【12th Century Chronicle 1181-1200年】

【12th Century Chronicle 1181-1200年】

 

治承・寿永の乱源平合戦

*1180.4.9/京都 以仁王平氏追討の令旨(皇子の命令)を発する。

*1180.5.26/山城 以仁王源頼政らが挙兵、宇治川をはさんで平氏軍勢と戦うも、敗死する。

*1180.8.17/伊豆 源頼朝が伊豆で挙兵する。

*1180.9.7/信濃 源義仲木曽義仲)が信濃で挙兵する。

*1880.10.20/駿河 源頼朝軍が、平維盛軍と戦い勝利する。(富士川の戦い

*1181.閏2.4/ 平清盛(64)没。

*1183.7.28/京都 5月に倶利伽羅峠平氏を破った源義仲が、入京する。

*1184.1.20/近江 源範頼義経軍が京に迫り、源義仲は戦死する。

*1184.2.7/摂津 源範頼義経軍が一ノ谷で平氏を破る。

*1185.2.19/讃岐 源義経が、屋島平氏を破る。(屋島の合戦

*1185.3.24/長門 源義経が、壇ノ浦で平氏を破り、平氏一門は滅亡する。(壇ノ浦の合戦)

 

(頼朝挙兵と義仲の入京)

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 治承4(1180)年4月、源頼政と挙兵した以仁王平氏軍の前に敗死するが、以仁王の下した平氏追討の令旨に、各地の源氏が呼応して立ち上がる。伊豆に流されていた「源頼朝」の下にも、叔父行家(義盛)によって令旨がもたらされ、挙兵を決意した頼朝は坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけ、8月17日に行動を起こす。

 頼朝は坂東一帯の統合を目指すが、その前に「石橋山の戦い」に突入してしまい、敗戦を喫して安房国(房総半島)に逃れることになる。その後、協力の軍勢を順次集め、勢力を回復して、10月6日鎌倉に入る。

 

 坂東一帯を平らげる勢いの頼朝勢は、都から派遣された平維盛率いる追討軍を、10月20日富士川で迎えうち勝利する(富士川の戦い)。その翌日、頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた異母弟の九郎「義経」と対面した。

 一旦鎌倉に戻った頼朝は、後の鎌倉幕府で軍事と警察を担うことになる「侍所」を設け、和田義盛をその別当に補すなど、東国の体制作りに時間を割く。この間、治承4(1180)年末までに、各地の源氏らが次々と挙兵、全国は動乱状態となった。

 

 平家も福原から京都に都を戻して反撃に転じるが、養和元(1181)年閏2月4日、平家を統括してきた平清盛が熱病で世を去った。平家は平重衡を総大将として東国征討に向かうが、頼朝も和田義盛遠江に派遣するなどし、両勢力は膠着状態に陥る。

 

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 一方、源義賢の次男で源頼朝とは従兄弟にあたる「源義仲」が、信濃で挙兵した。治承5(1181)年6月に、越後の勢力を打ち破り、翌 寿永元(1182)年には、以仁王の遺児 北陸宮を擁し、北陸路に勢力を広める。

 寿永2年(1183)年5月11日、越中国礪波山の「倶利伽羅峠の戦い」で、平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、勢い盛んな義仲軍は武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。

 

 7月28日、義仲は入京、後白河法皇の蓮華王院に参上し平氏追討を命じられる。すでに義仲入京の直前、都の防衛を断念した平氏安徳天皇守貞親王を擁して西国へ逃れていた。後白河法皇は危機を察して比叡山に身を隠し、前日に院に復帰したところだった。

 後白河法皇は、高倉上皇の皇子を即位させようとしたが、義仲がこれに異議をはさみ、以仁王の皇子で自らが推戴してきた北陸宮を即位させるよう、申し立てた。これは皇統を無視した無謀な提案で、朝廷側が受け入れるはずもなく、義仲は山奥で育った粗野な人物と見なされる。

 

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 また義仲入京後の京都の治安は、義仲混成軍による略奪行為が横行し混乱しきっていた。京中守護軍は義仲子飼いの部下ではなく、近江源氏美濃源氏摂津源氏などの混成軍であり、義仲に全体の統制が出来る状態になかった。

 後白河法皇は義仲を呼び出し、狼藉停止を命じた。立場の悪化を自覚した義仲は、信用の回復のためにも、すぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇に許される。義仲は腹心を京都に残して播磨国へ下向した。

 

  義仲の出陣と入れ替わるように、朝廷を尊重するような頼朝の申状が届くと、後白河法皇は大いに喜び、頼朝を本位に復して赦免し、寿永2(1183)年10月14日、「寿永の宣旨」を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。

 後白河法皇から上洛要請を受けて、頼朝は弟の源範頼義経の率いる大軍を京に向かわせる。これに意を得た後白河法皇は、義仲放逐のため戦力の増強を図り、法住寺殿の武装化を計った。

 

 急遽、西国から戻った義仲だが、もはや中央に義仲を支持する勢力は少なく、11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する(法住寺合戦)。義仲軍の猛攻の前に院側は大敗し、後白河法皇を捕縛して幽閉する。義仲は傀儡政権を立て、源頼朝追討の院庁下文を発給させて官軍の体裁を整え、自らを征東大将軍に任命させるが、範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。

 寿永3(1184)年1月20日、京を守る義仲軍に対して、瀬田には範頼軍、宇治川には義経軍が迫り、この戦いに敗れる(宇治・瀬田の戦い)。敗れた義仲は落ち延びるが、近江国粟津(現大津市)で討ち死にする(粟津の戦い)。

 

 

源範頼義経の平家追討)

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 義仲に京を追われた平氏は、源氏同士の抗争中に勢力を立て直し、西国を制圧し、摂津の国福原に陣を構えて、京奪回の軍を起こす予定をしていた。後白河法皇平氏が持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出し、源頼朝の命を受けて、平家を討つべく、源氏は「範頼」が大手軍、「義経」が搦手軍を率いて京を出発した。

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 寿永3(1184)年2月7日、搦手軍の義経鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分、義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進、平氏の一ノ谷陣営の裏手に出て、一気に騎馬で断崖絶壁を掛け下り、背後を全く警戒していなかった平氏を蹴散らす。

 

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  一ノ谷の戦闘の様子を見た範頼は、率いる大手軍に総攻撃を命じた。平氏軍は浮き足立って敗走を始め、安徳天皇建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の「平宗盛」は、敗北を悟り四国の屋島へ退却する。

 この戦いで、源氏の範頼軍は平通盛平忠度平経俊平清房平清貞を、義経軍は平敦盛平知章平業盛平盛俊平経正平師盛・平教経をそれぞれ討ち取ったとされ、平氏は致命的な大打撃を受けた。(一ノ谷の戦い

 

 瀬戸内に逃れた平氏は、讃岐国屋島長門国彦島に拠点を置いた。一ノ谷の戦いの後、鎌倉方は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整えるが、伊勢の平氏勢力が「三日平氏の乱」を起こすなど反乱がつづき、後白河法皇から検非違使に任命された義経は都の警備に張り付けられる。

 寿永3(1184)年8月8日、頼朝の命を受け範頼を大将とする平家追討軍が鎌倉から出陣し、平家追討使の官符を得て、9月1日には九州へと赴いた。だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ、進撃が止まってしまった。将兵の間では厭戦気分が広まり、範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。

 

 元暦2(1185)年1月、ようやく範頼は豊後国へ渡り平氏の挟撃を目指すが、兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなった。この状況をみて、義経後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得た。

  2月、義経は摂津・熊野・伊予水軍などを味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。2月18日、暴風雨のために諸将が出航をためらうなか、義経は僅か5艘150騎で出航を強行し、阿波国勝浦に到着した。

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 翌2月19日には讃岐国へ進撃して、屋島に陣取る平氏軍の背後から奇襲をかけると、平氏は敗走し、平氏総大将の平宗盛安徳天皇を奉じて海上へ逃れるが、義経軍に追われ敗走、瀬戸内海を転々とした。(屋島の戦い

 やっとのことで長門国彦島に辿り着いた平氏一門だが、範頼軍が九州の親平氏の軍勢を破り平氏軍の背後を遮断すると、平氏軍は彦島に孤立してしまった。

 

 元暦2(1185)年3月24日、長門国赤間関壇ノ浦の海上で、源平の船団が相戦うことになった。東から攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、正午ちかく、関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。

 潮の流れの激しい関門海峡で、水軍の運用に長けた平氏軍は、巧妙に潮の流れに乗って、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を圧倒した。だが、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍に猛攻撃を仕掛け、平氏軍を壊滅状態に追い込み勝敗は決した。

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 敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。覚悟を決めた二位尼平時子)は、幼い安徳天皇と宝剣を奉じて入水する。平氏一門の武将たちも自刃するか入水して果てるが、総大将の平宗盛安徳天皇生母平徳子建礼門院)は助かり捕虜になる。この戦いで、権勢を誇った平氏一門は滅亡した。(壇ノ浦の戦い

 

 

鎌倉幕府の成立

*1183.10.14/ 後白河法皇が宣旨を出し、東国の事実上の支配権を源頼朝に認める。(寿永の宣旨)

*1184.10.20/相模 源頼朝が鎌倉に公文所問注所を設置、従前の侍所と合わせて政治機構を整える。

*1185.11.29/ 源頼朝後白河法皇に迫り、義経の追補を名目に、全国に惣追捕使(守護)・地頭の設置を認めさせ、事実上の支配権を掌握する。(文治の勅許)

*1190.11.9/京都 源頼朝後鳥羽天皇後白河法皇に謁見し、権大納言・右近衛大将となる。

*1192.7.12/ 源頼朝征夷大将軍となる。

*1199.1.13/ 源頼朝(53)没、頼家が鎌倉殿を継ぐ。

*1199.4.12/ 北条政子が、子頼家の直截ではなく、父北条時政以下13人の御家人による合議制で幕政を行わせる。

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 治承4(1180)年、源頼朝は伊豆で挙兵し、富士川の戦い平維盛軍と戦い勝利すると、坂東を平定し鎌倉へ入り、大倉御所に武家政権としての統治機構を担う「侍所」を設け、和田義盛別当に任じた。

 寿永2(1183)年10月には、後白河法皇は「寿永の宣旨」を下し、源頼朝に東国の事実上の支配権を公認した。

 

 源頼朝は、範頼・義経ら異母兄弟を派遣し、壇ノ浦の戦い平氏を滅ぼしたが、梶原景時の讒言などから義経に対して不信をつのらせ、義経に謀反の疑いありと、ついに追討の令を下す。

 文治1(1185)年11月、頼朝の代官として入京した北条時政は強硬な態度で後白河法皇に迫り、義経らの追捕のためとして、守護・地頭職の設置任免を許可を認める「文治の勅許」を得る。

 そして建久1(1190)年)頼朝は権大納言兼右近衛大将に任じられ、建久3(1192)年、「征夷大将軍」の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。

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 この時期、武家政権を「幕府」と呼ぶ習わしはなく、「幕府」も将軍の陣所、居館を指すだけの概念であり、武家政権を幕府と呼ぶのは江戸時代後半からのことであった。奥州合戦奥州藤原氏を滅ぼし、実質的に全国を支配した源頼朝が、建久3(1192)年に征夷大将軍に任じられ、従来はその時をもって鎌倉幕府の成立とされてきた。

 しかし近年の歴史観から、武士政権としての実質的な政権体制を確立したのは何時かと問い直され、文治1(1185)年、頼朝が後白河法皇から、守護地頭の任命を許可する「文治の勅許」が下されたことをもって、歴史教科書などは鎌倉幕府成立としている。

 

 これらの考え方は、鎌倉幕府の呼称自体を「鎌倉政権」と呼ぶべきという議論を含むわけで、そこには政権体制論の吟味が必要になるが、現在、鎌倉幕府の成立年については、次のように幾つもの説がある。

 頼朝が東国支配権を樹立した治承4(1180)年・事実上、東国の支配権を承認する「寿永の宣旨」が下された寿永2(1193)年・公文所及び問注所を開設した元暦1(1184)元年・守護地頭の任命を許可する「文治の勅許」が下された文治1(1185)年・日本国総守護地頭に任命された建久1(1190)年、征夷大将軍に任命された建久3(1192)年などなど。

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 建久3(1192)年に源頼朝征夷大将軍に任命されるが、その間に着々と政権体制を整えていく。守護地頭の設置などの任命権を得て、諸国の軍事警察権を掌握するとともに、内政面では軍事警察を取り仕切る「侍所」・行政を司るする「公文所(後の政所)」・司法を担当する「問注所」という中央組織を整備していった。

 これらは鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残しており、元来は頼朝の私的政権の組織に過ぎないが、それを朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の直接の支配は主として頼朝傘下の御家人に限られ、朝廷側勢力(権門勢家)の既存支配権を侵害しないことを原則としていた。

 したがって、東に鎌倉殿政権があり、西には旧来の権門勢力が併存するという状態であり、鎌倉政府の勢力が全国に及ぶのは、承久3(1221)年の「承久の乱」で朝廷勢力が一掃されてからだと言われる。

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 鎌倉殿(将軍)と御家人の関係は、従来の武士団の性格から出来上がってきたもので、御恩(本領安堵・土地給与)と奉公(軍役・経済負担)を基軸とする封建的土地制度で強固に結びつき、従来の公地公民制や権門勢家の荘園制と根本的に異なるものだった。

 また、血縁を重視した一門支配に頼った平氏に対して、頼朝は血族より主従の結び付きを優先した。義経や範頼の悲劇は、たんに頼朝の猜疑心に起因するというよりも、このような主従関係の重要視により、兄弟より御家人を優先することが必然であったともいえる。

 

 源頼朝は、建久10(1199)年1月13日に死去(53)する。頼朝の嫡子頼家が18歳で跡を継ぎ、さらに弟の実朝に継がれるが、ともに暗殺などで源氏将軍の系統が立たれ、鎌倉幕府の実権は「執権」の北条氏に移行していく。