【19th Century Chronicle 1884年(M17)】

【19th Century Chronicle 1884年(M17)】
 

*2.25/静岡 侠客山本長五郎清水次郎長)が、賭博で逮捕される。
 


 清水次郎長は、1820年(文政3年)、駿河国清水の船持ち船頭の子に生れ、米穀商の山本次郎八の養子となる。山本長五郎となるが、仲間の子供たちから、次郎八の家の長五郎、すなわち「次郎長」と呼ばれ、以後それが通称となった。

 養父が死去し米穀商の家督を継ぐが、喧嘩の果てに人を斬り、出奔して無宿人となった。その後、諸国遍歴し年季を積むと、成長した次郎長は清水湊に一家を構える。清水に一家を構えた次郎長は、以降、周辺の博徒間での抗争に明け暮れる。この間、協力者の裏切りで女房の"おちょう"を失ったり、森の石松の仇を討ったりし、あの甲斐の黒駒の勝蔵との対陣など、講談に出て来るような逸話の事件を起こす。

 

 戊辰戦争が展開し、幕臣榎本武揚が幕府艦隊を率いて北へ逃げる時、咸臨丸が破船し清水湊に停泊しているところ、新政府海軍に急襲され、幕軍の船員全員が殺された。逆賊として遺体は駿河湾に放置されたままだったが、次郎長は手下に命じて遺体を収容させて葬ってやったという。


 それをきっかけに、幕臣榎本武揚山岡鉄舟と親交をもった。維新後は、新政府の意向に沿って東海地方の治安維持に尽くしたが、博打で逮捕されたときには、新政府に加わっていた山岡鉄舟らの尽力で、刑期満了を待たず解放された。以降、明治26年1893年)74歳で没するまで生きた。
 

 黒駒勝蔵は、1832年天保3年)、甲斐国黒駒の名主小池嘉兵衛の次男として生まれた。次郎長より、一まわりも年少である。幼少期に、村内の檜峯神社の神主武藤外記が開いた私塾に学び、それが勝蔵が尊攘思想に感化された一因ともされる。

 勝蔵は生家を出奔すると、博徒のとなり頭角をあらわす。吃安(どもやす)こと竹居安五郎傘下となると、勝蔵は吃安と手を組んで勢力を伸ばした。吃安が計略で獄死すると、勝蔵は吃安の手下を黒駒一家としてまとめ上げ、甲州博徒大親分として勇名をはせた。
 

 駿河の国と甲斐の国は、表富士と裏富士に位置し、今でも富士山頂の所属を争う関係である、甲斐の勝蔵と駿河の次郎長の対峙は、恰好の講談ネタともなった。庶民相手の浪曲や講談では、黒駒の勝蔵は、ひたすら敵役を背負わされることになる。

 「荒神山の喧嘩」にも客分として参加した勝蔵は、次郎長との対峙で劣勢になるとともに、代官所の取り締まりが強化されると、甲斐国外へ逃れて潜伏した。まもなく戊辰戦争がはじまると、尊攘思想に感化されていた勝蔵は、黒駒一家を解散し、草莽隊の「赤報隊」に参加した。
 

 「赤報隊」は、下総の浪士相楽総三を隊長に結成された、一種の義勇軍。浪士や博徒など寄せ集めのならず者集団的な性格をもっており、いわば逆新選組みたいなものか。西郷隆盛大久保利通らの指示で、薩摩革新派の手先として、江戸で掠奪・暴行などの攪乱行為を働き、倒幕の名目を作るために利用された。

 戊辰戦争が始まると、官軍の先鋒隊として、年貢半減を唱えて不満農民らを巻き込みながら、東山道を東上したが、途上の略奪狼藉が多く、正規官軍に「偽官軍」として使い捨てにされ、隊員の多くは処刑された。勝蔵は京都で徴兵隊に所属し、仙台戦争に従軍したりするが、戊辰戦争終結後、甲斐に戻り金山事業に従事し、帰隊しなっかったとして、脱隊の嫌疑で斬首に処せられた。ほぼ使い捨てにされたと言える。
 
 

自由党過激事件)

*5.13/群馬 自由党員湯浅理平らが、妙義山陣場が原に農民を集め、16日未明から高利貸・警察署などを襲撃する。(群馬事件)

*9.23/茨城 茨城・福島両県の自由党員ら16人が、専制政府打倒を叫び、加波山で蜂起する。(加波山事件)

*10.29/大阪 地方の急進派を押さえきれず、自由党が大会で解党を決議する。

*11.1/埼玉 自由党員井上伝蔵らの指導で、秩父地方の農民数千人が集結し、郡役所・高利貸などを襲撃、11.4には軍隊が出動する。(秩父事件

*12.6/長野 愛知県・長野県の自由党員らの名古屋鎮台襲撃計画が発覚し、村松愛藏らが逮捕される。(飯田事件)
 


 大隈重信の「立憲改進党」が、君民同治を唱え、二院制、イギリス流の穏健な立憲君主制を主張するのに対して、自由党は、在権在民(国民主権)を旗頭に、一院制、フランス流急進論で、究極的には共和制も念頭に置いていた。それゆえに、自由党には急進過激な地方党員も多く、貧農層と結んで幾つもの騒擾事件を起こした。

 1884年5月に「群馬事件」が起こる。群馬の自由党指導者清水永三郎や湯浅理平らは、松方デフレで困窮した貧農たちに猟師・博徒なども加えて、政府転覆の計画をした。妙義山陣場ヶ原で蜂起し、高崎鎮台分営の襲撃などを計画するが、実行はされず、暴徒と化した群集は、警察分署や高利貸を襲った。
 


 9月には、茨城・福島・栃木県にまたがる民権家・自由党員らが、「加波山事件」を起こす。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、爆弾製造中の誤爆事件で計画が露見したため、若い民権家ら16名が蜂起して、茨城県加波山にたて籠った。


 「圧制政府転覆」などを唱え、民衆に決起を呼びかけるも、呼応する有力な支援もなく、関係者は順次逮捕された。三島通庸県令は、前任の福島県令時にも「福島事件」で自由党員の弾圧を行っており、強権県政の代表として狙われた。この事件は少人数での暗殺計画であり、武装蜂起としては小規模な、過激なテロリズムであったといえる。
 

 加波山事件などで、自由党本部が急進化する地方の自由党員をコントロールできないことが明らかになり、政府による民権運動への弾圧強化、自由党幹部の内紛、資金調達の困難などが重なり、10月29日、大阪の党大会で解党を決議する。国会開設を期して結党された自由党は、国会開設を待たずわずか3年で、事実上、板垣退助総理が党再建を投げ出すという形となった。
 


 その自由党解党直後の11月1日、急進派による最大の事件である「秩父事件」が発生した。埼玉県秩父地方では養蚕業が盛んで、当時のデフレにより生糸価格が暴落、他の一般農家を含め、多くの農民が増税や借金苦に喘ぐ状況であった。地域の自由党員らは、農民とともに「困民党」を組織し、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案された。

 蜂起は暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を廃棄し、租税の軽減等につき政府に請願することにあった。蜂起が開始され、11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した。しかし、開設されたばかりの電信により、政府はいち早く蜂起への対応を進め、11月4日に秩父困民党は事実上崩壊、鎮圧された。他方で、蜂起を先導した自由党員らは、2日前の自由党解党の決議を今だ知らなかったと思われる。
 

 秩父事件は、最大の民権派反乱事件と言われ、いわゆる「激化事件」の代表例ともされる。約1万4千名が処罰され、首謀者とされた7名は死刑とされた。さらに秩父事件の影響下に、長野県で「飯田事件」が企てられるも、未然に計画が発覚して失敗に終わる。以後、徹底した政府の弾圧により、激化事件は沈静化に向かった。

 国会期成同盟をうけて結成された「自由党」は、党組織の未熟さと地方組織の過激化により、政府の徹底弾圧によってわずか3年で解党された。やがて1890年、帝国議会開設に及んで「立憲自由党(翌年"自由党")」として再糾合され、第一回帝国議会では第一党となった。しかし、日本初の本格的政党内閣は、1918年(大正7年)に成立する政友会原内閣を待たねばならなかった。
 
 

*2.-/東京 東京大学講師で日本美術研究家フェノロサが、古美術の真贋優劣を鑑定する鑑画会を結成する。

*6.25/奈良 フェノロサ岡倉天心とともに、京阪地方の古寺歴訪を命じられ、法隆寺夢殿を開扉し、救世観音像を世に出す。
 


 アーネスト・フェノロサは、マサチューセッツ州セイラム生まれで、ハーバード大学で哲学、政治経済を学んだ。縄文土器の発掘で名高いエドワード・モースが東大教授で在任中、でたらめなお抱え教授連を一掃し、専門知識を持つ外国人教授の来日に尽力しており、「哲学教授」としてアーネスト・フェノロサを斡旋したことが、来日の契機となった。

 1878年明治11年)弱冠25歳で来日したフェノロサは、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)など幅広い分野を担当し講義したが、美術にも深い関心を持っていた。来日後には日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、当時の廃仏毀釈の風潮の中で、廃棄されることの多かった仏教美術の発掘保存に尽力した。

 

 フェノロサは、九鬼隆一、岡倉天心、今泉雄作らと「鑑画会」を発足させた。その活動は、古美術の鑑定にとどまらず、和洋折衷で新しい日本画の創出を目指す同時代作品の展覧会を催し、狩野芳崖や橋本雅邦の名を高めた。その運動は、東京美術学校東京芸術大学)の設立へと結実してゆく。


 フェノロサは文部省図画調査会委員に任命され、当時の日本の美術行政、文化財保護行政にも深く関わった。1884年6月、岡倉天心らを同行して近畿地方の古社寺宝物調査を行った。その時に、法隆寺夢殿を開扉し、聖徳太子の怒りを恐れて封印を解くこと拒む僧侶たちを説得し、"絶対秘仏”とされていた救世観音像を数百年ぶりに開帳した。
 


 救世観音像が、なぜ「秘仏」とされるに至ったかは定かではない。法隆寺聖徳太子ゆかりの寺院であり、太子没後100年余り後に、夢殿が聖徳太子を供養する堂として、高僧行信によって建立されたとされる。夢殿の八角堂は供養塔として建てられたもので、救世観音も、供養を目的として祀られた像ということになる。


 1972年(昭和47年)、"哲学者"梅原猛は、『隠された十字架』という論考を発表し話題を呼んだ。法隆寺は王権によって子孫を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺だと主張、救世観音も、怨霊としての太子を表現したものだとした。梅原の論は、大胆な仮説のもとに展開されたもので、歴史学や考古学の研究者からは、否定的な見解が多い。早くから本業の哲学を放棄していた梅原猛の著作なので、「歴史ミステリー」文学として読めば、それなりの面白いものと思われる。
http://www.shinchosha.co.jp/book/124401/
 


 フェノロサの生地は、米ボストン近郊のセイラムであり、ピューリタン色濃厚な保守的な土地柄だった。スペインからの移民であった父親が、土地になじめず自殺し、原理的なピューリタンからは批判的な目で見られたこと。また、前妻と離婚したあと、すぐに再婚して排除的な視線を浴びせられたことなどが、モースの招きに乗っての来日とされる。


 しかもセイラムという土地は、植民時代のアメリカにおける、伝説的な「魔女裁判」の土地であった。フェノロサは、このような超保守的な土地柄から脱出したかったと思われる。セイラムの魔女裁判は、のちの米オカルトホラー映画『エクソシスト』や『オーメン』の、基調モチーフとなっていると考えられる。
https://okakuro.org/salem-witch-trials/
 
 

*12.4/朝鮮 漢城(ソウル)でクーデターがおこり、竹添公使らが軍隊を率いて王宮を占領する。(「甲申政変・甲申事変」)
 


 1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場を維持する「守旧派(事大党)」と、朝鮮の近代化を目指す「開化派」に分かれていた。後者はさらに、穏健で中間派ともいうべき「親清開化派(事大党)」と、清朝間の宗属関係に依拠せず、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする「急進開化派(独立党)」とに分れていた。

 「壬午軍乱」以降、清国の影響下に置かれた閔氏政権は、「親清開化派」として事大主義に傾斜しつつあった。一方の「急進開化派」は、明治維新の日本を朝鮮近代化のモデルとして、日本の協力をあおいで自主独立の国を目指そうという立場であった。金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党のリーダーは、朝鮮の開化をめざして日本に接近しつつあった。

 

 金玉均らは、高宗にはたらきかけて訪日を実現し、力強く歩む明治維新の日本において、政治・教育・産業などをつぶさに見て回り、福澤諭吉を介して日本の政財界の重鎮とも知己を結んだ。そして日本からの帰途、「壬午軍乱」発生の報に初めて接した。

 壬午軍乱は、清国軍が乱の首謀者で国王の父興宣大院君を中国の天津に連行して収束、高宗と閔氏の政権が、清国の影響下で復活する。以後、開化政策は清国主導で進められることになり、日本の影響力は低下した。朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ「済物浦条約」の規定によって、謝罪使節団を派遣し、金玉均も顧問としてこれに加わった。一行は日本政府高官とも接触して、朝鮮独立援助を要請したが、日本側は清国の軍事力を考慮し、あいまいな支援策を提示したのみであった。
 


 軍乱後に王宮に復帰した閔妃は、閔氏一族を始めとする私情に偏った守旧政治で、朝鮮半島の政治を混迷させるばかりだった。この状況に危機感をいだいた独立党は、日本の協力を期待し金玉均を派遣したが、日本側の対応は冷たいものであった。金玉均は失意のうちに帰国するが、まもなくベトナムの支配権をめぐって「清仏戦争」が勃発した。

 この戦いで劣勢に立った清国が、止むを得ず朝鮮駐留軍の多くを内地に移駐させたため、独立党はこれを好機ととらえ、日本もまた、壬午軍乱以降の失地回復の好機とみて、帰国中の公使竹添進一郎を漢城に帰任させ、金玉均ら独立党に近づいた。
 


 金玉均らはこの好機にさいしてクーデター計画を立て、竹添公使からも支援の約束を得た。しかし、クーデタに動員できる軍事力は、日本公使館警備の日本軍150名と、朝鮮人士官学生などごく少数であり、1,500名を有する清国兵や朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった。

 金玉均らは、フランスとの戦争下にあった清国が、朝鮮を手薄にさせている状況に期待し、クーデター決行を決めるが、実行直前に清国がフランスとの和議に動き、また、支援を約束したはずの日本政府中央も、直前になってクーデターへの加担を差し止めてしまった。


 こうしたなか、郵征局開局の祝宴を狙って、計画は予定通り12月4日に実行に移された。日本政府の関与は不明だが、竹添進一郎公使は会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館で待機していた。金玉均らは王宮に急行し、高宗を確保するとともに、日本公使に救援を依頼するよう高宗に要請した。あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに王宮の守りについた。

 翌5日、金玉均らは新政権の成立宣言し、新政府の閣僚は夜を徹して話し合い、国王の稟議を経て、翌6日「革新政綱」を公表した。政綱では、門閥の廃止、人民平等の権利、才能による官選など、旧態を一掃する近代化方針をうたった。


 開化派のクーデタに対し、閔氏側はただちに清国軍の出動を要請、袁世凱らが率いる清国軍は王宮への攻撃を開始した。王宮護衛の朝鮮政府軍兵士は頼りにならず、結果として日本軍150名だけで、清国兵1,300名と戦う状況となった。日本軍は奮闘するも、ついに竹添公使は撤収を命じ、金玉均らも公使とともに公使館に帰着する。


 清国軍は、高宗を陣営内に確保し、臨時政権を樹立させた。竹添の公使館逃避前後から、漢城は大混乱に陥り、清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人居留民たちも略奪・殺害された。竹添公使は7日午後、新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、漢江をくだって仁川府に向かった。竹添一行は仁川領事館から長崎へと向かうが、竹添はクーデターの関与を詮索されるのを恐れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌がったという。
 

 クーデターの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、金玉均は、関与をほうかむりする日本政府からは冷遇され、失意のうちに上海に渡るが、同地において朝鮮国王の放った刺客よって暗殺される。遺体は朝鮮半島に移送され凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。

 金玉均らによる政変は、失敗に帰したが、朝鮮半島において、近代国家の樹立をめざした最初の真っ当な民族運動としての歴史的意義を有する。しかし、日本や清国を始めとした外国勢力によって左右される、当時の朝鮮政権の脆弱さは、明治維新の日本のように独自の近代化を進めるには、あまりにも時代に取り残された存在であった。
 

 事後、日朝間では「漢城条約」、日清間は「天津条約」が締結されたが、朝鮮のコントロールに失敗した日本は、半島での立場をいっそう悪化させ、「日清戦争」での直接対決へと向ってゆく。
 
 

〇この年の出来事

*3.-/東京 東京大学予備門学生有坂鉊蔵が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚で「弥生土器」を発見する。

*7.7/ 「華族令」が定められ、公・侯・伯・子・男の五爵に分け、戸籍・身分を宮内庁管理とする。国会開設に向けて、身分制の貴族院議員の準備作業でもあった。