【18th Century Chronicle 1731-35年】

【18th Century Chronicle 1731-35年】
 

尾張藩徳川宗春と将軍吉宗

*1731.3.-/ 尾張藩徳川宗春が「温知政要」を著す。

*1731.9.-/尾張 尾張の新藩主徳川宗春は、自身の考えに基づき開放政策を推進。遊里を解禁し、芝居や祭礼の制限も取り払うなどの政策で、尾張だけが活況を呈する。

*1732.5.25/尾張 幕府が尾張藩徳川宗春を、倹約令違反により譴責する。

*1732.-.-/尾張 尾張藩徳川宗春の「温知政要」の内容に、将軍吉宗が激怒し絶版とする。
 


 徳川宗春は、尾張藩第3代藩主徳川綱誠の20男として生まれ、本来は跡継ぎになる順位ではなかったが、綱誠を継いだ兄たちが次々と亡くなり、享保15(1730)年11月、ついに尾張徳川家宗家を相続、尾張藩第7代藩主徳川通春となるとともに、翌年には将軍吉宗より偏諱を授かり「徳川宗春」を名乗ることになった。

 尾張藩主となった宗春は、さっそく規制を大幅に緩める藩政を展開した。芝居の興行を奨励、遊郭の営業を認可、芝居や祭りの規制も大幅になくした。また、名古屋城下御下屋敷(藩主の隠居所)を建て直し、火事で焼失した江戸上屋敷の新築再建したが、その折には一般庶民にまで開放して、ど派手なお披露目をした。
 

 宗春は、巡視などで庶民の目に触れる場では、朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たりと、民衆が喜ぶ奇抜な工夫で臨んだ。このような奔放でネアカな藩主の振る舞いは、開放的な規制緩和政策という自由経済政策に裏付けられており、尾張の商人・庶民たちに受け入れられ、名古屋の町は大いに賑わった。

 その繁栄ぶりは「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われ、それまで江戸・京都・大坂の三都に比べて、大きな田舎町に過ぎなかった名古屋が、のちの大都市として発展する基礎となった。
 


 享保16(1731)年、宗春は自身の政治理念をまとめた「温知政要」を著し、将軍吉宗に献上するとともに、尾張藩士にも配布して方針を示した。その中での「行き過ぎた倹約はかえって庶民を苦しめる結果になる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」などの主張は、将軍吉宗が「享保の改革」で推進する質素倹約・緊縮経済策と真っ向から対立するものであった。

 江戸上屋敷市谷邸が新築再建での派手な披露は、将軍吉宗から使者を介して詰問されたといわれる。そして、吉宗が進める享保の改革を真っ向から批判する「温知政要」には、さすがの吉宗も堪忍袋の緒が切れたのか、これを絶版とした。しかし、吉宗は12歳年下の宗春には、自身の「宗」の字を与えるなど、かなり可愛がっていた側面もある。

 

 家継で秀忠以来の徳川宗家が途絶えたあと、御三家筆頭の尾張家から将軍を選ぶところ、諸事情から第二の紀伊家藩主吉宗が将軍に昇進した。本来傍系だった吉宗には、御三家筆頭の尾張家への遠慮もあったと思われる。さらに、吉宗も宗春も、元来トップになる立ち位置でなかったところが、偶然の結果、将軍や尾張藩主となったという境遇も似ていた。

 宗春も、吉宗の政策に反抗する意図はなく、尾張藩で自身の政策理念を展開したに過ぎない。しかし、享保の改革の後半の実務を担当した老中松平乗邑など幕閣の間には、宗春に対する批判が強く、さらに朝廷との関係が良好な宗春に疑義を抱く勢力もあった。一方で、消費拡大によって尾張藩の財政は赤字に転じ、藩の重臣にも宗春に批判的な者が多くなった。

 

 そのような状況で、宗春が参勤交代で江戸滞在中に、国元の反宗春の藩重臣たちは、老中松平乗邑と密かに連携し、宗春の命令をすべて無効とするクーデターを起こし、元文4(1739)年、幕府の将軍吉宗と松平乗邑から隠居謹慎命令を出される。宗春は隠居謹慎後、幽閉された名古屋城の中で趣味生活を送り、明和元(1764)年10月に死去するまで、藩政の表に戻ることはなかった。享年69(満67歳)。
 
 

(この時期の出来事)

*1731.7.10/大坂 幕府は米価引き上げのため、江戸の米商人高間伝兵衛に、大阪での米買い占めを指示する。

*1731.8.13/江戸・大坂 幕府は、米価低落対策に、諸国からの廻米を制限する。

*1732.-.-/西日本 ウンカ(体長5mm程度の稲の害虫)の大群による虫害で、西日本一帯に甚大な被害をおよぼし、大飢饉となる。(享保の飢饉)

*1733.1.25/江戸 西日本でのウンカ凶作で、米価高騰は江戸にも及び、江戸町人たちが米問屋高間伝兵衛宅を襲撃する。これは江戸で最初の打ち毀しであった。

*1733.夏/西日本 近畿以西に疫病が流行し、多数の死者が出る。

*1734.7.-/ 幕府が、幕府領に大庄屋制を復活する。

*1734.秋/江戸 大岡忠相のはからいで薩摩芋御用係となった青木昆陽が、九州でしか栽培されていなかった甘藷(薩摩芋)を、江戸小石川薬園で試作に成功。飢饉対策として全国での普及をすすめる。

*1734.2.-/ 薩摩芋の栽培法を記した青木昆陽の「番藷考」が刊行される。

*1735.10.4/江戸・大坂 幕府が米価の最低価格を公定する。

*1735.12.-/江戸 江戸市中に疱瘡(天然痘)が流行する。