【18th Century Chronicle 1716-20年】

【18th Century Chronicle 1716-20年】
 

◎第8代征夷大将軍徳川吉宗、就任する。(1716年-1745年)

*1716.4.30/ 第7代将軍家継(8)没。

*1716.5.1/江戸 紀州藩徳川吉宗が将軍家を継ぐ。

*1716.5.16/江戸 幕府は、将軍家宣・家継時代「正徳の治」を進めてきた新井白石間部詮房らを罷免し、吉宗に近い紀州派によって側近を固める。

*1716.8.13/江戸 江戸城で、吉宗が第8代将軍を宣下される。(享保の改革の開始)

*1717.2.3/江戸 幕府は、普請奉行大岡忠相江戸町奉行とする。

*1717.9.27/江戸 吉宗みずからが主導し、京都所司代水野忠之を老中とする。

*1719.6.12/ 幕府は不正を働いた代官多数を処罰し、長年の世襲型代官に代えて、有能な官僚型の代官を登用する。
 


 徳川吉宗は、徳川御三家紀州藩第2代藩主徳川光貞の4男として生まれた(1684年)。徳川家康の子第2代将軍秀忠の直系が徳川宗家となり、その兄弟が開いた徳川別家が「御三家」(尾張家・紀伊家・水戸家)とされ、宗家を補完する役割を担った。吉宗は、家康の曽孫にあたる。

 吉宗は本来、紀伊家の当主になる立場ではなかったが、相継いだ父光貞と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぐことになった。紀伊藩主として、藩財政の再建に努め、成果を挙げたあと、幼君第7代将軍徳川家継の死により徳川宗家の血が途絶え、御三家出身としては初めて、吉宗が江戸幕府の第8代将軍に就任した。

 

 第7代将軍徳川家継が8歳で早世すると、徳川将軍宗家の血筋に適任者がなく、御三家筆頭尾張家から擁立されるはずであったが、正徳の治で幕政を主導していた新井白石間部詮房に対する反発が強く、反白石・反間部の幕閣や、天英院(家宣の正室)・月光院(家継の生母)など大奥からの支持で吉宗が将軍に就任した。

 徳川宗家を継承した吉宗の後、その子や孫によって別家が分立され「御三卿」(田安家・一橋家・清水家)と呼ばれるようになり、吉宗以後の9代から14代までの将軍は、吉宗直系宗家や御三卿といった紀州家血流が継承することになった。結局、御三家の尾張家や水戸家からは将軍を出すことなく、最後の15代将軍徳川慶喜も、水戸藩徳川斉昭の実子ではあったが、御三卿の一橋家の養子として、あくまでも一橋家からの将軍継承であった。

 

 吉宗は将軍に就任すると、さっそく「享保の改革」と呼ばれる幕政改革に取り掛かった。正徳の治を進めた新井白石間部詮房を解任したが、新たに御側御用取次という役職を設け、自身の意向を反映させやすい側近政治は継続した。吉宗の将軍就任を支持した老中ら既存の幕閣は据え置いたが、自らが信任する京都所司代だった水野忠之を老中に新任し、財政改革などに取り組ませた。

 吉宗は紀州藩主としての藩政の経験を活かし、老中水野忠之を通じて財政再建を始めると、定免法や上米令による幕府財政収入の安定化・新田開発などを推進し、足高の制を制定し有能な官僚の地位を確保した。そしてその一環で、大岡忠相江戸町奉行に登用するとともに、公事方御定書を制定して司法制度の客観化・効率化を進めた。

 

 また、江戸町火消しを設置しての火事対策、大奥の簡素化整備、目安箱の設置による庶民の意見の政治への反映、小石川養生所を設置しての医療政策、洋書輸入の一部解禁といった一連の改革を行った。これらの政策の狙いは、幕政の綱紀粛正と庶民の風紀健全化であったが、もう一方の大きな柱が元禄期を通して悪化した幕府財政の立て直しであった。

 財政立て直し策の根幹は増税であって、年貢を四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げた。これは実質的には2倍近い増税であり、農民には重い負担となった。定免法の採用も、凶作時においては負担増につながった。この結果、人口の伸びは無くなり、一揆も以前より増加傾向になった。

 

 江戸前期に順調に増加していた人口は、吉宗治下の江戸後期から幕末にかけては長期停滞に陥っている。これには都市化による出生率低下などの要因が挙げられるが、年貢引上げによる農民の負担増が一つの原因として考えられる。併せて、引締めによる長期経済停滞や、さらに江戸後半の寒冷期による冷夏凶作が重なった。

 封建的農本主義のもとでの幕府経済政策は、米作農業を根本にして、米作以外の商品作物や都市商人の活動に対して抑圧的にならざるを得ない。江戸など消費的大都市における武士階級および都市商工民などの増大は、そのような幕府の経済抑圧政策と相反する結果をもたらし、時代の進捗とともにその矛盾が拡大してゆく。よって、享保の改革と基本的に同じ方針の寛政の改革天保の改革は、後になるに従ってその成果が出にくくなった。
 

 規制を強化し経済を抑圧する幕府の政策は、経済だけでなく庶民の文化そのものをも抑制せざるを得ない。質素倹約を強制する社会では文化も抑圧されるわけで、そのような封建的改革の狭間である元禄期・田沼時代・化政期に、大いに経済が発展し大衆文化が花開いたというのは、皮肉な結果と言うよりはむしろ必然的な結果であった。
 
 

(この時期の出来事)

*1716.-.-/肥前 肥前藩士山本常朝によって、武士の修養書「葉隠聞書」がなる。

*1718.10.18/江戸 幕府は、江戸町火消を設置する。

*1718.5.8/江戸 幕府が庶民の華美な衣服を禁じる。

*1718.閏10.21/ 幕府が新金銀通用令を出し、両替商の人数を限定する。これにより、劣悪な宝永金銀の通用を禁止し、正徳以降の良貨の通用を進める。

*1719.10.1/江戸 将軍吉宗は、8年ぶりに派遣されてきた朝鮮通信使を引見する。

*1719.11.15/ 金銀貸借・買掛金に関して、当事者間で解決せよという「相対済し令」を出す。実質的には、負債にあえぐ旗本・御家人の救済策であった。

*1720.1.26/ 幕府は三奉行に、刑罰の基準の集成を命じる。これまで幕府は、明確な刑罰の法体系を持たなかったが、これ以降、刑法法典の編纂を進め、42年に「公事方御定書」として結実する。

*1720.8.6/江戸 江戸町火消が「いろは47組」に再編される。

*1720.12.3/大坂 近松門左衛門作「心中天網島」が、竹本座で初演され評判を呼ぶ。