現代伝説考11

タクシーから消えた女性客は・・・

3.車とともに移動する霊・妖怪

3-1.高速伴走するお化け
 事故にかなならずしも関係しなくとも、車にまつわる霊や妖怪は登場する。古典的な妖怪に「べとべとさん」というのがあるそうだ。ひと気のない山道などを歩いていると、ペタペタと足音がついてくる。振り向いてみてもなにも姿が見えない、というやつである。

 ここにあげる「高速伴走するお化け」は、この「べとべとさん」の現代版といえようか。自動車などで高速で移動する現代人には、お化けも同じように高速でついてくるところがおもしろい。

『#286-1高速並走する老婆』
《彼から3年前の正月に聞いた話です。そいつが夜クルマで高速を走っていたときのこと。ふとクルマの外を見ると、お婆さんが飛んでいるのだそうです。とうぜんこの世の婆さんではありません。それが他のクルマに混じって、そいつのすぐ近くを“疾走”し続け、結局「100kmくらい一緒に走ってた」とか。
 場所は高速道路(東名だか名神だかだったと思います)で、その弟も走ってる訳ですから、時速100km前後は出ているわけですね。で、まず驚くのが、オバケがクルマと同じスピードで疾走するという点、もう一つはそんな何百kmも走るものかという点です。》
 「異空間伝説」の章でもあげたように、この高速老婆は北陸自動車道にも「でる」と報告されている。高速道路を川や橋にたとえるとするならば、この高速並走老婆もまた「境界」に出没する妖怪のひとつと考えられる。

 このような、これといった悪さをするわけでもない妖怪どもはなんのために境界に現れるれるのだろうか。妖怪と出くわす人の意識の側からみれば、異界への漠とした畏れが潜在的にあるだろう。それに、孤独な情況で不安が増幅されて妖怪が登場することになる。高速道を疾走する車の運転者であれば、さらに事故への不安感がつけ加わるはずである。

 バイクライダーにも、この種の話はある。いくら速く走っていても追い抜かされてしまうというのが主題であるが、ライダーにとって後ろから追い抜かれるというのは不安を感じさせる瞬間でもあろう。

『#105-1超高速バイク』
《前輪だけのW1篇というのは、後ろから追いかけてくるオートバイがいて、どんなにこっちが頑張って走っても間隔がどんどんつまってきて、背後に来たときにはその音からして設計が古くとても早く走れるようなバイクではないはずのW1であることがわかり、で、横に並び、そのまま消えてしまうというやつです。》
 同じ投稿から、トンネル編も。

『#105-3トンネルでの追い抜きライダー』
《トンネルの中で追い抜いていくライダー篇というのは、さっきまで誰も後ろにいなかったはずなのにトンネルの中でいきなり抜かれ、トンネルを出たところにはやはり誰もいない、というやつですね。
 ま、最後のやつはこれは単にそいつが凄く遅いやつであったという可能性もあるわけですが(=^_^;=)、ほかの2つも長く走って疲れててライダース・ハイになってて(って意味がちがーう)時間感覚とかなくなってたら体験してもさほど不思議なことではありません。とかいうとオチがついちゃってつまらんか。》
 バイクの後部シートを重くする幽霊は先にも紹介したが、この投稿ではその出典らしきものも示されているので引き続き引用する。

『#105-5タンデムシートを重くする幽霊』
《そだなー。あ、あとひとつ出典が明らかなやつがあったな。朝比奈峠のタンデムライダー篇。ぼくが読んだのは三好礼子の「風より元気」のどれかのエピソードとして紹介されてたやつですが、その前になんか原型があったのかもしれません。で、別ルートでも聞いてますが、「風より元気」からまわったのか、原型からまわってきたのかまでは知りません。
 えーと、三浦半島東岸から鎌倉向かうときに通る朝比奈峠ですが、そこを通る時にいきなりタンデムシート(バイクの二人乗り用のシート)が重くなる、と。それはどうせ峠を攻めてておっ死んじゃったライダーのおばけさんだから、しばらくそのまま走ってやれば供養になる、つうやつですな(=^_^;=)。物語の中では「死んでもやっぱバイクに乗りたいもんねえ」とかいってしばらく乗せておいてやるという豪傑の女のこが、会話の中に出てきます。》
 ライダーたちは事故に鋭敏であろうから、当然事故の噂とともに幽霊も登場する。たくさん事故の起こった場所で、ライダー仲間に幽霊の噂が伝えられても不思議ではないだろう。この話の舞台も「峠」であり、異界との境界という設定にあてはまる。死んでもバイクに未練がある幽霊というあたりは、いかにもライダーの噂としてふさわしい。

 なにやら得体の知れないものが並走してくるというのは、それ自体で不気味なものである。電車にも並走する幽霊譚がある。

『#129-5幽霊電車のおかっぱ少女』
《社内の、埼玉の大学に通っていた女性の話。東武伊勢崎線の上りの最終電車に乗ると、荒川を渡るあたりで並行して走るJRの幽霊電車とすれ違うそうです。そのJRの幽霊電車におかっぱ頭の少女が乗っているとのこと。最終電車に乗るときは、そちらを見ないようにしていたとか。》
 高速道の自動車やバイクほどには事故への不安は感じないにしても、電車というのはまったくあなたまかせに乗っているよりしようがないものである。走行している電車からはかってに降りるわけにはいかないし、ある種の閉所に閉じこめられたような不安もある。そしてまた、ほとんど見ず知らずの多数の人々が、これほど身近に接する機会もかつてはなかったであろう。そのような都会生活の不安が、電車内では集約的にあらわれてくる。

 満員電車内での痴漢が「悪さをする妖怪」だとすれば、終電車のがらんとした雰囲気の中ではまた別の妖怪が現れる。なんの悪さをしないでもその存在自体が不気味な妖怪が、この場合の「おかっぱ頭の少女」に相当する。

 噂に出てくる老婆とならんで、「少女」というのも分析にあたいする。少女という概念が成熟した女性との対極にあるとすれば、処女性・霊性といったシャーマンに近接したイメージも描ける。また、少年(男の子)が将来においてそれなりの社会的機能を想定されやすいのに比較して、未確定性の不安もはらんでいる。この幽霊電車に、坊ちゃん刈りの少年が乗っていてもさほど怖くはないのである。

 この幽霊電車の出現する場所が「荒川を渡るあたり」という、境界上に位置するということも指摘しておいて、つぎにうつろう。

3-2.消えるタクシー客
 いわゆる「タクシーから消える女性客」という噂が、いくつもある。共通項は、行き先が水に関係する場所であったりシートの座っていた跡が濡れていたりと、水と縁が深いことであろうか。「水と美女」については、後章で独立して取りあげる予定である。ここでは、現代伝説とタクシーの関連を中心に考えてみよう。

『#23-5消えるタクシー客』
《「バックミラー」でまたひとつ記憶が...(^^;。タクシーの運転手さんから聞いたのかなー、どうも定かでないですが。夜、街を流していて、影の薄い感じの女性を拾って乗せた。ふと、ミラーをみると、後部座席にいるはずの女性がミラーに映らない。ギョッして振り向くと、確かに女性はシートに静かに座っている。
 降ろしたあとで後部座席を調べると、座ってた辺りがジットリと濡れていたとか。たんに「おもらし」しただけだろう、という説もありましたが(^^;。》
 この種の噂は消えた幽霊が発生源でないかぎり、当のタクシー運転手からでてきた可能性が強いと考えられる。タクシードライバーは一日のうちに何人もの見知らぬ客を乗せる。人相の悪い客に、深夜もの寂しい行き先をつげられた場合などには、タクシー強盗の恐怖にかられることもあるだろう。乗り逃げされた経験も一度や二度はあるはずである。そんな不安感がタクシー伝説の土壌となっているとおもわれる。

 強盗や乗り逃げにあえばそれはもう噂の次元ではないが、実害はなくても気味の悪い女性を乗せた場合などは仲間内で噂を交換しあうことになるだろう。そういった状況から噂が発酵してくる可能性が考えられる。見知らぬ他人と身近に接するという不安が現代都市生活の基調にあるとするならば、タクシーという密室で幾多の他人と遭遇するタクシードライバーは、現代人の不安を代行する語り部のひとりであろう。

 「消える女性客」は、もちろん「境界」に位置するトンネルにも出現する。

『#379-3K音坂にまつわる噂』
《その坂のトンネルの入口に,西から東に向いていくと,女が出てきて<市場>(近くの地名)につれていけというそうだ。大体,タクシーか,白い車に出るのだそうで,いなくなったあとは,シートが水浸しだそうだ。その坂の下に池があるので,そこに誰か自殺でもしているのではないかと,水抜きをして調べるが,なにもでなかった。わしも,ムシロを持って,見にいったことがある。真夜中から,朝までまっていたが,なにもでなかった。》
 突然道ばたに現れれるという点からは、伝統妖怪の山姥(やまんば)や産女(うぶめ)などとの関連も考えられる。宮田登著『妖怪の民俗学(*1)』によると、山姥はいろいろと悪さをする鬼婆や鬼女の系列と、出産時に里に現れ村人に手助けを求めるという産女の系列があるようである。後者の「産女」は、妊娠中に死んだ女性の霊が胎児だけは助けたいとの一念からこの世にあらわれ、旅人たちに子を託して去ってゆくという形をとるものが多い。もちろん産女も、道の辻や橋といった境界と見なせる場所に多く出現する。

 産女には出産という生と死にまつわる怨念が強く感じられるが、「消える女性客」の話からは生への執念はほとんど読みとれない。産女伝説が消える女性客の噂の母胎となっていると仮定すると、そこから出産という生命現象が欠落してしまうところに後者の現代伝説性をみることもできよう。血脈の維持を重視する母性よりも、「個」としての女性が主題として浮上しているのである。とすれば、その個としての存在の痕跡が「シートに残された水」だけだというのも、なにやら現代的な意味を詮索する要がありそうである。

 産女に似た話で、舞台が海べりになると「濡れ女」や「磯女」の伝説がある。そして「消える女性客」にも海岸版がある。

『#122-4越前海岸の怪』
《私は,仕事の加減で,仕入に武生によく行くのですが,そこの仕入先のご主人からきいた話。
 越前海岸を夜走っていて,ふと,バックミラーを見ると,見知らぬ女性が後部シートに座っている。あわてて後を振返ると,誰もいない。おりてシートを点検してみるとしっとり濡れている。
 但し,この女性は,地元の人の車にしか出現しない。
 また,越前海岸では,ひとりで夜釣りをしている人が,海からの呼ぶ声に引きこまれるという事故が頻繁に起こっているそうで,私も,そんな話をいろいろきいてからは,恐くなって,一人で夜釣りに行くのは,やめにした。》
 前掲著によると、濡れ女系の伝説には産女とは異なり、「牛鬼」という人に祟る妖怪がセットで出てくることが多いという。また磯女の叫び声が、聞いた人の躯を硬直させるといった説話もあるらしい。引用の後半などは、タクシー伝説と濡れ女・磯女系列の伝説が重ねあわされ混交されている例ともいえよう。ギリシャ神話「サイレン」を思いおこさせる話でもある。

 「消える女性客」の話も、それが語られる年代や土地柄と結びついて独自の色あいをみせる。

『#175-1斉宮村の消える娘』
《きょうも、母から聞き出した話です。
 遊女の顔の話と同じく、昭和十年代頃の伊勢で、子供たちが耳にしたり、話したりしていたものだそうです。
      〜*〜  〜*〜  〜*〜  〜*〜  〜*〜
 伊勢の櫛田川と宮川の間、王朝文学によく出てくる斉宮が在ったとされる斉宮(さいくう)村の、金剛坂というところにきれいな娘さんが住んでいました。
 この娘さんは体が弱く病気がちだったそうですが、ある夜、タクシーで帰宅した娘さんは、お金を払う段になって「持ち合わせがないので取りに行ってくるから待っていてほしい」と運転手に言い残して、家の中に入っていきました。
 ところが、待てども、待てども、娘さんは戻ってきません。業を煮やして運転手の方から屋敷に入っていくと、呼ばれて出てきた家人は、事情を聞いて驚き顔。「何かの間違いではないか、娘は数日前に亡くなったのだが…」と運転手に告げました。
 狐につままれたような面持ちの運転手が、車に戻ってみると、娘さんがいた座席は、ちゃんと人が座っていたように凹んでいたとか…。》
 昭和十年代頃といえば、タクシーはけっして庶民の乗り物とはいえないだろう。ある程度裕福な家庭の若い娘という設定が、聞き手の願望をくすぐる。また「斉宮」という土地の響きからは、娘の処女性をも想起させる。タクシー伝説にでてくる女性はほとんどが影のうすい女性であり、妊娠や性のにおいを感じさせない処女性をただよわせている。どう考えても、山姥や産女系列の怨念とはなじまない要素をかかえているのである。

 もうひとつ、京都の深泥池にもタクシー伝説が報告されているが、これは池にまつわる古来の伝説が深くかかわっているようなので、後段の「水と美女」の項にゆずることになる。

(*1)『妖怪の民俗学宮田登 著(岩波書店「同時代ライブラリー」1990)

3-3.つれ去られる話
『#97-2八王子の白いローレル』
別冊宝島92「うわさの本」に書いてあるやつです。(うわさの宝庫ですね)
女子がナンパされて車で奥多摩の山中に連れていかれて、バリカンで丸坊主にされるそうです。》
 端的に出典が明示されているように、前掲書『うわさの本』でくわしく取りあげられている噂である。ここでは筆者の佐伯修により、八王寺という都市のもつ位相空間が精緻に分析されている。栗本慎一郎を思わせる「都市の光と闇」という視点も興味深いが、とりわけ八王寺市のもつボーダー性という指摘に注目しておきたい。

 膨張しつづける東京首都圏は、ここ八王寺にきて西部に広がる関東山地にせき止められる。まさに「光の都市東京」の終端に位置するのである。そのような境界の街において、車の高速移動性は異界と往来するトランスポートマシンの性格を存分に発揮するであろう。

 同じ投稿の続きで、神戸六甲山の噂もあげられている。

『#97-3六甲おろし
《六甲に深夜ドライブに行き、夜景を見ながら
「おい、やらせろよ」
「いやよ」
「じゃあ、ここで降りてもらうぞ」
女は降ろされると、辺りの暴走族に回されるので、それではかなわんということで、しぶしぶ同意する。
...その後、運悪く妊娠  つまりこれが本当の「六甲おろし」》
 「六甲おろし」という駄洒落はおくとしても、六甲山から神戸の街の夜景を見おろせばこの山系のもつ境界性は即座に感知されるだろう。「光の街神戸」は、六甲山系により決定的に北部への進展をせき止められている。ここでも、境界と車という舞台装置が中心的な役割をしめていることはいうまでもない。

 「カー・ナンパ」というのは、見知らぬ男女がインスタントな交遊関係をとり結ぶ現代若者の性風俗のひとつである。声をかけられる女性の側からすれば、未知のスリルと不安を同時にあじわう瞬間でもあろう。そして、車でどこかへ連れていかれる。

 この種の「つれ去られる話」の不安には、現実の誘拐事件の記憶が背景にあるとも考えられる。ベレー帽をかぶった芸術家を自称する犯人が、白いスポーツカーで若い女性を誘惑した連続誘拐殺人事件は、今でも記憶に生々しい。事件を知っている者は、「白いローレル」という言葉から即座に当時の記憶をよみがえらせることであろう。

 自動車が普及する前までは、子供たちは夕方おそくまで道端で遊ぶのが常であった。そのころ親たちは、「早くかえらないと、人さらいにつれ去られるよ」といって子供たちをおびやかしたものである。場合によっては「サーカス団に売り飛ばされる」という言葉がつけ加えられることもある。ふるくには「神隠し」という伝承の記憶もある。そのような意識の底に沈潜した記憶が「つれ去られる話」のリアリティにかぶせられているともいえよう。

 境界に位置する場所柄と高速移動する車をからませれば、即座に「異界」は出現する。その異界は、街はずれのモーテル群といった「光の空間」である場合もあれば、ほうり出される山中という「闇の空間」であったりする場合もある。そして、その意志決定はナンパするオニーチャンやオジサンの側にゆだねられている。彼らは、ときによると悪さをする現代の妖怪にたとえられるであろう。もちろん、魅力ある妖怪に出くわすスリルをあじわいたいという若い女性の側の心理も、カー・ナンパという現代風俗をささえているのではある。