【19th Century Chronicle 1887年(M20)】

【19th Century Chronicle 1887年(M20)】
 

*2.15/東京 徳富蘇峰が民友社を創立。「国民之友」を創刊する。

 

 1887年(明治20年)、徳富蘇峰は言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を創刊し主宰した。民友社には弟の徳富蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。徳富蘇峰は「国民之友」の誌上で論陣を張り、政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、一方で、三宅雪嶺らの国粋主義(国粋保存主義)に対しても、平民的急進主義の主張を展開し、当時の言論界を二分した。

 

 1890年(明治23年)には、民友社とは別に「国民新聞社」を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和を通してのオピニオンリーダーとして活躍した。さらに蘇峰は、『国民叢書』・『家庭雑誌』・『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)などを次々と発行し、言論人、社会思想家、ジャーナリストとして幅の広い活動を展開した。

 蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、「当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった」と記し、多岐にわたって日本の近代社会形成に寄与した。
 
 

(中高等教育の整備)


*4.18/宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。

 5.30には熊本に第五高等中学校の設立が決まる。前年、東京に第一、京都に第三高等中学校が設立されており、1894年(明治27年)の高等学校令により、それぞれが「高等学校」となる。いわゆる旧制高等学校の「ナンバースクール」の陣容が整った。(別表一覧参照)
 

*10.5/ 文部省が図画取調掛を「東京美術学校」、音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。(のちに統合され、現「東京芸術大学」となる)

 
 1884年明治17年)文部省内に「図画取調掛」が設置され、岡倉覚三(天心)・フェノロサが西欧の図画教育の実態調査を委嘱され、欧州の調査旅行に派遣された。2人の報告に基き、1887年10月、日本最初の美術教員・美術家養成のための機関として「東京美術学校」が設立された。
 

 同時に、文部省の「音楽取調掛」もまた「東京音楽学校」に改組され、日本の音楽教育を担う機関となった。東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であったが、以後、両者とも和洋の伝統をふまえた芸術を担うことになった。

 旧制専門学校東京美術学校」と「東京音楽学校」は、日本で最も歴史ある芸術分野の最高学府として位置づけられたが、戦後の学制改革にともない、1949年(昭和24年)、「東京美術学校」と「東京音楽学校」は統合され、新制「東京芸術大学」となった。
 
 

(欧化政策に頼った条約改正交渉が挫折)

*4.20/東京 首相官邸で大仮装舞踏会が催される。鹿鳴館以来の、行き過ぎた欧化主義との批判が高まる。

*9.17/ 条約改正交渉の行き詰まりを理由に、井上馨外相が辞任する。
 


 江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の解消は、明治期を通じての政府の懸案となった。修復すべき重要な不平等条約は、「関税自主権の回復」と「治外法権領事裁判権)の撤廃」であった。「領事裁判権」の完全撤廃は、1894年(明治27年)、陸奥宗光外相により達成された。一方「関税自主権」の完全回復は、1911年(明治44年)、小村壽太郎外相によって達成されるまで、明治末年に及んだ。
 
 条約改正の動きは、明治4年1871年)の岩倉使節団の米欧巡回に始まる。その第一の目的は、新政府として、江戸幕府が結んだ諸条約の見直しであったが、「未開の国」からの使節団は、改正交渉の相手にしてもらえず、まず欧米の文物や制度を視察してまわることに目的を変更した。

 

 明治11年1878年)、明治初期の諸制度確立に尽くした大久保利通が暗殺されると、伊藤博文が内務卿として政権の首班となった。井上馨は、伊藤の片腕として外務卿に就任、伊藤が我国最初の内閣を組織すると外相として外交を仕切った。

 井上馨はたびたびヨーロッパを視察するなどで、日本が未開国扱いされていることを痛感しており、伊藤と井上は、日本が外交交渉の相手として認めさせるには、欧米に近い文化水準である事を示す必要に迫られた。実際問題として、欧化政策の結果、ある皇族が欧州を訪れたときに、他の欧州王室の一員と同様の礼遇を受けるなど、改善は見られたという。
 


 井上が推進した欧化政策の代表は、明治16年(1883年)に完成した鹿鳴館であった。井上自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政府高官・各国外交団を集めて夜会などの行事を日夜開いた。1987年(明治20年)4月には、伊藤首相主催で首相官邸で大仮装舞踏会が開かれた。

 欧化政策の狂騒を極めたのが、この仮装舞踏会で、内外の名士が趣向を凝らした仮装で参加した。ホストの伊藤夫妻はヴェニチア貴族に扮し、以下、三河万歳・大僧正・弁慶・牛若丸、虚無僧、白拍子、源氏の夕顔などなど、政府重鎮たちがあられもない仮装で乱痴気騒ぎ。あげくの果ては、女好きで鳴らしたホスト伊藤博文が、鹿鳴館社交界の名花と謳われた某伯爵夫人を、裏庭の茂みに誘い込んで怪しげな行為に及ぶというスキャンダルを書き立てられる有り様だった。

 

 この仮装舞踏会は、実際は駐英公使の依頼により会場を貸しただけであったとも言われるが、さまざまな風説が流され、国会開設を控えて、政府批判を強める保守派や民権派は、このような風説を積極的に利用した。民友社の徳富蘇峰民権派は、貴族的欧化主義的で上からの欧化だと批判、これらに使われる税金を冗費だと非難した。

 一方で、三宅雪嶺国粋主義的な保守派は、井上が進める外国人裁判官の起用といった、軟弱な条約改正交渉を批判して、行き過ぎた欧化政策のスキャンダルを交え、伊藤内閣を攻撃した。この時期の状況は「明治20年の危機」とも呼ばれ、両派から挟撃された伊藤内閣は、やむなく井上馨外相を更迭した。民衆に煽り立てられた、井上の鹿鳴館外交への風当たりは厳しいものであり、欧化政策は頓挫することになる。
 

 以後、大日本憲法の発布、帝国議会の開設など、近代国家の制度が確立され、一方で、日清日露での戦勝など、国力を見せつけることによって、もはや欧化政策に頼ることなく、欧米列強と対等な条約を結ぶことになった。
 
 

〇この年の出来事

*10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)

*10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。

*12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。

*6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)

*6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。