【奇人・変人・怪人伝02「怪人」】

 

『怪人赤マント』
《 むかし小学生のあいだで「赤マント」伝説がありました。なんでも「赤マント」という怪人が電柱の陰などにかくれていて、こどもをさらってゆくというのです。わたしたちはその恐怖におびえました。ついこのあいだ、こんどは「口裂け女」伝説が小学生のあいだにつたわりました。》

 

 山野が切り開かれて妖怪の棲息する場所が少なくなるとともに、現代の怪人たちが街角に姿をあらわす。この「赤マント」や「口裂け女」のような怪人たちこそ、伝統的な妖怪に代わって登場する「現代の妖怪」といえるであろう。人間と動物を折衷したような姿をした妖怪とはちがって、現代の怪人たちはいちおうヒトの姿をしていると見なせる。一方で、奇怪な容姿をしていて具体的な「わるさ」するような点では、奇人・変人とは異なり妖怪に近いところがあると考えられる。
 

 怪人たちは、妖怪のように特定の所に棲まっているというより、街中に突然姿をあらわし人々を驚かせることがおおい。現代の「変人」の氏素性が不鮮明なのとおなじく、怪人もその生活のにおいを感じさせない「都会の中の他人」のひとりではないかと思わせるところがある。街頭の雑踏で行き交っていればそれとはわからないような普通の人が、たとえば夕暮れ時の街角で出あってマスクをとれば「口裂け女」であったというように、都会のなかの知らない人々への漠とした不安感が、奇人・変人と同様の都会型の伝説を形成しているのではないかと考えられる。
 

口裂け女
《 私が生まれ育ったのは岐阜県の小さな山合いの町でして、どうでもいいウワサが生まれては消えていった(子供の間で)のですが、一つだけ鮮明に覚えているのが「町外れの用水池のほとりの小屋に口裂け女が住んでいる」というものです。
 このウワサは岐阜県が発祥の地だったようで、地元TVも怪奇特集を組んで流していた記憶があります。》

 

 戦前からの怪人「赤マント」は、前述したように「学校伝説」のなかに棲息の場所を見つけていったようである。「赤マント青マント」の噂として、もっぱら学校のトイレに出没するのみになった。それにかわって近年、街なかで猛威をふるったのがこの「口裂け女」である。
 

 「口裂け女」が狭義の伝統妖怪とことなる点は、マスクをさえしていればなんの変哲もない普通の女性だというところにある。現に噂がピークのころ、いたづらで真っ赤な口紅で口を大きく描いて「口裂け女」に扮装した女性が、街なかをふらついて警察沙汰になった事件もあったという。噂を伝えあう子供たちにとっては、「どこにでもいるお姉さん」が突然「口裂け女」に変身してしまうところに恐怖の核心があったのだろうとおもわれる。
 

 前掲書『妖怪の民俗学』では、「口裂け女」と「産女」との関連が指摘されている。たしかに、山中に棲み里に現れてはいたずらをする「山姥」系列の伝説との類似点はある。しかし妊産婦であった「産女」と、マスクをはずして「わたし、きれい?」と問いかける「口裂け女」のイメージが、はたしてぴったり重なりあうであろうか。
 

『赤ちゃんを手渡す女性』
《 それと、先日ニュースになった、夜道で突然赤ちゃんを手渡されたという女性の狂言がありましたが、あのニュースを聞いた時、まるで妖怪「産女(うぶめ)」のようだと思ったものです。
 この妖怪は、水木しげる著『妖怪画談』(岩波新書)によれば「難産で死んだ女が、死後“産女”という妖怪になって現れる」といい、「川で泣いている女がいるので、どうしたのかと思い声をかけると、子どもを抱いてくれという。驚いて抱きあげると、その子どもは人間ではなく石であった、などという話が伝えられている。」ということです。夜道で「子どもを抱いてくれ」というのが、小生には怖い気がします。》
 


 「産女」には、わが子の生命への執着がある。難産で死んだ自分という個体を越えて、「血の継続」のために妖怪となってあらわれる。一方「口裂け女」は、整形手術の失敗という話が付加されることからみても、あくまでも自我への執着が前面にでている。「わたし、きれい?」という問いかけには、自分の美貌という「個体への執念」のみしか見うけられない。
 

 そういう意味では、「口裂け女」は自我の肥大したきわめて現代的な女性である。たとえ彼女が妊産婦であったと想定しても、コインロッカーにわが子を遺棄するような現代的な母性喪失のイメージのほうがふくらみやすいのではなかろうか。いずれにしても、「口裂け女」からは「産女」のような母性は感じとることができないとおもわれる。
 

 つぎのような、解釈不明の怪奇譚もある。

『電柱の花嫁』
《 意味の分からない怖さという点では、もっと凄い話を某作家さんのデビューを祝うパーティの席上、別の作家さんから聞いたことがあります。
 その作家さんの知人が、ふと上を見上げたら、電信柱の上に角隠しをした花嫁さんがいて、ほうきを持って掃除をしている姿が見えた。思わず、ぞっとして、目をそらした・・・という、それだけの話なんですが、いったいこれは何だったんでしょうね?》
 

 まさしく意味の不明さがこの話の怖さをつくっている。「角隠しをした花嫁」と「電信柱の上」というミスマッチが、シュールな怖さを生みだしているのであろう。さきに紹介した『幽霊電車のオカッパ少女』と同様、解釈を拒否するような怖さも現代伝説の一特長ということにしておこう。あえて共通項をあげれば、「処女性のもつ不定形な恐怖」というところであろうか。
 

 妖婆というより「怪婆」と呼んだほうがよさそうな老婆怪人も、現代伝説の重要なヒロインである。「高速並走老婆」もそうであったが、荒唐無稽な要素がついたものがおおい。
 

『サルババ伝説』
《 サルババとは、もじどおり、猿のような風体をした老婆です。ぼろぼろの着物を着て、川の土手に穴を掘ってその中に住んでいます(草津などにはいわゆる天井川という、堤防が非常に高くなった川があるので、そのことでしょうか)。
 部屋の中には子供たちから掠め取ってきた野球盤がいくつもかざってあり、それをぴかぴかに磨いて満足しているといわれています。サルババは丸太で作ったバイクにのって、高速で疾走するそうです。》

 

 なぜ「怪婆」は、高速で疾走するのが好きなのであろうか。それにしても、野球盤や丸太のバイクというところがいかにも荒唐無稽である。
 

『ジャンピング婆』
《 じゃんぴんぐばばあがこころから離れない
 大学は仙台だったのですが、その時聞いたうわさで、「ジャンピング婆」というのがありました。どうやら、八木山橋(自殺の名所、といわれていた)に出没するらしいいのですが、どういうものなのかよくわからずじまいでした。》
 

 「ジャンピング婆」というからには、ピョンピョンとジャンプするのであろうか。躍動感あふれる婆さんである。いずれにしろ、男性の老人があまり登場せず「怪婆」ばかりというのは、老婆の生命力の強さに感心せずにはいられない。「山姥」から「怪婆」へと、噂の世界でも老婆たちは活躍しつづけている。古典から現代伝説へと、老婆たちはリニューアルしつづけるのである。
 

*『現代伝説考(全)』はこちらから読めます
http://www.eonet.ne.jp/~log-inn/txt_den/densetu1.htm