【お江戸の経済政策】

【お江戸の経済政策】

 

 経済は難しいので正面からは語れないが、半世紀前の学生時代には、なぜか江戸時代の経済史を研究する教官のゼミだったのだ(笑)

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 将軍綱吉・荻原重秀の拡大路線から、白石から吉宗の緊縮財政、さらに田沼の拡大、松平定信の緊縮引き締め、続く家斉大御所の弛緩財政と、交互に続いた。拡大か緊縮かは、時の経済情勢に対応して行うというのが、現在の財政・金融政策の常識だが、当時はケインズ理論マクロ経済学も無いどころか、産業経済社会も成立していなかった。

 経済指標も揃っていない時代に、何を目安にしたかと言うと、やはり「米」であり、米本位制などともいわれる。戦国が終わって間もない江戸時代の前半では、吉宗の頃あたりまで、米産出量と人口がそろって伸びていた。米本位制の江戸の世の中では、この二つがバランスとって上昇している間はなんとかなる。そして、それが頭打ちになるとその矛盾が表面化してくる。

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 江戸のような大都市に、非生産階級である武士が集中するような、極端な大規模消費経済が出現すると、当然、物価騰貴が進むとともに、恒常的な米価低下によって、幕府・大名・家臣ら武士階級は窮乏化する。

 産業化が進んでいない状態で、いびつな消費経済が進むと、その金は産業資本に転化されることなく、経済拡張は行詰り、いきつくところ商人資本、ないし金融投機資本に流れ込むしかない。荻原、田沼、大御所時代の失敗は、ここに起因する。平成のバブルのようなもんだ。

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 これは、封建社会の根幹を担っている、武士と農民の没落を意味するわけで、つまり封建的支配の根幹基盤が崩壊してゆくのである。米将軍と呼ばれた吉宗が、何をいちばん気にかけたかと言うと、当然、米相場であり、米価低落を阻止する政策を採る。これはつまり緊縮政策となる。

 白石、吉宗、定信らの政策には経済発展などという概念はない。封建経済にもとづく幕藩体制を維持するためには、必然的に緊縮政治を行うことになる。それは彼らの限界であるとともに、江戸幕藩体制の限界でもあったと思われる。