【13th Century Chronicle 1241-60年】

【13th Century Chronicle 1241-60年】

 

◎第5代執権北条時頼

*1246.3.23/ 北条経時が病のため、執権職を弟「北条時頼」に譲る。

*1246.5.24/ 名越(北条)光時が、前将軍藤原(九条)頼経などと連携、北条時頼打倒をはかるも、時頼に機先を制され失敗に終わる。(宮騒動

*1246.10.13/ 北条時頼が、西園寺実氏関東申次に推し、九条家は宮中政治での地位を失墜する。

*1247.6.5/ 北条時頼が、三浦泰村とその一族を滅ぼす。(宝治合戦

 *1252.2.20/ 幕府は九条頼嗣将軍を廃し、宗尊親王を将軍に迎えることを、後嵯峨上皇に奏上する。

*1256.11.23/ 北条時頼が、執権を長時に譲り、最明寺で出家する。

*1257.12.24/ 幕府は将軍護衛役の廂衆を置き、将軍監視をも兼ねさせる。

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 仁治3(1242)年、第3代執権 北条泰時が死去すると、早世した息子の時氏・時実に代わって、第4代執権には泰時の孫の「北条経時」が就任した。その経時も寛元4(1246)年、病状が悪化すると、弟の「北条時頼」に執権の座を譲り死去する。

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 時頼は嫡流でなく継承したので、必ずしも安定した立場ではなかった。経時の死を契機に、前将軍 藤原(九条)頼経を始めとした反北条勢力が勢いを増し、北条氏の一族の名越光時が時頼打倒を図るも、未然に阻止される。(宮騒動

 

 翌 宝治1(1247)年には、安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼし(宝治合戦)、続いて千葉秀胤も追討し滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏の御家人は排除され、北条時頼が実権を掌握した。

 建長4(1252)年には、頼経の子で第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放、後嵯峨天皇の皇子 宗尊親王を新たな将軍として擁立した(親王将軍)。

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 執権として北条氏は、支配の正当性を欠いているため、時頼は評定衆の下に「引付衆」を置いて訴訟や政治の公正迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を短縮したりと、御家人への融和政策をこうじている。また、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護するなど、撫民・善政を強調して、その権威維持を図っている。

  康元1(1256)年、嫡子の「時宗」は6歳だったため、時頼は執権職を代理として義兄の北条長時に譲って、引退し出家する。これは嫡子時宗への権力移譲の準備であり、幕府の実権は時頼が握っていた。

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 時頼は南宋の僧侶 蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を建立し、また曹洞宗を開いた道元を鎌倉に招くなど、宗教心に篤く、質素かつ堅実で、御家人や民衆に対して善政を敷いたとされる。弘長3(1263)年、時頼は病状が悪化し死去する。享年37。

 

(この時期の出来事)

*1253.4.28/安房 僧日蓮が、安房清澄寺日蓮宗を開く。

*1253.8.28/ 僧道元(54)没。死まで「正法眼蔵」を書き続ける。

*1253.11.25/ 北条時頼建長寺を建立し、盛大に落慶供養を行う。