【14th Century Chronicle 1321-40年】

【14th Century Chronicle 1321-40年】

 

鎌倉幕府の滅亡

*1324.9.19/京都 後醍醐天皇の討幕計画が発覚、六波羅探題の軍勢により鎮圧される。(正中の変

 *1326.3.13/ 北条高時(24)が病を理由に出家する。後継を巡り内紛が起こり混乱する(嘉暦の騒動)も、高時は遊行にふけり政務をおろそかにするようになる。

*1331..8.24/ 後醍醐天皇の討幕計画が、側近の密告により露顕、後醍醐は神器を奉じて御所を脱出、山城国笠置山において挙兵する。(元弘の乱

*1331.9.11/河内 楠木正成が赤坂城で挙兵する。

*1331.9.29/山城 幕府軍が笠置を攻略、後醍醐天皇を捕らえる。天皇は翌年、隠岐へ配流される。

*1331.10.21/河内 赤坂城が陥落し、楠木正成は脱出する。

*1332.11.-/大和・河内 後醍醐の子 護良親王が吉野で兵を挙げ、呼応して楠木正成千早城で挙兵する。

*1333.4.29/丹波 山陰道を西に向かっていた足利高(尊)氏が、篠村(亀岡)で天皇方に転じ、一期に状況が一変する。

*1333.5.7/京都 足利高氏赤松則村らが六波羅を攻略する。

*1333.5.21/鎌倉 新田義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉に突入、北条高時(31)ら一族は東勝寺で自刃し、鎌倉幕府が滅びる。

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  幕府の朝廷への介入したことによって、持明院統大覚寺統両統迭立となった皇統は、さらに大覚寺統内では、嫡流後二条天皇派と本来中継ぎであった後醍醐天皇派に分かて対立していた。そして、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。

 1318(文保2)年、後醍醐天皇が即位すると、天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした後醍醐天皇の姿勢は、幕府の得宗専制と衝突することとなった。324(正中1)年(1324年)、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈すると、天皇派の土岐頼兼・多治見国長らが討たれ、日野資朝日野俊基など側近公家が処罰された(正中の変)。

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 1331(元弘1)年、再び後醍醐天皇の倒幕計画が発覚し、六波羅探題が軍勢を御所に送り込むと、後醍醐は御所を脱出し、山城国笠置山にこもり挙兵する。さらに後醍醐の皇子 護良親王が吉野で、河内国の悪党 楠木正成が下赤坂城で挙兵した(元弘の変)。

 幕府は足利高氏(尊氏)・新田義貞らの討伐軍を差し向け、9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍の下赤坂城のみが残った。劣勢の楠木正成軍は、奇策を駆使して対抗するが、10月、自ら下赤坂城に火をかけて姿をくらませる(赤坂城の戦い)。

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 後醍醐は幕府に捕らえられ、翌年、隠岐島に配流され、倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統光厳天皇を即位させ、元号を正慶と改めさせる。しかし潜伏して機をうかがっていた楠木正成は、1332(正慶1)年、河内国金剛山千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。

 幕府は大軍を差し向け、先ず正成の悪党仲間の平野将監入道らが守る上赤坂城を攻め落とす。さらに、吉野でも護良親王が敗れる。しかし、楠木正成はわずかな軍勢で千早城に篭城し、奇策奇襲を用いて90日間にわたって大軍を相手に戦い抜いた(千早城の戦い)。

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 播磨国で挙兵した赤松則村は、周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。この状況を見て、1333(元弘3)年閏2月、後醍醐天皇隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。

 幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込んだが、名越高家赤松円心に討たれると、足利高氏は所領のある丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。そして5月7日、足利高氏赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。

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 六波羅陥落の翌日、新田義貞上野国で挙兵し、関東御家人を糾合しながら鎌倉を目指し、小手指原の戦い(埼玉県所沢市)を端緒に、何度もの合戦で危機に会いながら鎌倉に迫る。5月21日、新田義貞の軍勢は、海岸線の隘路稲村ヶ崎を干潮を利用して突破、鎌倉市内になだれ込んだ。

 両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、北条高時はじめ北条氏一族は菩提寺東勝寺に集合し、寺に火を放って自害し果てる(東勝寺合戦)。さらに3日後、九州の鎮西探題も陥落し、鎌倉幕府は完全に消滅した。

 

建武新政から南北朝

*1333.6.5/京都 後醍醐が二条富小路の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。

*1333.9.-/京都 土地関係の訴訟を一元化するため雑訴決断所が設置されるが、従来の土地所有制度に混乱を招く。

*1333.10.20/ 奥州将軍府の設立に向けて北畠顕家が出発する。2か月遅れて、これに対抗するように、足利尊氏の意を受けた弟の直義が鎌倉に向かい、鎌倉将軍府を設立する。

*1334.1.12/ 大内裏造営計画が発表され、巨額の費用が課されると、諸国の武士や農民から反対運動が起きる。

*1334.1.29/ 元弘を建武改元する。

*1334.8.-/京都 京都二条河原に新政権批判の落書が掲げられる。

*1335.6.22/ 建武政権の転覆をはかる陰謀が発覚し、西園寺公宗・日野氏光らが捕縛される。

*1335.7.14/信濃 北条高時の遺児時行が、諏訪頼重らに擁立されて挙兵する。(中先代の乱

*1336.1.11/ 後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏(32)が入京し北畠顕家と激戦、後醍醐天皇は神器とともに東坂本へ避難する。

*1336.5.25/摂津 九州へ敗走していた足利尊氏が、再起し東進して摂津湊川(神戸)で、楠木正成新田義貞と戦い、正成は敗死する。(湊川の戦)

*1336.11.7/京都 足利尊氏が、建武式目17ヶ条を定める。(室町幕府の成立)

*1336.12.21/大和 軟禁されていた後醍醐天皇がひそかに京を脱出、吉野へ入る。(南北朝分裂)

*1338.5.15/和泉 後醍醐天皇の呼びかけに応じて奥羽から西上し、足利軍と戦い続ける北畠顕家(21)が、陣中から後醍醐へ諌言を奏上する。この一週間後、顕家は高師直と戦い敗死する。

*1338.8.11/京都 北朝が、足利尊氏征夷大将軍に任命する。

 *1339.8.16/大和 後醍醐天皇(52)が吉野の行宮で死去する。 

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  1333(元弘3年)6月5日、後醍醐天皇富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇皇位を否定し親政を開始する。6月15日には旧領回復令が発布され、従来の土地所有権などに関しては天皇の裁断が必要とすることと定め、9月には雑訴決断所が設置されるが、土地所有権の許認可などを裁ききれず大混乱を引き起こす。

  1334(元弘4)年正月に恒良親王立太子の儀が行われ、年号が「建武」と定められる(建武新政)。大内裏造営計画が発表され、新紙幣の発行も計画されるなど、矢継ぎ早に新政策が発表されるが、新令により発生した所領問題、訴訟や恩賞請求の殺到、記録所などの新設された機関における権限の衝突などの混乱が起こり始め、新政府の問題点が早くも露呈する。

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 足利高氏後醍醐天皇から「尊」の字を賜り「足利尊氏」と改名し、鎮守府将軍に任ぜられ軍事の中枢を担う。その後、北畠顕家が義良親王後村上天皇)を奉じて陸奥将軍府を設立すると、尊氏の弟足利直義成良親王を奉じて鎌倉将軍府を設置した。

 しかし建武の新政は、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改の政策、貴族・寺社・武士の既得権の侵害、頻発する訴訟の処理不備など、多くの不満が政権批判へとつながり、「二条河原の落書」にみられるようにその無能さを冷笑され、権威を失墜した。

 

  1335(建武2)年6月、西園寺公宗北条泰家らにより政権転覆の陰謀が発覚する。7月には信濃国で、高時の遺児北条時行と叔父の北条泰家が挙兵して鎌倉を占領、鎌倉府の足利直義が追い出される「中先代の乱」が起こる。

 足利尊氏は時行討伐のために征夷大将軍への任命を求めるが、後醍醐天皇に許されず、そのまま尊氏は北条軍の討伐に向かい、時行軍を駆逐する。尊氏は帰京せずに鎌倉に居を据え、独自に恩賞を与えたり領地を収受するなど、後醍醐新政から離反する。

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 後醍醐天皇新田義貞に尊氏追討を命じるが、足利尊氏は新田軍を箱根竹ノ下の戦いで破り入京する。後醍醐天皇側の北畠顕家や義貞らが一旦は足利軍を駆逐するも、足利尊氏は九州で再起して東上、持明院統光厳上皇院宣を得て、1336(建武3)年5月「湊川の戦い(神戸)」において楠木正成らを撃破し、光厳上皇を奉じて京に入った。かくして新政は2年半で瓦解する。

  入京した足利尊氏は、1336(建武3)年8月、光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。11月7日、尊氏は「建武式目17ヶ条」の制定、新たな武家政権の施政方針を示して、実質的な室町幕府の成立となった。尊氏は1338(暦応1)年8月11日に、北朝光明天皇により征夷大将軍に任ぜられる。

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 一方、比叡山に逃れた後醍醐天皇は、足利方に包囲されると比叡山を降り、花山院に幽閉される。機を見て、1336(建武3)年12月に京都を脱出すると、吉野へ逃れて吉野朝廷南朝)を成立させる。ここに、吉野朝廷南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来する。

  南北朝の抗争は、1392(明徳3)年、明徳の和約による南北朝合一まで、約60年間にわたって続くことになる。

 

(この時期の出来事)

*1322.春/奥羽 津軽の安東季長と宗季が家督をめぐって争い、双方に蝦夷勢力が加担し「蝦夷の反乱」の様相を呈する。

*1325.7.18/ 幕府は元に建長寺船を派遣、元との交易が復活する。

*1331.この頃/ 吉田兼好徒然草」が完成する。

*1339.秋/ 北畠親房(顕家の父親)が「神皇正統記」を著す。