【18th Century Chronicle 1756-60年】

【18th Century Chronicle 1756-60年】
 

◎郡上藩宝暦騒動

*1754.8.10/美濃 美濃郡上藩の農民が、検見取りによる年貢増徴に反対し強訴。以降1758年まで、藩との抗争が続く。

*1758.2.24/美濃 郡上藩領の農民が再び一揆を起こす。

*1758.10.28/ 幕府は、郡上一揆に関連した勘定奉行らを改易、前老中らを処罰する。

*1758.12.25/美濃 郡上藩主金森頼錦が、苛政の罪で改易となる。
 


 郡上藩(ぐじょうはん)では延宝年間にも一揆が発生したが、郡上一揆は一般的にこの宝暦期の一揆を指す。財政難に苦しむ郡上藩は、それまでの定免法から検見法に変える年貢徴収法を農民に言い渡した。これは実質増税になるとして、宝暦4(1754)年8月、集結した大勢の農民たちは、藩側に検見法断念など負担免除を願う願書を差し出すという強訴に及んだ。
 

 美濃国郡上藩は、飛騨高地南側の山間に広がる土地で、水田米作に困難な土地も多く、粟・稗・大豆・蕎麦などの畑作が多くを占めるなど、決して豊かな地ではなかった。


 その郡上藩の歴代藩主は、江戸幕府開設以後、転封などで遠藤氏・井上氏・金森氏と移り変わっており、しかも金森氏自体が、それまで二度の転封を経て郡上藩主となっていた。この転封などで金森家の財政は逼迫しており、第2代郡上藩主「金森頼錦」の代の時、ついに苛酷な年貢増徴に耐えかねた農民が起こした百姓一揆は、宝暦4(1754)年から4年の長きにわたって続けられた。(宝暦郡上一揆
 

 第2代藩主金森頼錦は、元文元(1736)年、祖父で初代藩主頼時の死去により、23歳で家督を継いだ。頼錦は自ら絵筆を取り、歌集・漢詩集の編纂を行い、詩歌・書画をたしなむ文化人側面を持ち、学問好きの時の将軍吉宗に可愛がられるなどして、延享4(1748)年には奏者番に任じられるなど、幕府内の出世コースに乗った。

 生来の文人肌で派手好みの上に、将軍のそばで多くの大名旗本らと接する奏者番は、職務上諸大名らとの広い交際を必要とし、また社交も派手になるため多くの費用が必要となる。そこで農民に負担を課す、苛酷な年貢徴収を家臣にさせるようになった。
 

 当時、綱吉時代以来の放漫財政で幕府財政は逼迫しており、徳川吉宗による享保の改革も、質素倹約の推進とともに、新田開発による耕地面積の拡大と検見法などによる年貢増徴策が基本であった。

 同様に財政難に陥った諸藩も、幕府にならって苛酷な年貢増徴策を課して、厳しい年貢取り立てを行った。そのため一揆が頻発し、しかも一揆そのものの形態も、藩全体の農民が蜂起する全藩一揆と呼ばれる大規模な一揆となり、郡上一揆もこうした全藩一揆のひとつであった。
 

 厳しい財政事情の改善策として、藩主頼錦は藩士の俸禄の切り下げなど経費節減策を行う一方、やはり増税策を導入せざるを得ず、臨時の賦課にあたる御用金の徴収であったり、様々なものに税をかけるなどで課税強化していた。それでも財政は改善を見せず、いよいよ本来の年貢増徴策をこうじることになった。

 藩主頼錦は側近の家老などに、前藩主金森頼時によって定免法とされた年貢取立てを、見取免(検見取)にして年貢の増徴を図ることを命じた。それまで様々な課税や賦役に耐えてきた農民たちも、年貢そのものが強化されるのに承服できず、強訴に打って出た。
 

 強訴に対して、当初、農民の剣幕に恐れをなし、国元家老らは願書を受け入れ検見法への年貢徴収法改正を断念する旨の返書を出した。農民たちの強訴が比較的すんなり受け入れられたのには、郡上藩内での路線対立が背景にあったものとされている。

 ところが郡上藩内の年貢増徴派は、検見法採用を目指して巻き返し工作を開始する。幕命として、美濃郡代の代官から検見法採用を申し渡すことを考えつき、金森頼錦は自らの奏者番という地位や、幕府寺社奉行本多忠央との姻戚関係などを通じ圧力をかけ、渋る美濃郡代官青木次郎九郎を動かした。
  

 宝暦5(1755)年7月、郡上郡内各村の庄屋・組頭が郡上藩側から呼び出され、代官の青木から、検見法の採用は幕府の意向でもあると伝えられ、庄屋らはやむを得ず印形をした。

 宝暦5(1755)年8月、山間の白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まり盟約を結び傘連判状を作成した。更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた。農民代表らは、まず江戸の藩主への直訴を決定した。しかし訴状は無視され、逆に藩側からの弾圧が強化された。
 

 宝暦5(1755)年11月には、老中酒井忠寄への直接の駕籠訴を行い、ようやく訴状が受理され吟味が開始されたが、審理は停止状態となり、駕籠訴から2年あまりが経過しても判決はなされなかった。一揆勢は2度の追訴を行ったが訴状は受理されず、一揆側と藩側は一進一退で二年が経過した。


 そんな中で、宝暦8(1758)年2月24日、一揆のリーダーの一人歩岐島村四郎左衛門宅が、藩の指示を受けた者たちに襲われたのをきっかけに、歩岐島騒動と呼ばれる郡上一揆で最大の衝突が起こり、一揆側は態度を硬化させた。
 

 江戸に滞在していた郡上一揆勢は、もはや直接将軍の眼に入る箱訴しかないと考え、宝暦8(1758)年4月、目安箱に訴状を投函する箱訴を決行した。箱訴の決行は江戸に潜伏中の切立村喜四郎、前谷村定次郎が中心となって進められたと考えられるが、両名とも公式には村預けの処分中であったため訴人に名を連ねることはなかった。

 

 箱訴は、やっと二度目で訴状が受理され吟味が行われることになった。箱訴の吟味にからんで、将軍直属の御庭番などから、幕府要人が一揆に関与しているとの情報が将軍家重の耳に入り、以降、幕府が直接介入することになったため、事態は急激に解決に向った。

 宝暦8(1758)年10月29日、元老中本多正珍以下、幕府役人に対しての判決言い渡しが行われた。本多正珍は逼塞処分、元若年寄本多忠央は改易、大目付曲淵英元は閉門、勘定奉行大橋親義は改易、美濃郡代青木次郎九郎逼塞などの処分が下された。
 

 百姓一揆に関連して老中・若年寄大目付勘定奉行といった幕府高官が大量処分されたのは、郡上一揆以外に他の例は無い。また郡上一揆の裁判によって、幕府内での年貢増徴派が勢力を失い、一連の対処を事実上仕切った御用取次田沼意次に代表される積極経済派が主導権を握るようになった。

 郡上藩主金森頼錦は、郡上藩統治の不手際を断罪され、改易のうえ幽閉、金森家は断絶となった。一方で、一揆側にも喧嘩両成敗的な厳しい詮議となり、駕籠訴人切立村喜四郎を始め農民多くが病死・牢死した。宝暦8(1758)年12月、判決が言い渡され、一揆勢の頭取と判断された切立村喜四郎、前谷村定次郎、歩岐島村四郎左衛門ら4名が獄門、駕籠訴人らの10名が死罪、その他遠島1名、重追放6名、所払い33名など、一揆勢は大量処分を受けた。
 
 

◎講釈師馬場文耕の幕政批判

*1758.12.25/江戸 講談師で戯作者馬場文耕が、郡上騒動を語って獄門に処せられる。
 

(江戸町民の反応と講釈師馬場文耕の獄門)[Wikipediaより引用]
 
 郡上一揆の裁判が進む中、老中を筆頭とする幕府高官が処罰を受けるのを見た江戸町民は事件に関する関心を高めた。事件は「金森騒動」と言われるようになり、失脚した幕府高官や金森家を痛烈にあてこすった川柳、狂歌などが数多く作られた。

また講釈師馬場文耕は幕府評定所で進められていた裁判の情報を入手し、金森家による郡上藩の乱脈極まる支配の様子や、金森家と幕府高官との癒着についての情報を集め、講談としてまとめた。馬場は講談を執筆するに当たり郡上一揆関係者の農民からも取材したと考えられている。
 

 馬場文耕はもともと主に明君徳川吉宗を顕彰する講談を発表してきた講談師であり、鋭い社会批判や政治批判を題材としていたわけではない。しかし宝暦8年(1758年)頃から社会や政治批判を明確にした講談を行うようになっていた。そのような中で馬場は江戸で話題となった金森騒動を題材とした講談を執筆し、発表した。

 この当時、百姓一揆を題材とした講談や本がしばしば発表されていた。内容的には太平記などの軍記物語からの引用、比喩を基本として、例えば高師直をモデルとした悪役(悪代官など)を、楠木正成をモデルとした正義の味方が懲らしめるという内容であり、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといった筋書きであった。
 

 馬場文耕は宝暦8年9月10日(1758年10月11日)から「武徳太平記、珍説もりの雫」と題した、評定所での郡上藩関連の吟味についての講談を行った。宝暦8年9月16日(1758年10月17日)、200名あまりの聴衆で超満員の中、講談を終えた馬場は南町奉行所の同心に捕縛された。馬場は吟味中も政治批判の手を緩めることは無く、評定所での金森家関連の裁判について幕府批判を続けた。

 幕閣中枢にまで処分が及ぶことになった郡上一揆の裁判を主題とした講談は幕府支配の綻びを指摘する行為と取られ、馬場文耕の講談は弾圧の対象となったが、罪状としては遠島相当であった。しかし取調べ中も政治批判を続けたことが問題視され、宝暦8年12月29日(1759年1月27日)、馬場文耕は市中引き回しの上打首、獄門とされた。また講釈会場の家主など関係者も軽追放、所払いなどの判決を受けた。
 

 もともと市井で徳川吉宗の善政を題材としてきた講談師馬場文耕が、幕閣中枢まで処罰が及んだ郡上一揆の裁判を題材とした講談を発表し、逮捕されて取調べ中も幕府政治批判を繰り返し獄門に処せられた事実は、当時しばしば発表されていた一揆を題材とした講談や本における、農民を苦しめる悪代官や悪臣が明君によって放逐され、秩序が回復するといったストーリーでは括りきれないものを示している。これは郡上一揆が発生した宝暦期、これまでの秩序の綻びが見え始め、政治秩序の行き詰まりが明らかとなってきたことの現れと評価できる。
 
 

(この時期の出来事)

*1756.4.27/加賀 加賀藩は、偽の藩札の使用者を死刑。さらには銀札の通用も停止する事態に。

*1756.11.16/阿波 阿波徳島藩で「五社騒動」が起こる。藍の統制に農民が反発し一揆を企てる。

*1757.8.5/ 勘定奉行中山時庸が、大坂町奉行時代の不正で免職閉門、大坂町奉行2人も、開墾用地の税金横領で罷免される。

*1757.8.25/江戸 柄井川柳が「万句合」を始める。

*1757.8.-/信濃 松代藩の家老恩田木工が勝手方を兼任し、藩政改革に着手。水害の被害から起こった「田村騒動」などの処理などに成果を上げ、のちに纏められた「日暮硯」は難局打開のバイブルとなる。

*1758.7.22/京都 京都所司代は、公家へ尊王論を講義していた竹内式部を捕らえる。(宝暦事件

*1758.9.3/江戸 田沼意次が加増され1万石の大名となり、評定所への出入りを許される。

*1759.5.8/京都 宝暦事件竹内式部が重追放に処せられる。

*1759.8.8/ 幕府は幣制改革にそなえて、諸国に新規の銀札発行や、金札・銭札の発行を禁止する。

*1760.2.5/江戸 早朝に赤坂から出火し品川まで延焼、連日の火災が続く。この大火により、職人の手間賃や諸物価が高騰し、幕府は2度にわたって引き下げを命じるも、効果は薄かった。

*1760.9.2/江戸 徳川家治が第10代将軍に就任する。以後、田沼意次が重用される。