【14th Century Chronicle 1341-60年】
【14th Century Chronicle 1341-60年】
◎足利政権内紛と観応の擾乱
*1342.11.11/常陸 高師冬が、南朝方の関東の拠点 関・大宝の両城を落とし、北畠親房は逃れて吉野へ向かう。
*1348.1.5/河内 南朝軍の将帥楠木正行(正成の子)が、四条畷で高師直と戦い敗死する。後村上天皇は吉野を捨てて賀名生に逃れる。
*1348.1.28/大和 高師直が、吉野の行宮を襲い焼き払う。
*1349.閏6.2/ 足利直義と将軍尊氏の執事高師直が、不和となり対立する。
*1349.8.13/ 高師直が足利直義を急襲し、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲する。尊氏は、政務を任せていた直義の任を解くことで、師直と調停をはかる。
*1249.10.22/ 尊氏の子 足利義詮が鎌倉から京へ戻り、直義に代わって政務を執る。その後、直義は出家する。
*1350.10.26/ 足利直義が、兄の将軍足利尊氏と不和となり京都から脱出、両者の対立が決定的となる。(観応の擾乱)
*1351.1.15/ 直義方の軍勢が京に攻め入り、尊氏・義詮の軍と四条河原で戦う。
*1351.2.26/摂津 足利尊氏・高師直の軍勢は、芦屋打出浜で足利直義軍に大敗し、尊氏は高師直・師奏兄弟の出家を条件に和議を結ぶ。しかし直義方の上杉能憲は、京へ護送中の師直・師奏兄弟を殺害する。
*1351.11.15/相模 再び尊氏と対立するようになった直義は、鎌倉に逃れる。翌年初め、尊氏の追討軍に降伏し幽閉される。
*1952.2.26/相模 足利尊氏(48)は、幽閉中の直義(47)を毒殺する。
*1355.1.16/ 直義の養子直冬が南朝方と結び入京、尊氏・義詮軍と激しく戦うも、3月12日敗退し京を去る。
*1356.19/越前 足利直冬方の重鎮斯波高経が、尊氏に帰順し、幕府政治の内部に組み込まれる。
*1358.4.30/ 数年来、戦闘での古傷に侵されていた足利尊氏(54)が没する。12月には、足利義詮が2代将軍に就く。
*1359.2.7/関東 鎌倉公方足利基氏が、京都の将軍義詮の南朝攻撃計画に協力し、関東諸氏に対し動員令を出す。
*1359.12.23/近畿 将軍足利義詮が南朝攻撃のため、京を発ち摂津尼崎に向かう。南朝の後村上天皇は河内に移る。
足利政権の初期には、将軍足利尊氏が軍事指揮権を持ち、足利家執事の高師直がその補佐として実力を行使する一方で、尊氏の弟足利直義が専ら政務(訴訟・公権的な支配関係)を担当するという、二元的な体制をとっていた。
「足利直義」は鎌倉時代の執権政治の制度を継承し、訴訟事を裁定することが多く、結果的に有力御家人や公家寺社など、既存領主の権益を保護する性格を帯びた。これに対し、鎌倉討幕に与した新興武士団の多くは、従来からの権威を軽んじ、自らの武力によって利権を獲ようとする性向があり、「高師直」はこのような新興勢力を統率して南朝方との戦いを遂行していた。
1339(延元4)年に後醍醐天皇が没すると南朝勢力は沈静し、高師直・師泰兄弟の活躍の場が減り、足利直義が仕切る法・裁判による平時政治が際立つことになる。しかし1347(正平2)年になると、楠木正成の子 正行が京都奪還を目指して蜂起し、京はにわかに不穏となる。
直義は細川顕氏・畠山国清を派遣するも敗北を喫し、さらに山名時氏を増援に派遣するも京都に敗走してしまう。代わって起用された高師直・師泰兄弟は、翌1348(正平3)年四條畷の戦いで正行を討ち取り、勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を陥落させる。そのため師直の勢力が増すようになった。
この時期、政務を彼らに委ねて隠居状態だった足利尊氏に対して、1349(貞和5)年6月、直義は、師直に専横悪行ありとして執事職を免じるように尊氏に迫り、師直は執事職を解かれる。ここで足利直義と高師直の対立は極まった。
同8月、師直は師泰とともに逆クーデターを仕掛け、急襲された直義は尊氏の屋敷に逃げ込む。しかし師直方の軍勢は将軍御所を包囲し、尊氏にも圧力を掛けて直義を出家させてしまう。11月に義詮が入京し、12月直義は出家したことで、一旦、内紛は収まるかにみえた。
尊氏の実子だが認知されず、直義の養子になっていた足利直冬は、事件を知って義父 直義のために立ち、九州で地盤を固め始めた。北朝が「貞和」から「観応」に改元した1350(観応)1年11月、西で拡大する直冬の勢力をみて、尊氏は自ら追討のために出陣する。
しかし、この直前10月26日に直義は京都を出奔ししており、河内石川城に入城すると、師直・師泰兄弟討伐を呼びかけて決起する。尊氏は備後から軍を返し、高兄弟も加わり、北朝光厳上皇による直義追討令を出させると、12月に直義は一転してそれまで敵対していた南朝方に降り、対抗姿勢を明確にする(観応の擾乱)。
足利尊氏と直義は、一歳違いの仲の良い同母兄弟で、足利政権でも役割を分掌してうまく進めていたにもかかわらず、一連の流れの中でついに対決することになる。1351(観応2)年1月、直義軍は京都に進撃し、留守を預かっていた足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びた。
2月、尊氏・師直軍は京都を目指すが、播磨光明寺城での光明寺合戦及び摂津打出浜の戦いで、直義軍に相次いで敗北する。直義の優勢を前に、尊氏は直義との和議を図り、師直・師奏兄弟の出家で折り合ったが、事実上は殺害を認めていたらしい。
高兄弟は京への護送中に謀殺され、長年の政敵を排した直義は義詮の補佐として政務に復帰、九州の直冬は九州探題に任じられた。しかし政権内部では直義派と反直義派との対立構造は残されたままで、武将たちは独自の行動を取り、両派の衝突が避けられない状況になっていた。
政権内で尊氏派が勢力を増し、直義派がじり貧となっていくなか、尊氏と義詮が直義を挟撃する事態となり、状況を察した直義は自派の武将を伴い鎌倉へ逃げる。京から直義派を排除したが、直義は関東・北陸・山陰を抑え、西国では直冬が勢力を拡張しため、尊氏は直義と南朝の分断を狙い、南朝に和議を提案する。
1351(観応2)年10月24日、尊氏は南朝に譲歩する形で和睦し、12月には南朝方が神器を回収するなど、実質的には北朝方の南朝側への吸収合一となった。元号も北朝の観応が廃され、南朝の正平6年に統一されたので、これを「正平一統」と呼ぶ。
義詮に具体的な交渉を任せ、尊氏は直義追討のために出陣する。尊氏は直義軍を打ち破り、1352(正平7)年1月には鎌倉に追い込んで降伏させる。直義は浄妙寺に幽閉され、2月26日に急死する。病没とされているが、尊氏による毒殺説がある。
直義の死により観応の擾乱は幕が引かれるが、九州では直義の養子足利直冬が勢力を保っていた。1354(正平9)年5月、直冬は石見から上京を開始し、翌1355(正平10)年1月には南朝と結んで京都を奪還する。しかし義詮軍にに打ち破られ崩壊した直冬勢力は、東寺に拠って戦闘を継続したが、最後には尊氏が自ら率いる軍が東寺に突撃し直冬は撃破され敗走する。
直冬は西国で以後20年以上生き延びたようだが、消息は明確でない。一方、尊氏はこの一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり、1358(正平13)年に戦病死している。なお、正平一統は4ヶ月で崩壊するが、南朝は足利政権の内乱のせいで、後醍醐天皇亡き後も、何度も京都に攻め入るなど勢力を盛り返し、北朝側と一進一退の攻防を繰り返すが、やがて勢力を消耗し、北朝に吸収されてゆく。
(この時期の出来事)
*1341.12.23/ 足利直義は夢窓疎石と協議し、天龍寺建立の費用を捻出するために、宋に天龍寺船の派遣を決める。