【05 昭和60年 ライバル都市対決 横浜vs神戸】by「THE日本/1985」

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【05 昭和60年 ライバル都市対決 横浜vs神戸】by「THE日本/1985」
 

 現在の横浜市が都市を形成するきっかけは、源頼朝鎌倉幕府にまでさかのぼるが、近代の港町として発展する契機となったのは、幕末の開港以来となる。日米修好通商条約が結ばれたのは神奈川港だったが、幕府の意向で、対岸の100人ほどが住まう漁村であった横浜村が開港される。

 その横浜村に、運上所(税関)や外国人居留地(横浜居留地)が設置され、各国の外国商館が立ち並び、海外交易の拠点港として姿を整えると、首都東京の発展とともに、港町横浜は拡大していく。現在では、人口370万、18区の行政区を持ち、大阪市を追抜いて東京特別区に次ぐ日本第二の大都市となっている。
 

 一方、現在の神戸市は、平清盛日宋貿易のために大輪田泊(おおわだのとまり)をつくり、福原京を計画するなど、古くから発展の端緒をもった。幕末に開港することになり、こちらも幕府は、大輪田泊なごりの既存の兵庫港を避け、少し東の寒村であった神戸村を指定した。

 戦前の神戸は、兵庫港神戸港が一体となって拡大し、東洋最大の港として発展した。東のアメリカに向けた貿易港としての性格をもつ横浜に対して、神戸は従来から西の窓口として、中国などアジアやインド・ヨーロッパとの結びつきが強かった。しかし戦後、アメリカの重要性が拡大し、首都圏の経済力も強大になるにつれて、阪神間地盤沈下とも連動して神戸の地位は低下していった。

 その流れを決定的にしたのは、1995年の阪神大震災であった。震災で神戸は甚大な被害を受け、港湾機能が麻痺している間に、アジア諸港の追い上げをうけ、国際貿易港としての相対的地位はかつてと比べると低下した。私自身、学生時代に神戸に下宿した経験があり、震災時には既に京都に住まっていたが、それなりの思いがあり、そのことはかつて下記で記した。
*「阪神淡路大震災の記憶」http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20150117

 神戸の街は、六甲山系から、急激に大阪湾に落ち込む崖のへりにできた東西に細長い街で、市街地として開ける土地が少ない。したがって、六甲山系を切り崩し、その土砂で神戸港を埋め立てる、という形で市街地を拡大するしかない。ポートアイランドなどの埋め立て時には、六甲山から神戸港にまで巨大なベルトコンベアを築き、そのまま土砂を流し込んでいた。このダイナミズムは震災で一時損なわれたが、震災復興と併行して、六甲山摩耶山の後背部には北区や西区などが形成され、都市機能はさらに拡大されつつある。
 

(写真は「THE日本」より)
1.スポーツ事始め 「日本最初の競馬場 横浜根岸競馬場」(上)vs 「日本最初のゴルフ場 神戸ゴルフ倶楽部」(下)
2.エキゾシズム 横浜「山手外人墓地」(右)vs 神戸「北野町異人館街」(左)
3.横浜「マリンタワー」(上)vs 神戸「ポートタワー」(下)
4.ファッションタウン「横浜元町」(上)vs 同「神戸元町」(下)
5.「横浜メリケン波止場」(上)vs 「神戸メリケン波止場
6.ミッションスクール「フェリス女学院」vs 同「神戸女学院
7.横浜「中華街」vs 神戸「南京町