例はむしろ少なく、家臣の有力者の衆議で、問題のある主君を退かせ、一族の有能な人物を新たな主君とするというような、「主君押込」に近い無難な交代も多くみられる。

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 いずれにせよ、室町幕府の末期から戦国と呼ばれる時代には、何らかの形で、主家が代わってしまった大名が圧倒的で、力による交代が基本となったのは確かである。そういう形で、中央政府に任命される守護ではなく、自力で支配権を確立した「戦国大名」が増えて行った。

 かくして、室町時代守護大名のうち、戦国時代を経て安土桃山時代に近世大名として存続しえたのは、上杉家、結城家、京極家、和泉細川家、小笠原家、島津家、佐竹家、宗家の8家に過ぎなかった。

 

 とはいえ、戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議を汲み取っており、戦国期の大名領国制は、戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立していたと考えられる。

 中央政界においては、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の乱)、細川政元による将軍足利義稙(義材)の廃立(明応の政変)、三好長逸らによる将軍足利義輝の殺害(永禄の変)といった例があり、将軍位すら危機にさらされていた。

 

 戦国時代の始まりと終わりには緒論があり明確に規定できないが、1493年の「明応の政変」に始まり、1573年の信長による将軍足利義昭追放までと、仮に措定しておく。

 応仁の乱では、京都を中心に東軍西軍に分かれて戦われたが、守護大名が京に上って戦っている間に、領国の守護代や家臣が国を奪う事が頻発した。また、東軍の細川勝元や西軍の山名宗全が、自軍方の諸大名が領国で領地争いするのも放置したため、戦乱は各地に広がっていった。

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 畿内中央での戦乱が広がりをみせ、全国各地での実力者同士の利害衝突による戦いが、永続的に展開されるようになった。このような地方での継続的な戦闘を可能にした背景には、貨幣経済の浸透と充実による地域経済の発達があった。

 社会構造の急速な変化は、従前の荘園公領制を形骸化させて、モザイク状に細分分布していた荘園にかわって、「惣村」と呼ばれる拡大された新興の自治共同体が、自生発展を続け、武家領主たちの統治単位も、旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの惣村へと移行していった。

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  1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して、幕府の実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)と、これ以降、将軍の権威は形骸化し、中央政権としての幕府の力は失われ、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。

 地方豪族は自ら力を蓄えるか、力ある存在に身を寄せるようになり、地方の戦国大名が強大化していった。北条早雲斎藤道三親子など、旧来の守護大名の出自でない戦国大名も各地に登場し、相互に支配地域を争う戦国の世が展開されていった。

 

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(この時期の出来事)

*1526.4.14/駿河 守護今川氏親が、家法「今川仮名目録」を定める。(分国法のはじめ)

*1526.-.-/ 御伽草子「松姫物語」が完成する。

*1531.閏5.9/加賀 加賀一向一揆が分裂し、抗争がはじまる(享禄の錯乱)。

*1536.7.27/山城 延暦寺宗徒が、日蓮宗寺院を焼く(天文法華の乱)。