【19th Century Chronicle 1898年(M31)】
【19th Century Chronicle 1898年(M31)】
*6.30/ 大隈重信内閣が成立し、内相には自由党の板垣退助が就任した。最初の政党内閣であり、「隈板内閣」と呼ばれた。
第三次伊藤博文内閣は、懸案であった地租増徴案を成立させるべく、自由党との連携を模索したが、党首板垣退助の入閣がならず提携を断念、伊藤内閣は総辞職した。伊藤は議会対策として自身が政党を作るために議会を解散したが、山県有朋の反対などで間に合わず、伊藤の奏上により、大隈、板垣両人に大命降下され、大隈を首相、板垣を内相とする「第一次大隈内閣(隈板内閣)」が成立した。
その直前の6月22日、自由党と進歩党が合同して新党「憲政党」を発足させており、政党勢力の重要性を認識しつつあった伊藤博文は、大隈、板垣に組閣させることを決め、大隈内閣(隈板内閣)が成立したのであった。
「隈板内閣」は、内閣閣僚のほとんどを衆議院の多数勢力の憲政党員が占め、最初の政党内閣とされる。ただし、大隈や板垣は貴族院対象となる爵位をもっており、衆議院議員(平民に限定)になっていないので、厳密には政党内閣と言えるかどうか疑問である。
のちに、大正デモクラシーの機運の下で、平民で現役衆議院議員であった立憲政友会の原敬が、内閣を組閣し本格的政党内閣が誕生した。またその後、比較第一党となった護憲三派の憲政会を率いる加藤高明が首相となり、以降、衆議院の多数政党が内閣を組織するという憲政の常道が確立された。
隈板内閣は最初の政党内閣であったが、母体となる「憲政党」は自由党と進歩党が選挙対策で急造した政党であった。イギリス流の漸進的議会主義の大隈率いる進歩党と、フランス流急進派の板垣自由党は、理念的にも綱領でも水と油だった。しかも組閣時には、大臣の椅子めぐって両派は目先の猟官争いをして、早くも分裂に直面した。
そんな最中に、進歩党系の尾崎行雄文相が、「共和演説」事件によって辞任し、後任指名に不満の自由党系「星亨」らは一方的に憲政党の解党を議決、両派は自由党系の「憲政党」と進歩党系の「憲政本党」に分裂し、隈板内閣は成立後わずか4ヵ月で倒れた。
(清国の政変)
*6.11/中国 清の「光緒帝」が変法自強を宣言し、「戊戌の変法」が始まる。明治維新にならい、憲法制定・国会開設・学制改革などを唱えたもの。
*9.21/中国 クーデターで「西太后」が復権し、23日には光緒帝を幽閉する。「戊戌の政変」
日清戦争(1894/M27)の敗北で、「西太后」の庇護下で「洋務運動」を推進してきた李鴻章の権威が失墜し、西太后の甥にあたる「光緒帝」が実権を掌握し、康有為の「変法自強運動」を支持、1898年6月11日「戊戌の変法」と呼ばれる改革を始めた。
「変法」とは、統治機構(法)全体を改変しようとするもので、それまでの伝統的な政治外交礼制などの大変革を意味した。伝統的で形骸化した科挙に代わる近代的学制の導入から、新式陸軍の創設、憲法制定から議会制度の制定など、日本の明治維新に範をとった大改革を推進しようとした。
しかし急激な改革は、宮廷を中心とする保守派の反発を招き、保守派頭目の西太后の一派が「戊戌の政変」と呼ばれる宮廷クーデターを起こし、光緒帝を幽閉監禁する。変法派の主要人物は処刑され、康有為は日本に亡命するなど、変法運動は完全に挫折した。
なお、戊戌変法が進められるなかで、日本の重鎮伊藤博文が前首相の立場で清国を訪問していた。伊藤は、光緒帝に謁見、康有為と面談して、戊戌変法支持の立場を表明していた。日本の影響力が強まることを憂慮した保守派は、急ぎ西太后を担ぎ戊戌の政変を起こし、まだ北京滞在中だった伊藤は、政変に遭遇して動揺したとされる。
西太后は9月21日、クーデターにより復権を果たし紫禁城に復帰すると、変法自強運動派を徹底粛清し、光緒帝の廃位まで意図したが、これは列強の反対で実現しなかった。1900年には「義和団の乱」が発生し、新興宗教の義和団が狂信的に外国人を排斥すると、この機会に一気に諸外国の干渉を排除しようとして、西太后は義和団を支持し諸外国に対して「宣戦布告」した。しかし、まもなく列強連合軍が北京へ迫り、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安に落ち延びた。
[関連映画]
$「北京の55日」>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E3%81%AE55%E6%97%A5
$「ラストエンペラー」> https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC
西太后により復権していた李鴻章が、義和団の乱の処理を預かり、諸外国に多額の賠償金や外国軍隊駐留を認める代わりに、西太后の責任が追及されないように収めた(1901年/北京議定書)。西太后は1902年に北京に復帰、政治の実権を握り続けた。義和団の乱終結後、政治改革機運の高まりを察知した西太后は、かつて廃した戊戌変法を基本に、光緒帝の名を冠して「光緒新政」を開始する。
しかし時すでに遅く、1901年に李鴻章は死去しており、1908年には毒殺説もある光緒帝が崩御し、その翌日、西太后も72歳で崩御する。西太后は死の直前に、わずか2歳の幼帝「溥儀」を宣統帝として擁立したが、西太后の死から3年あまりで清朝は辛亥革命によって滅亡する。
1861年の「辛酉政変」以来、半世紀近く権力をほぼ掌握し続けた西太后は、清朝末期の分かりにくさを代表する。これはひとえに、西太后自身の分かりにくさに由来する。西太后は辛酉政変で、自分の子同治帝を即位させ、皇太后となり実権を掌握した。同治帝が若くして崩御すると、西太后は妹の子を「光緒帝」として3歳で即位させ、権力の中枢を維持した。
光緒帝は、成人し結婚に伴い親政を始めるが、西太后は宰相李鴻章を擁して実権を握り続けた。日清戦争の敗北で李鴻章の権威が失墜したのを契機にして、光緒帝は西太后の傀儡から脱し「戊戌の変法」を開始するも、すぐに「戊戌の政変」で西太后が復権し、以後、光緒帝が政治の前面に出ることはなかった。
その間半世紀近く、西太后は政敵を次々と粛清して、政権を維持した。しかし、特定の政治的信条はなく、自身の権力欲と清国の権威復活だけをたよりに政権に居座った。自分の感性だけに頼った行き当たりばったりの政治は、清国の近代化を決定的に立ち遅れさせ、やがて滅亡に至ることになる。
西太后には、様々な俗説が付きまとう。なかでも、ライバルの麗妃の手足を切断して甕の中で飼ったなどという、都市伝説に近い話もあるが、これらの西太后の嫉妬深さを伝える逸話は、ほぼ根拠ないものとされている。西太后の偏執的な権力への執念が、女性特有の嫉妬心に結び付けられて語られたものと考えられる。
〇この年の出来事
*1.12/ 第三次伊藤博文内閣が成立する。
*2.2/ 日本鉄道の機関手らが、我党待遇期成大同盟会を結成する。指導者解雇で、24日にはストライキに突入する。(鉄道関係労働争議の初め)
*3.3/中国 ロシアが、清に大連と旅順の租借を要求し、27日両港の租借権(25年間)を獲得する。
*3.29/東京 東京美術学校で、岡倉天心校長を排斥する動きがあり、免職される。天心とともに、橋本雅邦・横山大観ら17名も辞職し、東京美術学校の日本画科は崩壊する。
*4.19/ 自由党が、板垣退助の入閣を拒否され、政府との連携を断絶する。
*6.22/ 自由党と進歩党が合同して「憲政会」の結党式を行う。
*8.1/東京 豊田佐吉が、動力織機の特許を取得する。この動力織機は、従来の手動織機の十数倍の能力があったとされる。
*8.21/東京 尾崎行雄文相の帝国教育会での演説が、立憲君主制を否定する「共和演説」として非難をあびる。
*10.15/東京 日本美術院が開院される。東京美術学校を辞めることになった岡倉天心・橋本雅邦・横山大観らが中心となり、設立された。
*10.31/ 「共和演説」問題で尾崎行雄文相が辞任すると、政権党の憲政党内で、旧進歩党系と旧自由党系の内部分裂が露呈し、板垣文相など閣僚の辞任が続いて大隈内閣は総辞職、最初の政党内閣はわずか4ヶ月で崩壊した。
*11.8/ 第二次山県有朋内閣が成立。
*12.30/ 地租条例が改正される。地租は2.5%から3.3%に引き上げられた。