【19th Century Chronicle 1899年(M32)】

【19th Century Chronicle 1899年(M32)】
 


*3.2/ 「北海道旧土人保護法」が公布される。アイヌ救済をうたい農耕民化を推進するが、独自の入墨・耳輪などの風習を禁じるなど、大和民族への同化を強いるものだった。
 

 「北海道旧土人保護法」は、北海道アイヌを一般の日本国民と分けることを定めた(戸籍の分離)。さらに、アイヌの土地所有権の制限(不動産の相続権の停止など)、アイヌ語の廃止など、日本への同化政策が基軸となっていた。アイヌを「北海道旧土人」と呼び、アイヌを日本人からの保護するという大義名分で、土地、医薬品、埋葬料、授業料などを供与すると定めたが、供与に要する費用にはアイヌの共有財産等からの収益を用いることとした。

 

 先住民のアイヌが住む土地や、共有していた漁業・狩猟・耕作などの権利、共有財産などの専有権は没収し、北海道庁の管理の下で、公売によって日本人に売却された。そしてアイヌ人には、自由な土地売買や小作権設定などが禁止された。

 この法律にもとづいて、アイヌの財産の収奪や、文化的同化政策が推進された。具体的には、「1.アイヌの土地の没収、2.収入源である漁業・狩猟の禁止、3.アイヌ固有の習慣風習の禁止、4.日本語使用の義務、5.日本風氏名への改名による戸籍への編入」などが強制された。
 


 この差別的な法律は、終戦後にも放置されたまま存続した。1997年(H9)になってやっと、アイヌ民族初の国会議員萱野茂らの尽力で、「アイヌ文化振興法」(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が国会で全会一致可決され、その施行に伴い北海道旧土人保護法は廃止された。
 

 「アイヌ」とは、もともとアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、精霊的自然を示す「カムイ」に対する概念だったとされる。それが大和民族(和人)との交易など接触がすすむにつれて、自民族の呼称として意識的に使われだした。さらに、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間という意味の「ウタリ」は、より積極的に誇りを込めた文化的アイデンティティを主張する、アイヌ人自身の民族の呼称として用いられる。
 


 一方で大和民族(和人)の側からは、古来からアイヌのことを「蝦夷(えみし・えぞ)」・「土人」などと呼び、東北一帯に住む先住民(和人と混交したアイヌ)と北海道のそれ(純然たるアイヌ)とは、明確な区別がなかった。エミシはエビスに通じ、漠然と「東北一帯に住む異人・蛮族」といったニュアンスで使われたとされる。中世になると、アイヌとの接触も増え、具体的にアイヌ人を指す言葉として「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるようになり、彼らの住む北海道は「蝦夷地(えぞち)」とされた。
 

 アイヌの信仰は、自然界のあらゆる事物に霊魂が宿るとする、ある種の汎神論に分類される。なかでも熊は神の化身とされ、熊の魂を天界に送り返す儀式「イオマンテ」などが有名である。


 また、アイヌは筆記文化を持たず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。そのためアイヌの歴史や生活文化の解明は困難を極めたが、「金田一京助」による、口承文芸の「ユーカラ叙事詩)」の研究などから、少しづつ明らかにされつつある。
 
 

*7.17/ 日英通商航海条約の改正条約が実施される。同時に、ロシア・ドイツ・オランダなど10ヶ国との改正条約も実施。領事裁判権など不平等条約を解消するとともに、外国人の受け入れ態勢が整えられた。

 

 「日英通商航海条約」は、1894年(M27)7月16日、時の外務大臣陸奥宗光と、英国外相キンバーリーによって調印された。続いてロシア・ドイツ・オランダなど10ヶ国との改正条約も締結され、これらにより、日本は不平等条約の「治外法権領事裁判権)の撤廃」などに成功した。

 同時に、外国人の日本居留をし易くするため、それまで外国人居留地に限定していたのを、内地雑居を許すことになった(内地解放)。これらの体制準備が整うのをまって、5年後の1899年(M30)7月17日より改正条約は実施された。しかしもう一つの懸案「関税自主権」の回復は一部のみで、完全回復は1911年(M44)、小村寿太郎外相による対米の通商航海条約改正をまつことになる。

 

 日英通商航海条約の締結は、当時の最強国イギリスと法権のうえで対等関係になることを意味したが、一方でイギリス側の狙いは、ロシア帝国の南下政策に対抗するため、日本の軍事力に期待することであった。日本は、イギリスとの条約締結に国家としての自信を深め、老大国清との「日清戦争」に踏み切る。1902年(M33)には「日英同盟」という軍事同盟にまで進み、英国の後ろ盾のもと、強国ロシアと「日露戦争」に至る。

 日本は法権の上で欧米列国と対等の関係に入ったが、関税自主権は完全回復は積み残された。つまり列強は、治外法権という「面子」よりも、関税自主権を持たせないという「実利」をとったに過ぎない。
 
 

〇この年の出来事

*2.1/東京・大阪 東京―大阪間に長距離電話が開通する。

*2.7/ 改正中学校令・実業学校令が公布、翌8日には高等女学校令が公布されて、中等教育体制が整う。

*2.27/ 移民斡旋業者の森岡移民会社が募集した810人が、日本郵船の「佐倉丸」でペルーへ出発する。(わが国初の南米移民)

*4.30/ 横山源之助が「日本之下層社会」を出版。都会や農村での下層民社会をルポルタージュしたもので、それまでの興味本位の潜入記とことなり、社会問題としての貧民実態をルポしたものとして画期的だった。

*7.10/東京 明治天皇東京帝国大学の卒業式で、成績優秀者に銀時計を授与する。(恩賜の銀時計の始まり)

*7.21/東シナ海 布引丸が、フィリピン独立運動派に武器弾薬等を輸送する途中、上海沖で難破する。

*11.-/東京 留岡幸助キリスト教精神にもとづいて、非行少年更生のための少年感化院「家庭学校」を設立する。