【19th Century Chronicle 1889年(M22)】

【19th Century Chronicle 1889年(M22)】
 

*2.11/ 「大日本帝国憲法」発布。
 


 「大日本帝国憲法」は、1889年(明治22年)2月11日に公布され、1890年(明治23年)11月29日に施行された。実質上、アジア初の近代憲法であり、敗戦後の1947年(昭和22年)に「日本国憲法」が施行されるまで、半世紀以上の間一度も改正されることはなかった。

 1876年(明治9年)「国憲起草を命ずるの勅語」が発せられ、1881年明治14年)「国会開設の勅諭」が発されるに及び、憲法の起草が急がれた。1885年(明治18年)には内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣(首相)となると、伊藤は憲法起草を主導し、井上毅らに憲法草案を作成させた。
 


 伊藤は天皇の諮問機関として「枢密院」を設置し、自ら枢密院議長となり審議を結了させた。1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出され、大日本帝国憲法が発布されるとともに国民に公表された。大日本帝国憲法は、天皇黒田清隆首相に手渡すという「欽定憲法」の形で発布された。

 憲法制定に先立って、伊藤らは欧州各国の憲法を視察調査し、日本の君主制に近いプロイセン・ドイツの憲法体制が最も相応しいと考え、「プロイセン憲法ビスマルク憲法)」を参考にした。大日本帝国憲法は、「立憲主義」の要素と「国体(天皇主権)」の要素をあわせもつ「欽定憲法」であり、立憲主義によって議会制度が定められるとともに、国体(天皇主権)によって議会や内閣の権限が制限された。
 


 言論の自由や結社の自由は、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」として認められ、そのもとで大幅な制限も受けた。憲法に基づいて開設された「帝国議会」は、貴族院衆議院の二院制で、「貴族院」は皇族華族及び勅任議員からなり、「衆議院」のみが選挙により選ばれた議員で構成された。

 「立法権」は天皇が有するとされたが、帝国議会は「立法協賛機関」として、法律の協賛(同意)権を持ち、帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。そして、上奏権や建議権も限定付きながら与えられ、建議権を通じて政策への関与が可能とされた。
 

 行政府である「内閣」及び「内閣総理大臣」は、帝国議会からは独立しており、憲法ではなく「内閣官制」で定められた。内閣総理大臣国務大臣の首班ではあるが、国務大臣(各省大臣)に対する任免権はなかった。しかし、内閣総理大臣は各部総督権を有しており、大政の方針決定や国務大臣の任免を「天皇に奏上する権限」を与えられ、実質的な権限は大きかった。

 「司法権」は、天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は「司法裁判所」にはなく「行政裁判所」の管轄に属していた。これは、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされた。
 


 大日本帝国憲法では、法第1条で「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」と規定され、一系の永続性が皇室の正統性の根拠であることを強調した。皇祖皇宗の意思を受け天皇が継承した「国家統治の大権」に基づき、天皇を国の「元首」であり「統治権の総攬者」として定めた。このような、天皇が日本を統治する体制を「国体」と呼んだ。

 天皇は、「天皇大権」と呼ばれる広範な権限を有した。天皇は法規の制定、条約の締結などの権限を有し、議会の制約を受けずに行使できるとされた。ただし、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下すという実態であった。

 天皇大権のひとつとしては、「統帥権の独立」が定められていた。これは軍部が、議会(立法府)や内閣(行政府)に対し、一切責任を負わないものとするもので、のちには「統帥権干犯問題」などを経て、結果的に軍部の独走を許すことにつながった。
 

 大日本国憲法の統治構造は、国務大臣帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が、各々独立して天皇に直属し、結果的にどの国家機関も他に優越することがないという「分立主義」に立っていた。しかし、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上、権力の分立を避けるために「憲法外」に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。

 帝国議会の一院には選挙によらない「貴族院」を置き、また、「枢密院」など議会外機関を置き、さらに、元老、重臣会議、御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。これらの分立と恣意的な権力割拠のもと、意思決定中枢を欠くという問題が頻発し、その間隙をつくようにして、軍部が独走するという昭和前半の歴史を招いた。
 
 

*3.4/東京 宮武外骨大日本帝国憲法を風刺、掲載雑誌「頓智協会雑誌」は発行停止。宮武外骨不敬罪で重禁固3年の刑に処せられる。

 

 宮武外骨は反骨精神にあふれ、自ら新聞雑誌を刊行して、政治や権力の批判を行った。明治22年(1889年)『頓智協会雑誌』を発行し、大日本帝国憲法が発布されると、その28号に、憲法発布式典をパロディ化した「頓智研法発布式」を掲載した。

 大日本帝国憲法の発布式で、明治天皇が高座から憲法を授ける式典の模様を、白骨のガイコツ(外骨)が頓智協会会員に頓智研法を授けるというイラストにパロディ化し、駄洒落交じりのパロディの「研法」の条文などを添えて掲載した。これが「明治天皇をガイコツにたとえるとは何事ぞ!」と当局の怒りを買い、「不敬罪」に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた。

 

 この最初の筆禍事件で、外骨の反骨精神はさらに頑強になり、獄中では哲学、心理学、思想書などを読み漁り、彼自身の思想信条をより深めていった。外骨は出獄後、徹底した戦闘的ジャーナリストとして、藩閥官僚政治を徹底的に攻撃し、これらにつながる資本家、役人などをも容赦なく批判した。

 宮武外骨は、幾つもの雑誌新聞の発刊廃刊を繰り返すが、なかでも『滑稽新聞』では大成功をおさめた。「滑稽新聞」は明治34年(1901年)に大阪で創刊されたが、外骨は「小野村夫」など幾つものペンネームを駆使して、掲載記事の大半を自ら書いた。外骨の記事は、巧みに仕込まれた技巧とパロディー精神に富み、現代の週刊誌的ゴシップ風刺での切込みや、Webでのアスキーアートの先駆け的手法など、あらゆるアイデアが盛り込まれていた。

 

 外骨("骸骨”にあらず)は、讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)の庄屋宮武家の四男として生まれた(「小野村夫」のペンネームは、この出所のモジり)。幼名は亀四郎であったが、17歳の時に戸籍上の本名を「外骨」に改める。これは、亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物であった。したがって「宮武外骨」は戸籍上の本名であり、ペンネームと誤解されるのに腹を立てていたという。そのくせ、「小野村夫」ほか、たくさんのペンネームを用いており、いかにも外骨らしいエピソードであった。
 
 

〇この年の出来事

*2.11/ 森有礼文相(43)が官邸で暴漢に刺され、翌日没する。

*2.12/ 黒田清隆首相が、鹿鳴館に地方長官を招集し、政府は政党の外に超然と立つ、と訓示する。

*7.1/ 東海道線が全線開通する。新橋〜神戸間は一日一往復で、20時間かかった。

*10.13/富山 富山県魚津で米騒動がおこる。以後、米の暴騰による同様の騒動が全国各地に広がる。

*10.18/東京 大隈外相が閣議の帰途、政治結社玄洋社の来島恒喜に襲われ、爆弾により重傷を負う。

*10.24/朝鮮 咸鏡道(かんきょうどう)に防穀令が出される。深刻な食糧難のため、朝鮮咸鏡道の観察使が大豆の輸出を禁じたが、日本商人から苦情が出て、その撤回を要求する。

*10.24/ 大隈外相の条約改正交渉が批判され、黒田清隆内閣の閣僚が辞表をを提出し、黒田首相が辞任する。

*12.19/大阪 国会開設を間近に控えて、板垣退助らの呼びかけにより、旧自由党員らを糾合し「愛国公党」の結成を発表する。

*12.24/ 山縣有朋内閣が成立する。