【18th Century Chronicle 1736-40年】

【18th Century Chronicle 1736-40年】
 

大岡越前守忠相

*1736.8.12/江戸 幕府は、江戸町奉行大岡忠相寺社奉行とする。
 


 大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗享保の改革町奉行として支え、江戸の市中行政に携わり、関東一円の行政改革に尽力した。忠相は、旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれ、同族の大岡忠真の養子となって家督を継ぎ、大岡忠世家の当主となる。

 5代将軍綱吉時代に、書院番を手始めに幕府官僚として順調に出世し、宝永5(1708)年には目付に就任する。やがて、遠国奉行のひとつ山田奉行(伊勢奉行)に就任すると、公正な行政を展開し、隣国の紀州藩主であった徳川吉宗にもその評判が伝わったという。
 


 徳川吉宗が第8第将軍に就き、享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手すると、享保2(1717)年、大岡忠相江戸町奉行南町奉行)として取り立てられ、江戸の都市行政や司法に携わった。

 忠相が取り組んだ政策を具体的に挙げてみると、
1.町火消や火除地の設置など、江戸防火体制の確立
2.小石川養生所の設置による救貧対策と医療福祉の充実
3.米価の引き上げと諸物価の引き下げ、大坂堂島の米市場の開設など経済統制と物価対策
4.金銀相場への介入と貨幣改鋳などの通貨政策
5.地方御用掛として新田開発と地方巧者の登用をはじめとする関東農政の充実
など、多岐にわたる。

 

 元文元(1736)年、忠相は寺社奉行となり、仮完成していた「公事方御定書」の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理や旧徳川家領の古文書を収集整理する。寺社奉行は、町奉行勘定奉行よりも上位職であり、本来は大名の役職とされていた。そのため旗本身分であった忠相は、江戸城内における処遇などで苦労があったようで、やっと数年後、気付いた吉宗により足高制や加増を受け、1万石の領地を所有する大名となった。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみであった。

 

 後世には、講談や歌舞伎などの「大岡政談」として、大岡越前守の「大岡裁き」が庶民に親しまれた。大岡裁きには「三方一両損」「縛られ地蔵」「天一坊」「白子屋お熊」など有名なものが多いが、それらの多くは後年の創作とされる。ただし、江戸市政に取り組んだ大岡忠相の公正な姿勢が、庶民の期待に反映されて、多くの名裁きの物語となったのであろうと思われる。

 有能な行政官僚として、徳川吉宗享保の改革の一端を担った大岡忠相は、寛延4(1751)年6月、大御所となっていた吉宗が死去すると、吉宗葬儀の諸事を手配しているが、そのころから体調をくずし、同年12月、吉宗に殉じるかのように死去、享年75。

 

「しばられ地蔵尊」 http://shibararejizo.or.jp/shibararejizo.htm 
 
 

(この時期の出来事)

*1736.5.12/ 幕府が金銀貨を改鋳し、質を下げて米価上昇を図る。(元文金銀)

*1736.11.1/陸奥 仙台藩が明倫館の前身となる学問所を創設する。

*1737.5.8/江戸 家主・五人組に相談なしの訴訟禁止。紛争は当事者間で解決を促す。

*1737.6.1/江戸 勘定奉行吟味役神尾春央を勘定奉行、老中松平乗邑を勝手掛老中に任じ、綱紀の享保の改革を推進する体制を整える。年貢の税収をはかり、幕府の財政再建を目指す。

*1738.4.-/山城 宇治の永谷宗円が、煎茶の製法を改良し、江戸で煎茶を売り出す。

*1738.10.19/京都 将軍吉宗は、公卿に文学奨励・和歌勅撰を要請する。公家は文の道に専念し、幕政に口をはさむなと言うことか。

*1738.11.19/京都 桜町天皇は、51年間途絶えていた大嘗祭を復活させ、将軍吉宗も後援する。朝廷と幕府の職務分掌の徹底に寄与。

*1739.1.12/江戸 幕府は尾張藩徳川宗春に蟄居を命じる。

*1739.2.3/上野 京都西陣の高機技術が桐生に伝えられ、絹糸の産地桐生でも高級絹織物の生産が可能となる。

*1739.7.-/京都 石田梅岩は、石門心学を説く「都鄙問答」を刊行する。

*1740.3.19/大坂 大坂町奉行稲垣種信が収賄により罷免・閉門となり、豪商辰巳屋の乗っ取りをはかった贈賄側の木津屋吉兵衛が遠島となる。これは「辰巳屋騒動」として、のちに芝居などでも取り上げられる。

*1740.9.-/江戸 復古神道を唱導した荷田春満の養子荷田在満が著した「大嘗会便蒙」が絶版・回収とされ、在満は閉門に処せられる。

*1740.11.24/京都 桜町天皇が、280年ぶりに新嘗祭を挙行する。