【19th Century Chronicle 1894年(M27)】

【19th Century Chronicle 1894年(M27)】
 

*3.29/朝鮮 朝鮮で「甲午農民戦争東学党の乱)」勃発。日清戦争の契機となる。
 


 「甲午農民戦争」は、1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱で、東学(当時の新興宗教)の信者が中心的な役割を果したので「東学党の乱」とも呼ばれる。この戦争の処理をめぐって、大日本帝国と清国の対立が激化し、「日清戦争」に発展することになった。 
 

 15世紀以来、朝鮮半島を支配する封建政権「李氏朝鮮(朝鮮王朝)」であるが、19世紀後半からは西洋列強の進出を受けて、幕末の日本と同様、混迷を極めた。1863年11歳で、李氏朝鮮第26代国王に「高宗」が即位したが、父親である「興宣大院君」と、高宗の正妻「閔妃」の閔氏一族が実権を争って混乱し、朝鮮王朝としての統治力を失っていった。

 朝鮮は元来、清国の冊封体制下にあったが、新興の日本明治政権との勢力関係の狭間で、大院君派と閔妃派は、清や日本の力を頼りに揺れ動いた。1882年の「壬午軍乱」、1884年の「甲申事変」などの政変を経て、清を頼る閔妃派が実権を握っていたが、大院君側も日本を引き込み政権転覆を狙っていた。
 


 清の保護下で政権を握っていた閔氏は、なんら国政改革を行うことができず、民衆には重税が押しつけられ不満が高まっていた。各地で何度も農民の蜂起が起きるなかで、1894年全羅道での地方役人の横領事件を契機に、「甲午農民戦争」に発展した。反乱軍は「全琫準」という知将により全羅道一帯を支配下に置いた。この全琫準を含め農民の多くが東学と呼ぶ宗教に帰依していた(東学党)ため、極めて結束が強かったという。


 これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請した。甲申政変の事後処理に日清両国が結んだ「天津条約」では、日清いずれかが出兵する時は相互に照会することになっていたため、清国出兵に対応して、日本も在留邦人保護の名目に派兵し、両国軍は漢城(ソウル)近郊で対峙することになった。
 

 この状況に慌てた閔氏政権は、蜂起農民に和約を提案し、全羅道に農民による自治が認められ、一旦反乱は収束した。しかし日清両国は軍を引き上げず、朝鮮政府が混乱するなかで、日本軍の手引きで大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放した。大院君派政権は、「甲午改革」(内政改革)を進めるためとして、日本に対して清軍掃討を依頼した。そしてこの年8月1日には日清両国が宣戦布告、「日清戦争」が勃発した。

 全琫準は、第二次蜂起を起こしたが、この時には大院君とその背後にある日本軍との両方を相手にすることになり、日本軍に鎮圧された農民軍は敗退し、全琫準は捕えられ処刑された。ときの日本公使井上馨は全琫準の人格に共感し、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、朝鮮政府は井上に無断で処刑したという。

 

 日清戦争は日本が勝利し、1895年4月に下関条約が締結された。しかし、直後の三国干渉によって日本の影響力が後退すると、閔妃一族は、今度はロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月に政権を奪回した。ロシア軍に頼った閔妃勢力のクーデターは、大院君派やその背後の日本との対立を決定的にした。

 こうした中で、日本公使三浦梧楼や大院君派は暗躍し、親露派の閔妃を排除するクーデターを実行することにしたとされる。その実情は不明ながら、1895年10月8日、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使などもろもろが景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬殺された。(乙未事変/いつびじへん)
 

 日清戦争後の下関条約により、李氏朝鮮は清国の冊封体制からの離脱し、1897年に国号を「大韓帝国」、高宗を光武帝とし、形式上は独立した専制君主国となったが、日露戦争後は日本の保護国となり、1910年8月の「韓国併合」によって滅亡した。 

 20年以上にわたる大院君派と閔妃派の猖獗を極めた私闘は、日・清・露など周辺強国をなりふり構わず味方に付けようとし、朝鮮を一国の政体を為さない状態にした。これは大国の間に挟まれた地政学的な宿命でもあり、戦後、南北に分割された後も、中国・ロシア、そして日本にとって代わった米国の顔色を窺わざるを得ない状況は変わっていない。そして、今後さらに米国の力が後退すると、日本の「朝鮮化」さえ懸念される。
 
 

*8.1/ 日本が清国に宣戦布告、「日清戦争」が始まる。
 


 1894年(M27)、朝鮮で甲午農民戦争東学党の乱)が起こると、これをきっかけに、清と日本の両国は朝鮮に派兵して両国軍が対峙する。朝鮮で政権を握っていた閔妃政権は、清国の冊封下で清に隷属していたので、日本は朝鮮を清から切り離し、朝鮮への影響力を復活させる意図があった。

 第二次伊藤博文内閣で、伊藤首相自身は慎重論だったが、外務大臣陸奥宗光は清国との開戦を主導した。そして7月、日本海軍は、黄海上の豊島沖で清国北洋艦隊に奇襲攻撃をかけ、陸軍も京城南方で清国軍と衝突した。奇襲先制攻撃で打撃を与えたあと、日清両国は8月1日に宣戦布告に至った。

 

 9月には、清軍は堅固な要塞のある平城に兵力を結集し、日本軍は苦戦し戦線は膠着するが、指揮の混乱していた清軍は、いきなり白旗を掲げて撤退を始め全軍総崩れ、「平城の戦い」は日本軍の勝利となった。また「黄海海戦」では、清国が温存を図っていた北洋艦隊を、日本連合艦隊黄海で捕捉して、清国主力艦3隻を撃沈するなど大勝した。


 平壌攻略と黄海海戦により、清勢力の朝鮮からの駆逐という当初目的は達成された。英国などが講和を提案したが、日本政府はさらなる戦果を求めた。日本軍は遼東半島攻略を目指し、朝鮮と清の国境線の鴨緑江を越えて進軍するとともに、一方は旅順に上陸して11月には旅順・大連を制圧し、さらに遼東半島全域に侵攻した。
 


 日本海軍は、山東半島の北洋艦隊の拠点、威海衛を攻撃し、陸軍も山東半島に上陸して、翌年2月には北洋艦隊が降伏した。戦意喪失した清朝政府は休戦交渉に入り、李鴻章が下関会談で伊藤博文陸奥宗光らとの交渉に応じた。この講和会議の間にも、遼東半島戦域を制圧し、台湾に付属する澎湖諸島を占領した。

 日清戦争で日本が清国に戦勝し、1895年4月17日に「日清講和条約下関条約)」が調印された。日本は当時の国家予算の4倍に相当する賠償金とともに、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を得た。しかしその後、露仏独による「三国干渉」により、遼東半島を返還する。

 

 日清戦争は、近代日本にとって最初の近代戦であり、その勝利によって大陸侵出の足がかりをつかむとともに、2億両(テール)もの賠償金は第一次産業革命の資金となった。しかし、封建性を温存させた大地主制など、不均衡な社会は十分な国内市場を育成せず、海外に資源と市場を求める帝国主義に安直に転じていった。それが日露戦争以後の軍国主義化につながってゆく。
 
 

〇この年の出来事

*3.1/ 第三回臨時衆議院議員選挙が行われ、自由党が躍進する。

*5.16/東京 文学者北村透谷(27)が自殺する。

*7.16/ロンドン 日英通商航海条約が調印され、悲願の領事裁判権の撤廃なる。

*8.31/東京 川上音二郎一座が、浅草座で「壮絶快絶日清戦争」の初日の幕を開き、大評判をとる。

*9.17/黄海 連合艦隊が清の北洋艦隊と交戦し、5隻を撃沈し制海権を握る。(黄海海戦

*10.27/ 地理学者志賀重昂(32)が「日本風景論」を刊行し、国民的な愛読書となる。

*11.21/中国 大山巌大将率いる日本軍が、旅順を占領する。

*12.31/東京 丸の内に、コンドルと曽禰達蔵設計の三菱第一号館が完成する。(丸の内赤煉瓦ビルのはしり)