【12th Century Chronicle 1141-60年】
【12th Century Chronicle 1141-60年】
◎保元の乱
*1156.7.2/ 崇徳・近衛・後白河の3代28年間に及ぶ院政を行った鳥羽法皇が死去(54)。腹違いの遺児である崇徳上皇と後白河天皇の対立が決定的となる。
*1156.7.11/ 後白河天皇(30)方の平清盛(39)・源義朝(34)が、崇徳上皇・藤原頼長(37)の籠る白河殿を襲い上皇方を破る。(保元の乱)
*1956.7.23/ 崇徳上皇を讃岐へ配流、藤原忠実を幽閉する。
もとより確執のあった「後白河天皇」と「崇徳上皇」の対立が、鳥羽法皇の崩御とともに一気に噴出する。さらに摂関家の内紛で、関白「藤原忠通」は一旦養子にしていた弟「藤原頼長」と対立して後白河天皇側にたち、頼長が崇徳上皇側に付くことになった。
さらに実際の武力をもつ源氏や平氏の武士一族が、それぞれの思惑から後白河天皇側と崇徳上皇側に分かれて付くことで、大きな二大勢力が対立することになった。平氏では「平清盛」が後白河側で叔父の平忠正が崇徳側、源氏では「源義朝」が後白河、父親の源為義が崇徳側につくなどして、叔父と甥、父と子などが相争う形になった。
そもそも後白河天皇が擁立されるときにも、裏で策動したのは「信西(藤原通憲)」ともいわれ、鳥羽法皇が崩御した際にはその葬儀を取り仕切り、駆け付けた崇徳上皇を法王の遺体に対面させなかった。
そして藤原頼長には謀反の罪がかけられ、源義朝の兵が東三条殿に乱入して邸宅を摂取するに至った。このように挑発を仕掛けて、対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込んだ裏には信西の策動があったとされる。
崇徳上皇は危機を察知し、一部側近と共に鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある白河北殿に逃げ込んだ。謀反人の烙印を押された頼長は崇徳を担ぐことを決意し、宇治から上洛して白河北殿に入った。白河北殿の崇徳陣営に結集した武士には源為義・平忠正らがいたが、摂関家の私兵集団に限られており、劣勢は明らかであった。
これに対して後白河陣営も武士を動員する。高松殿には警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政らが続々と召集され、「軍、雲霞の如し(兵範記)」と描かれるほど軍兵で埋め尽くされた。信西・義朝が先制攻撃を主張し、清盛と義朝らは出撃の準備に入った。
保元1(1156)年7月11日未明、清盛軍、義朝軍、義康軍と3手に分かれて東に向かい鴨川を越えた。戦闘は鴨川を間に一進一退の攻防が繰り返され、上皇方は源為朝が強弓で獅子奮迅の活躍を見せた様子などが「保元物語」に記されている。
攻めあぐねた天皇方が新手軍勢を投入するなか、義朝の献策で白河北殿の周囲に火を放つと、白河北殿は火に包まれ上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は白河北殿を脱出して姿を消した。
崇徳上皇が出頭し天皇側の監視下に置かれ、藤原頼長は合戦で重傷を負いやがて死亡する。上皇の出頭に伴って、藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降した。崇徳上皇は讃岐に配流され、二度と京の地を踏むことはなく、無念の想いを抱きながら8年後にこの世を去る。
合戦の勝利を受けたその日のうちに、朝廷は、忠通を藤原氏長者とする宣旨を下し、戦功のあった武士に恩賞を与えた。平清盛は播磨守、源義朝は右馬権頭(後に左馬頭)に補任され、義朝と義康は内昇殿を認められた。
摂関家の氏長者であった藤原忠実は、頼長とともに謀反の張本人とされ、氏長者と所領を子の藤原忠通に譲ることでのみ、かろうじて摂関家の領地は維持されたが、頼長領は没収された。この間、忠実を断罪し摂関家の弱体化を目論む信西と、権益を死守しようとする忠通との間には、激しいせめぎ合いがあったといわれる。
貴族は流罪となり、それぞれの配流先へ下っていったが、武士に対する処罰は厳しく、崇徳上皇派の平忠正や源為義らは一族もろとも斬首された。死刑の復活は信西の裁断によるもので、反論できる者はいなかったとされる。
保元の乱は天皇方の勝利となったが、宮廷の対立が武力によって解決されたことで、武士が政治の表舞台に登場することになった。一方で、貴族を代表する摂関家は、この乱で最大の打撃を蒙った。藤原忠通が氏長者を引き継ぎ、関白の地位は保持したものの、実質的な政治の中枢から外れていった。
一方、乱後に主導権を握ったのは信西であり、保元新制を発布して国政改革に着手し、大内裏の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった。信西の子息もそれぞれ弁官や大国の受領に抜擢されるが、信西一門の急速な台頭は旧来の院近臣や貴族の反感を買い、やがて広範な反信西派が形成されることとなり、平治の乱につながる原因となった。
◎平治の乱
*1559.12.9/ 平清盛の熊野参詣の留守に、藤原信頼(27)・源義朝(37)らが後白河上皇の三条殿を急襲する。(平治の乱)
*1559.12.13/ 藤原信頼と対立していた藤原通憲(信西 54)が、信頼に首を斬られて晒される。
*1559.12.26/ 平清盛が、弟頼盛・子重盛らに藤原信頼・源義朝を討たせる。信頼は六条河原で斬られ、義朝は落ち延びた尾張で殺される。
*1560.3.11/ 源頼朝(14)が伊豆に流される。
平治の乱は、保元の乱のように単純に天皇派・上皇派と2分できるわけでなく、かなり錯綜している。まず、保元の乱に勝利した後白河天皇は、二条天皇に譲位して「後白河上皇」となっていたが、「保元新制」を発令して全国の荘園・公領を統制し、統治の安定を図った。
そしてその国政改革を主導したのは、後白河の側近として後白河を支えた「信西」であった。信西は改革実現のために、身内を重要な地位につけたため、「信西一門」が突出して台頭することになり、それに対する批判勢力も生じてきた。
一方、鳥羽法皇の寵愛を受けた「美福門院(得子)」は、自らの子近衛天皇が早世したため、養子として育てた守仁親王(二条天皇)の即位を要望し、後白河が近衛天皇の急死で中継ぎとして即位したという経緯もあり、信西が美福門院に妥協して「二条天皇」が誕生していた。
そして、二条天皇の下には藤原経宗(二条の伯父)や藤原惟方(二条の乳兄弟)などが集まり、「二条親政派」として後白河院政派との対立するようになった。後白河上皇が頼れるのは信西だけだったが、その信西も鳥羽法皇の元側近だったこともあり、美福門院とも強い繋がりがあった。
そのため後白河は自らの院政を支える独自に近臣を必要とし、武蔵守「藤原信頼」を抜擢する。信頼は急速に出世し院庁の厩別当となり、もともと武蔵の国で強い繋がりがあった「源義朝」は左馬頭であり、両者は強い関係を持った。こうして、信西とは距離を置いた「後白河院政派」は、信頼を中心に形成された。
この時点で、平清盛は信西を支える立場にあったが、慎重に中立を保ち、その間に着々と平氏一門の実力を蓄えていった。かくして、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループが並立する状況が生じた。
この状況で、信西一門の政治主導が突出したため、それに対する反発によって、対立していた二条親政派と後白河院政派も、信西打倒という点で一致、藤原信頼が反信西連合を主導するようになった。
両派ともに無視できない平氏という大勢力を統率する平清盛は、自らの娘を信西の子成憲に嫁がせ、信頼の嫡子信親にも娘を嫁がせるなど、中立的立場にあった。
平治元(1159)年12月9日深夜、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。藤原信頼と源義朝ら武将らの軍勢が院御所三条殿を襲撃し、信頼らは後白河上皇の身柄を確保すると、三条殿に火をかけた。
信西一門はすでに逃亡していたが、信頼らは後白河内上皇を二条天皇の居る一本御書所に軟禁した。翌10日には、信西の一族が次々と捕縛され、信西は山城国田原に逃れ土中に隠れたところを発見され自害、その首は京の大路に晒された。
信西一門を一掃して政権を掌握した信頼は、早速に臨時除目を行い、源義朝を播磨守に任じるなど論功行賞を行った。信西追討には協力した二条親政派だったが、政権奪取後の信頼の独断専行に反発して離反の機会をうかがうようになった。
急ぎ紀伊から帰京した清盛は、状況を見ながら軍勢を固めていた。二条親政派は清盛に通じて、秘かに二条天皇の六波羅行幸を口実にした脱出計画を練る。この計画を聞いた後白河内上皇はすみやかに仁和寺に脱出、二条天皇が内裏を出て清盛の邸である六波羅へと移動すると、諸公卿から摂関家の忠通・基実父子まで参入し、清盛は一気に官軍としての体裁を整えるに至り、信頼・義朝の追討宣旨が下された。
一方、義朝はクーデターのため少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。保元の乱では公的な動員だったが、今回はクーデターのための隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だった。
12月26日早朝、天皇・上皇の脱出を知った後白河院政派は激しく動揺する。清盛は内裏が戦場となるのを防ぐために、六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、御所の信頼・義朝軍を挑発したあとすぐに六波羅へ退却した。清盛の予定通り戦場は六波羅近辺へと移り、義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが、六条河原であえなく敗退する。
逃れた藤原信頼らは仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭したが、信西殺害・三条殿襲撃の首謀者として処刑された。落ち延びた義朝は東国への脱出を図るが、尾張国で殺害され、義朝の首は京都で獄門に晒された。かくして、後白河院政派は事実上壊滅することになる。
当初、信西に対する藤原信頼の政務奪取クーデターであったものが、結果、信西一門と共に、信西打倒に関わった後白河派や二条天皇派の有力廷臣が共倒れになったため、両者の対立は小康状態となる。
平清盛は、院と天皇と双方が並び立つように慎重に行動し、その間に自らと平氏一門が院および御所での重要な位置を占めることで、朝廷における武家の地位を確立していった。永暦元(1160)年6月に平清盛正三位、8月には参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就き、事実上の平氏政権を形成していった。
(この時期の出来事)
*1145.4.18/ 藤原忠実が、次男頼長に摂関家に伝わる律令格式などを譲り、長男の摂政忠通を差しおいて摂関家後継に認める。
*1447.6.15/ 祇園社の臨時祭で、平忠盛・清盛の従者が祇園社神官と争う。延暦寺僧徒が忠盛父子の流罪を強訴するも、清盛に軽微な刑(贖銅30斤)のみが課せられる。
*1150.9.26/ 藤原忠実が、氏長者であった長子忠通と縁を切り、頼長を氏長者とする。
*1152.5.18/京都 京中の民家が、大物忌と称して門戸を閉じ、青木香をかけて疫鬼を祓うとした。これは役人への抵抗を示したものとされる。
*1154.4.-/京都 人々が笛や鼓を打ち鳴らして紫野今宮社へ詣で、疫病を祓う「夜須礼(やすらい)」とするが、これを政治への抵抗とした朝廷が禁止する。
*1154.11.26/ 鎮西八郎「源為朝」が大宰府で乱行したため、父親の源為義が官職を解かれる。
*1155.8.16/武蔵 源義朝の長子義平が叔父義賢を殺し、源氏の内紛が深まる。