【15th Century Chronicle 1461-1480年】

【15th Century Chronicle 1461-1480年】

 

応仁の乱

*1464.11.25/ 将軍足利義政は僧籍の弟を還俗させ、足利義視として養子にする。

*1465.11.23/ 将軍義政の正室日野富子に義尚が産まれる。

*1466.7.23/ 管領家斯波氏でも家督争いが始まり、将軍義政は当主義廉を廃し、義敏に家督を相続させる。

*1467.1.18/ 畠山義就が、京都上御霊社に畠山政長を攻撃し、義就は山名持豊(宗全)の支持をうけ、敗走した政長は細川勝元の支援を受け、西軍山名持豊派と東軍細川勝元派に分かれて対立し「応仁の乱」が始まる。

*1467.8.23/ 西軍の大内政弘が、大軍を率いて入京する。

*1468.11.13/ 足利義視が、西軍のもとに逃れる。 

*1471.5.21/越前 東軍に寝返った朝倉孝景が、幕府から越前守護に任命される。

*1471.8.3/ 将軍義政が正室日野富子と対立、細川勝元の新邸に移る。

*1472.1.15/ 山名持豊細川勝元に和平を求めるが、失敗する。

*1473.3.18/ 山名持豊(70)没。

*1473.5.11/ 細川勝元(44)没。

*1473.12.19/ 足利義政征夷大将軍を辞し、義尚を第9代将軍とする。

*1474.4.3/ 山名持豊の後継山名政豊と、細川勝元の子細川政元が和睦する。

*1477.11.11/ 大内政弘が京から撤収、西軍諸将も次々と撤退する。(応仁の乱の終焉)

*1478.9.16/筑前豊前 周防守護大内政弘が、少弐政資を破り、北九州を制圧する。

 

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応仁の乱対立図「世界の歴史まっぷ」より引用>https://www.sekainorekisi.com/japanese-history/%e5%b9%95%e5%ba%9c%e3%81%ae%e5%8b%95%e6%8f%ba%e3%81%a8%e5%bf%9c%e4%bb%81%e3%81%ae%e4%b9%b1/

 

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 応仁の乱は、1467(応仁1)年から1478(文明9)年までの11年間にわたって争われた。管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。

 6代将軍足利義教が暗殺されるという嘉吉の乱を収集させた管領畠山持国は、弟持富を養子にしていたが、その後「義就」が生れると、将軍足利義政にも認めさせ義就に家督を継がせた。

 

 しかしこれに細川勝元山名宗全が介入、持富の子畠山弥三郎・政長の兄弟を支持し、畠山持国は隠居、義就は京都を追われた。しかし義就は山名宗全の支持を受けるようになり、上洛すると自力で家督を継承する。やがて持国や弥三郎が死に、その弟「政長」を支持する「細川勝元」と、「義就」をかつぐ「山名宗全」の対立が表面化してくる。

  将軍家では、足利義政実弟足利義視」を養子にして後継としていたが、1465(寛正6)年に正妻日野富子に「足利義尚」が誕生する。優柔不断な義政のもとで将軍家の家督継承問題が生じると、義視の後見人である細川勝元と義尚を推す山名宗全の対立は激化し、全国の守護大名を勝元派と宗全派に分かれ、衝突は必至となっていた。

 

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 1467(文正2)年1月18日、畠山政長上御霊神社京都市上京区)に陣を敷いたが、義就側がこれを攻撃し、政長はみずから社に火をかけ細川勝元邸に逃げ込んだ(御霊合戦)。室町御所は山名軍に占拠されたが、細川勝元は領地の兵を京都に集めて対峙する。この御霊合戦が、応仁の乱の始まりとされている。

 御霊合戦の後、細川勝元畿内と四国から兵を集結させると、山名宗全五辻通大宮東に本陣を置き対峙する。細川派は勝元邸と室町御所を中心に京都北部から東を、山名派は宗全の屋敷を拠点に西部と中央を固めた。こうして勝元と宗全の屋敷の位置から、それぞれ東軍・西軍と呼ばれた。「応仁記」によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったとされるが、細川派は畿内と四国を勢力圏としており、当初の動員が速く優勢とされた。

 

 東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えていたが、さらに1467(応仁1)年5月26日、室町御所近隣で戦火が起こると、細川勝元は室町御所を押さえ将軍義政らを確保した(上京の戦い)。やがて西軍の反攻があり戦火はさらに拡大したが、足利義政は両軍に和睦を命じ、義政は将軍牙旗を足利義視が率いる東軍に下した。6月に入ると東軍は、足利義視率いる官軍として総攻撃を開始し、戦火で上京の大半が炎上、西軍は投降寸前にまでに追い詰められた。

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 しかし6月半ばから西軍の援軍が到着し始め、8月23日には周防国大内政弘が大軍を率いて入京すると、西軍は一気に勢力を回復する。大内政弘船岡山に陣取り、東軍派武田勢を追い、逃げ込んだ醍醐三宝院に火を放った。さらに9月18日に京都郊外の南禅寺山の戦い(東岩倉の戦い)、10月3日には相国寺の戦いが起こり、東軍は劣勢に立たされた。

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 翌年になっても市街各地で戦闘が続いたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨などで両軍が交戦した。足利義視は、細川勝元足利義政に説得されて東軍に帰陣していたが、義政が義尚擁立に動き出したのをみて、比叡山に出奔する。西軍は、その義視を新将軍として迎えたため、東西の幕府が並び立つこととなる。

 

 大内政弘の軍事力によって山城国はほぼ西軍によって制圧され、洛中での戦闘は散発的になり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。さらには、お互いの領国を襲うようになり、上洛中の守護大名の領国にまで戦乱が拡大した。

  長引く戦乱と盗賊の跋扈によって、京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。上洛していた守護大名たちは、領国にまで拡大した戦乱により、京都での戦いに専念できなくなり、さらに幕府の権威が著しく失墜したため、もはや京都で戦う意味を失っていった。

 

 東西両軍の間に厭戦気分が漂うようになっていたところに、1473(文明5)年になると山名宗全細川勝元が相次いで死去した。さらに12月には、足利義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。義政は新邸に移り酒宴にふけり、室町御所に日野富子と義尚が残り公事を司った。

 1474(文明6)年4月、山名政豊細川政元の間に和睦が成立する。それでも、あちこちで各自武将は惰性的な小競り合いを続けて、もはや東軍西軍もなく、自らの都合のために戦うだけだった。

 

 領国の守護職を安堵された大内政弘は、1477(文明9)年11月11日に京から撤収し、西軍は事実上解体されて、西軍の守護たちは国に帰っていった。9日後の11月20日、幕府によって大乱の終焉を祝う祝宴が催され、応仁の乱の幕が降ろされた。 

 乱の終了後も山城国では畠山政長と義就が戦い続けていたが、続く戦乱に怒った国人や農民が1485(文明17)年「山城国一揆」を起し、両派は国外に追い出された。また、加賀で東軍に参戦した守護富樫政親は、1488(長享2)年「加賀一向一揆」によって居城を攻め落とされてしまう。

 応仁の乱は、幕府という中央権力が崩壊し、国人(土着武士)や守護大名の家臣が、自力で支配権を確立してゆく流れを促進し、やがて戦国の世の中に突き進んでゆく。

 

(この時期の出来事)

*1461.2.-/ 寛正の大飢饉で、京都では鴨川が死体で埋まる。

*1471.7.27/越前 蓮如が吉崎に御坊を建てる。

*1474.11.1/加賀 一向一揆が蜂起し、西軍の富樫幸千代の軍勢と戦う。