【アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)

アメリカの歴史】16.レーガノミクスと冷戦終結(1975-1989)

 

 リチャード・ニクソンは、中華人民共和国を電撃的に訪問して外交関係を結び、ソ連を訪問して軍縮デタント(政治的緊張緩和)を演出し、泥沼のベトナム戦争を何とか終わらせた。また経済対策ではドル防衛のため、米ドルの金兌換停止を宣言して、ニクソン・ショック(ドル・ショック)と呼ばれる衝撃を世界に与えた。

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 ベトナム戦争で疲弊したアメリカの国力を立て直すために、迅速に対策を打ち出したニクソンの政策は評価され、1972年アメリカ合衆国大統領選挙では圧勝した。しかし、やがて「ウォーターゲート事件」が発覚すると、側近らと汚い言葉で話す様子なども暴露され、それまでのニクソン人気は一転して地に落ちた。

 

 ニクソンは議会の公開の公聴会で証言させられ、さらに国会の弾劾に直面すると進退は極まり、1974年テレビの会見で辞任を発表する。その後継となったジェラルド・フォードは、ニクソンに対する恩赦を発効し事件調査を終わらせた。

 

 ニクソン辞任で大統領を引き継いだフォードだったが、ニクソンに恩赦を与えたことなどが尾をひき、1976年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党ジミー・カーターに敗れた。ジミー・カーターは人格的高潔さなどで知られたが、その任期中にイランのイラン革命ニカラグア革命・ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻など、幾つもの外交的難問に直面することになる。

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 1979年11月、革命後のイランではアメリカ大使館人質事件が起こり、52人の大使館員を人質にして、アメリカに亡命したシャー(前国王)の引き渡しを要求した。カーター政権は、アメリカ大使館占拠を防げず人質救出作戦にも失敗したことから、「弱腰外交」との批判を浴びた。人質が解放されたのは、占拠から444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日は、共和党レーガンに選挙で敗れ、カーターがホワイトハウスから去る日だった。

 

 1970年代はアメリカの自信を揺るがせる時代となった。ニクソンの不名誉な辞任、ニクソンに特赦を与えて国民の不信をかったフォード、そして民主党になっても弱腰外交と批判されたカーター、国民は大統領に信頼を置けない時期が続いて「強い大統領」を渇望する状況となっていた。そして1980年の大統領選挙では、共和党レーガンジミー・カーターに圧勝した。

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 ロナルド・レーガンは、ハリウッドの映画俳優からカリフォルニア州知事に転じ、その後1981年1月大統領に就任した。レーガン大統領の1期目は、カーター政権から続くスタグフレーションの解決が課題となった。レーガンは、「レーガノミクス」と呼ばれた経済政策を推進した。

 

 レーガノミクスは、供給面から経済を刺激するサプライサイド経済学に基づいており、直面するスタグフレーションの弊害を抑える対策とされた。減税や規制緩和による供給面からの経済刺激を重視し、マネーサプライを増やすマネタリズム的な「通貨高政策」を前提条件にしておち、これはF・ルーズベルト以来の、ケインズ経済学に根拠を置いた需要重視政策からの転換と考えられた。

 

 しかしレーガノミクスは実質的に、ミルトン・フリードマンが主唱者とされるマネタリズムと、それまで主流だったケインジアン政策との、折衷策だったことがうかがえる。1983年に景気回復が始まったが、これは軍事支出の増大と減税という財政政策による消費の増大(乗数効果)が主因と考えられ、ケインズ効果でしかないとされる。

 

 一方で、レーガンノミクスで高金利政策が行われたことによって、ドル高が進行し、輸出の減少と輸入の増大が起こったこと、また、スターウォーズ計画のような防衛政策に対する巨額の財政支出や減税政策が、海外からの輸入増によって需要超過を満たすことで、高インフレから脱出することに成功した。

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 しかしながら、税収減と軍事歳出の増加は「財政赤字」を増大させ、ドル高の持続と景気回復によりさらに「経常赤字」が増大した。レーガン政権は「アメリカ経済は復活した」としたと政策の効果を主張したが、この「双子の赤字」は、その後のアメリカ経済の大きな重石となった。

 

 外交面では、ジミー・カーター前大統領時代にイラン革命などに弱腰の対応しかできなかったとして、レーガンは外交に関しては強硬策を展開し、「強いアメリカ」を印象付ける政策を推進した。

 

 しかしレーガン政権の2期目には、「イラン・コントラ事件」に代表される数々のスキャンダルに見舞われ、レーガン政権の体質に批判が集中した。それでもレーガンは強気の姿勢を通し、デタント(軍縮などに緊張緩和)を否定し、ソビエト連邦を「悪の帝国」と批判した。

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 「力による平和」戦略によってソ連及び共産主義陣営に対抗しつつ、「レーガン・ドクトリン」を発して「新自由主義」を提唱し、イギリスの「サッチャー首相」・日本の「中曽根康弘首相」・西ドイツの「コール首相」などの同盟国の首脳と密接な関係を結び、世界中の反共主義運動を支援し、ソ連を経済的に追い詰めることに成功した。

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 東西緊張関係は「ミハイル・ゴルバチョフの登場」後に急速に緩和された。ゴルバチョフは、西側諸国の支援と協調でソ連の復興を目指したが、時すでに遅く、やがて東欧やソ連の崩壊に至る。かくして「東西冷戦」は終結した。

 

【アメリカの歴史】15.ベトナム戦争とアメリカ社会のかげり(1964-1975)

アメリカの歴史】15.ベトナム戦争アメリカ社会のかげり(1964-1975)

 

 1960年に結成された「南べトナム解放民族戦線(ベトコン)」は、北ベトナムの事実上の支援を受けながら、南ベトナム領域でのジャングルで、ゲリラ戦術を展開し、熱帯のジャングル戦に慣れていないアメリカ軍を悩ませた。

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 ジョンソン大統領は、1964年の「トンキン湾事件」を口実に、北ベトナムを爆撃(北爆)を開始した。さらに北爆は恒常的となり、地上軍20万人の軍が投入され、アメリカと北ベトナムの間の宣戦布告なき「ベトナム戦争」となった。

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 1968年1月の解放勢力側の「テト(旧正月)攻勢」から、形勢は完全に逆転し、ソンミ村虐殺事件など米軍の民間人殺戮事件が表面化し、アメリカ国内や世界各地ではベトナム反戦運動が盛り上がるなど、ベトナム戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。

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 1969年に、共和党ニクソン大統領が就任すると、ベトナム反戦運動の高まりに押されてベトナムからの撤兵を表明した。しかし一方で、供給ルートを絶つとして周辺のカンボジアラオス空爆するなど戦線を拡大し、第2次インドシナ戦争の様相を呈した。

 

 1972年、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領は、中国を電撃的に訪問、さらにソ連も訪問して、お互いのバックにひかえる大国間で頭越しの話し合いを開始した。同時にニクソンは北爆を強化しながら、キッシンジャーとレ=ドク=トの間で秘密交渉を進めさせ、1973年1月に「ベトナム和平協定」を成立させた。

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 アメリカ軍のべトナム撤退は開始されたが、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、北ベトナムの支援の下、南ベトナム解放戦線よって首都サイゴンが陥落し、ようやくベトナム戦争終結北ベトナム主導で南北統一が実現した。

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 ベトナム戦争第二次世界大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。

 

 当初アメリカ合衆国の世論は戦争を支持したが、ベトナムでの米軍若者の死者が増え、一方で米軍の残虐行為などが表ざたになるなど、アメリカの「正当性」が疑われるようになり、世論の支持が失われていった。

 

 ひとつの大学のキャンパスで始まった小さな反戦運動は、戦局の進展に従って大きな世論を形成していった。学生たちは大戦後に生まれたベビーブーマーの世代で、反戦運動公民権運動やフェミニズム環境保護運動など、人権問題や環境問題と絡まり合って、時代の流れにプロテストする若者の運動は、世界の先進国に波及していった。

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 ベトナム戦争での事実上の敗戦は、アメリカ合衆国に大きなダメージを与えた。アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、一方で国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立など、大きな打撃となった。ベトナム帰還兵の社会復帰も深刻で「ベトナム症候群」と呼ばれ、社会的な後遺症をもたらした。

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 そんな中で、若者を中心に「カウンターカルチャー」と呼ばれる新しい価値観が、既存の主流社会の文化に対抗して生まれてきた。より自由な生き方を求めて、平和・愛・自由を主張する「ヒッピー文化」が生まれ、彼らはフォークやロックと言った音楽に心酔し、LSDマリファナなどの幻覚剤を使用する風俗も誕生した。このようなカウンターカルチャー革命は、1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルなどで体現された。

 

【アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)

アメリカの歴史】14.東西冷戦と米ソの代理戦争(1945年〜1964年)

 

 第二次世界大戦が連合国側の勝利で終わると、「アメリカ合衆国」がその圧倒的な経済力で、戦後世界で疲弊しきった欧州など自由主義国の復興を支援する立場になった。同じく連合国として戦った「ソビエト連合」は、唯一の共産主義国家として、本質的に相容れない自由主義国家と対立することが明確になった。

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 さらに1949年に、毛沢東によって中華人民共和国が成立すると、ソ連が勢力圏とした東欧諸国も含めて、世界の3分の2を占める勢力となった。アメリカに続いて、ソ連が核実験に成功し、中国もそれに追随するなど東西が莫大な核を保有して、その「抑止力」によってホットな戦い、すなわち兵器を用いての「熱い戦い」ができない状況となった。このような対峙状況は「冷戦」と呼ばれた。

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 F・ルーズベルトの死去により、副大統領だった民主党ハリー・トルーマン」が後を引き継いだが、アメリカ合衆国は、戦後世界の民族自決・平等な経済機会・資本主義の再建をめざし、その膨大な富を提供する方針を示した。

 

 一方、ソビエト連邦を強権的に仕切る「ヨシフ・スターリン」は、ポーランドルーマニア東ドイツなど東欧に親ソ連共産党政権を立て、西ヨーロッパ自由圏との政治・経済的な境界を構築した。これにより欧州大陸は東西に分裂し、これを前英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテン」と呼び、米ソ冷戦時代が始まった。

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 アメリカ合衆国は、第二次世界大戦による荒廃から立ちなおさせるために、マーシャルプランと呼ばれるヨーロッパ復興計画を実施し、膨大な資金を供給した。これは経済支援であるとともに、ソ連を盟主とした共産主義勢力と対抗するためでもあった。

 

 アメリカ合衆国自由主義西欧諸国は、「北大西洋条約機構 (NATO)」という軍事同盟を結成し、一方のソ連は、NATOに対抗するため東側共産主義国を統合し「ワルシャワ条約機構」を結成して対峙することになった。

 

 米ソの東西冷戦はそのまま数十年続くが、その間に何度も最前線で代理戦闘が起きた。最も東西冷戦のシンボルとなったベルリンでは、冷戦初期の1948年、ソ連政府により「西ベルリン封鎖」が行われた。この時はアメリカ側が「ベルリン大空輸」で市民の生活を守った。その後、経済的優位に立った西ベルリンに対して、1961年、東側は「ベルリンの壁」を構築し、その後の東西の対立の象徴となった。

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 一方、東洋での分断国家となった朝鮮半島では、1950年、成立して間もない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、ソ連スターリンの同意のもと、事実上の国境線の38度線を越えて大韓民国(南朝鮮)に侵攻した。マッカーサー指揮の連合国軍と、突然参入してきた中国人民軍との間で、激しいせめぎ合いが続いたが、1953年、スターリンの死にともなって、38度線付近で「休戦協定」が結ばれた。

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 1953年に、民主党トルーマンから引き継いだ共和党ドワイト・アイゼンハワー大統領は、ヨーロッパ戦線の英雄将軍で圧倒的な人気を誇ったが、彼の政権期にはソ連の躍進が目覚ましく、当時始まった宇宙開発競争では、初の人工衛星スプートニックやガガーリンの宇宙周回など、科学や軍事でもソ連の圧勝の雰囲気となった。

 

 この当時、日本の知識人間でも、もし米ソが戦えばソ連の圧勝になると信じられていた。1961年、43歳で民主党から選ばれた若きジョン・F・ケネディ大統領は、受諾演説で「ニューフロンティア政策」を公表し、宇宙競争では、1960年代の終わりまでに月に人類を送る計画を発表し、米国民に夢を与えた。この計画は1969年に実現し、米ソの逆転をイメージ付けたが、ケネディはすでに暗殺された後だった。

 

 スターリンを引き継いだソ連の指導者ニキータ・フルシチョフは、アメリカを初めて公式訪問するなど、一時的な「雪融け」ムードを演出したが、実質支配下にある東欧諸国では、1953年の東ドイツ暴動の鎮圧、1956年のハンガリー動乱にも軍事介入し自由化の歩みは許さなかった。

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 1959年のキューバ革命フィデル・カストロが成功させると、フルシチョフは同盟関係を結び、アメリカのお膝元カリブ海共産党政権が誕生した。米ソはその後の1961年、最大の核戦争危機を迎える。誕生したばかりの若きケネディ政権が、キューバにミサイル基地が建設されているのを発見し、この基地の撤去を求めた。ケネディ大統領は苦渋の決断で、海上封鎖でソ連船舶での資材持ち込みを強制阻止する方針で対処し、衝突直前に、ソ連船舶が引き上げることになった。

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 南北戦争以来放置されてきた黒人(アフリカ系アメリカ人)への人種差別だったが、この時期の抵抗運動は「直接行動」にシフトし、バスのボイコット・シットイン・フリーダムライドおよび社会改革運動という動きをしめしていた。やがてそれは黒人たちの「公民権運動」として組織化されていった。

 

 1963年8月の「ワシントン大行進」は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに率いられて最大の盛り上がりを見せた。黒人を中心にした二十数万人の大群衆が「仕事と自由」のために結集し、キング牧師の有名な「I Have a Dream」演説は、この集会で為された。

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 ジョン・F・ケネディ大統領や弟の司法長官ロバート・ケネディたちは、公民権法の成立を支持したが、その成立は1964年、J・F・ケネディ暗殺後のリンドン・ジョンソン政権下に持ち越された。

 

 すでに戦争直後から独立運動が始まっていたフランス領インドシナでは、1950年、ホー・チ・ミンが「ベトナム民主共和国」の承認を求め、毛沢東中華人民共和国スターリンソ連の承認を取り付けた。一方のアメリカは、ドミノ理論によるアジアの共産化を恐れ、フランス軍インドシナ三国に軍事援助を始めた。

 

 しかし1953年、フランス軍ディエンビエンフーの戦いで敗れて植民地を放棄、以後アメリカが前面に出てくる。アメリカはゴ・ディン・ジエム政権を誕生させ、直接支援を行うが、これは事実上の傀儡政権に過ぎなかった。かくしてべトナムは17度線で、朝鮮と同じく南北の分断国家となった。当時のアメリカのケネディ政権は、積極的に南ベトナム支援に兵員を送り出したが、彼の暗殺後のジョンソン政権で、アメリカはますますベトナム戦にのめりこんでゆく。

 

【アメリカの歴史】13.大恐慌と第二次世界大戦(1939年〜1945年)

アメリカの歴史】13.大恐慌第二次世界大戦(1939年〜1945年)

 

 1929年にアメリカに端を発した「大恐慌」は、またたく間に世界を覆いつくし、1930年代を通してその時代を規定した。それは、資本主義そのものを震撼させる大事件であり、カール・マルクスの「恐慌論」がそのまま到来したと思われた。マルクスの恐慌論は、キリスト教の「終末論」の構造を内包しており、欧米のキリスト教徒には現実感を抱かせるものであった。

 

 未曽有の恐慌にみまわられた資本主義先進国は、例外なく大きなダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程については各国なりの事情が影響した。広大な植民地を領有する国々(イギリス・フランスやアメリカ)は、金本位制からの離脱や高関税による「経済ブロック化」によって、自国経済の保護に努めた。

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 後発のソビエト連邦・ドイツ・日本といった全体主義国家ないし権威主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理する道を選び、全体主義政党や軍部の台頭が他の列強諸国との軋轢を生んだ。経済のブロック化は各国の協調体制や国際的調整を困難にし対立を深めた。

 

 大恐慌勃発時の大統領ハーバート・フーバーは、市場の自由に任せることで自動的に均衡が取り戻されるという「古典派経済学」を信奉していたため、効果的な対策を取れなかった。

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 後任となったアメリカ民主党フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心とした「ニューディール政策」によって乗り切ろうとした。これは、発表されたばかりのジョン・メイナード・ケインズによる「ケインズ理論」を採用し、財政出動による有効需要の創出を試みるものであった。

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 ニューディール政策はそれなりの成果を見せたかに思われたが、その規模が縮小されるにしたがって、成果は薄れていった。1930年代後半には再び危機的状況に陥った結果、恐慌からの本格回復は、第二次大戦の「膨大な浪費」を待つしかなかった。

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 ルーズベルトニューディール政策は、必然的に「大きな政府」となったため、連邦政府の力を全体的に強めることになった。そして、連邦政府内の権力中心として大統領の権威が強まった。ルーズベルトは、不況に苦しむ労働者や農民などに、様々な保護策を創設することで、一連の福祉政策を展開した。しかし、保守的な議員が多くを占める連邦議会により、ルーズベルト政権はニューディール政策の縮小を迫られた。

 

 1939年9月、ヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツポーランド侵攻によって、第二次世界大戦が勃発した。またたくまにフランスなど西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスもドイツの攻撃に疲弊し、英国首相ウィンストン・チャーチルアメリカに参戦を求めたが、ルーズベルトは世論の支持を得られないとして、物資や武器を供給だけで済ませた。

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 一方で、中国大陸への軍事侵攻を行う日本は、アメリカのアジアでの権益と衝突し、日本が東南アジアの油田に対する侵攻を始めると、「ハル・ノート」という強硬通告をし、ついに日本がハワイ真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。ルーズベルトは即座に参戦を表明し、世論の反対も立ち消え、同時に欧州戦線にも参画することになった。

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 やがて欧州戦線では形勢が逆転し、フランスへのノルマンディー上陸作戦により、東西両軍からのドイツ挟撃が始まると、連合国側の勝利は決定的となった。日本とはミッドウェー海戦で戦況を反転させると、次々と太平洋の諸島を抑え、沖縄を過酷な戦闘で制圧して、本土の主要都市を爆撃し、日本の国家機能を壊滅させた。

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 戦後世界では、アメリカが圧倒的な主役としてふるまうことになった。しかし、同じ連合国として戦ったソ連は、アメリカに対抗する核保有国となり、「東西冷戦」という構図で戦後世界が展開されることになる。

 

【アメリカの歴史】12.二つの大戦間の繁栄と崩壊(1918年〜1939年)

アメリカの歴史】12.二つの大戦間の繁栄と崩壊(1918年〜1939年)

 

 ウィルソン大統領の主導によって国際連盟が設立されたが、孤立主義を守ろうとする議会の決議によってアメリカ自身は不参加という結果となった。ウィルソンの理想主義的な政策が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなった。

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 経済では、戦場となり疲弊したヨーロッパに変わって、アメリカが世界の工場として大きな位置を占めるようになり、米国国民はかつてない繁栄を謳歌した。急速に消費社会に移行し、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となり、近未来的な世界が登場した。

 

 電気の普及で夜も明るく、電信電話での遠隔交流が可能となり、ラジオ・新聞というマスメディアの成長によって、市民がリアルタイムな情報を共有できるような情報化社会に向けて社会は進んだ。

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 ラジオ・映画・自動車・化学品など、新しい産業と製品が登場し、テキサス州で膨大な埋蔵量の石油が発見されると、アメリカの石油生産は石油時代をリードするようになった。かくして、アメリカの製造業はかつてないくらい繁栄したが、その分、消費財の過剰生産も生まれ始めていた。

 

 一方で、労働者の賃金は相対的に低く抑えられ、また農産物価格の低下により農民の収入も増えなかった。それでも信用貸しの拡大などで消費経済の拡大は進み、証券市場も過熱気味に膨張した。都市部では、株価や地価が異常に高騰しバブル景気の様相を呈していたが、人々は消費経済の好調に浮かれて顧みることはなかった。

 

 この狂騒の20年代の社会的な歪みを性格付けたものが、合衆国憲法修正第18条とボルステッド法の組み合わせによる、いわゆる「禁酒法」であった。禁酒法がなぜ成立したかは幾つもの理由があるが、何よりその思想的背景にはアメリカ植民以来のピューリタニズム(清教主義)にあると考えられる。

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 禁欲や勤勉を尊ぶピューリタニズムは、アメリカ合衆国の信仰の自由・民主主義などに大きく寄与したが、一方で、その潔癖性や純粋主義・原理主義は極端にブレることもあり、かつてはマサチューセッツのセイラム魔女裁判のような魔女狩りも起こったし、今でもダーウィンの「進化論」を学校で教えることを禁じている州もある。

 

 古くはアルコールは神からの贈り物であるが、その乱用は悪魔の仕業によるものだという一般的認識が広がっていた。そこへ「アルコールの災い」や酒浸り状態を問題視する宗教団体が登場し、アルコールの過度の乱用は身体的に有害だという医学的見地も示されるなどして、一部の州では禁酒運動が盛り上がった。

 

 1920年アメリカで禁酒法が施行された。これは依存症患者が増加したためであり、酒場を地盤にした政治腐敗を減らす試みだとされた。しかし一方には、ユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が背景にあり、しかも新移民に酒造業を営むものが多く、それらの排斥が現実的な狙いでもあった。

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 しかし禁酒法ザル法でもあり、アルコールの摂取そのものは禁止されておらず、家庭でのワインなどの醸造は許可されており、その上、カナダやメキシコとの長い国境を越えて、密輸で多量の酒がもちこまれ、密造酒も横行した。禁酒法施行以後に無数のヤミ酒場が生まれ、国全体の酒の消費量も以前より増加したともされている。

 

 禁酒法は、違法な密造酒や密輸酒を支配することで、アル・カポネに代表されるようなギャング組織に莫大な利益をもたらした。縄張り争いで、ギャングやマフィアの抗争事件は、大都市のいたるところで常態となった。ギャング間の銃撃戦では、数千人のギャングが死亡し、連邦の捜査官も数百の殉職者を生んだ。

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 汚職や買収が横行し、有名なエリオット・ネスのアンタッチャブル(買収されないという意味)の物語が生まれたのも、このような状況下のことだった。また、J・F・ケネディの父親は、この時にマフィアと組んで密輸で大儲けし、それが息子たちを政治家にする資金となったとされる。

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 未曽有の大好況の下で、このような社会の爛熟腐敗が進んでいたアメリカ社会で、1929年10月24日、突然「暗黒の木曜日」が起こり、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはの破綻を迎える。アメリカの「大恐慌」は世界中に波及し、やがて二度目の世界大戦へと突き進んでゆくことになる。

 

【アメリカの歴史】11.ウッドロー・ウィルソンと第一次世界大戦 (1914年〜1918年)

アメリカの歴史】11.ウッドロー・ウィルソン第一次世界大戦 (1914年〜1918年)

 

 1912年、民主党は大統領候補に「ウッドロー・ウィルソン」を指名し、ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。一方の共和党ウィリアム・タフトセオドア・ルーズベルトが対立し分裂、その結果、ウィルソンが大統領選に勝利した。

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 ウィルソンは「ニュー・フリーダム」と呼ばれる進歩主義的国内改革を実行し、高率の関税を引き下げ、連邦準備法、連邦取引法、クレイトン法、農業信用法および1913年歳入法などを進めるなど、経済的な法制を整えた。また外交では、共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張した。しかし実態は変わらず、中南米諸国に強権的な介入をした。

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 ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発したが、アメリカ合衆国の中立の立場を表明して、 1916年アメリカ合衆国大統領選挙での再選に結びつけた。しかし実際には、連合軍側への物資・武器の提供や多額の戦費貸付を行っており、決して中立の立場を守ったわけではない。

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 これに対抗したドイツの潜水艦による、イギリス船籍の豪華客船ルシタニア号撃沈事件や、ドイツの秘密工作が暴露された「ツィンメルマン電報」事件などから、米国の国民感情が高まると、ウィルソンは1917年4月「ドイツへの宣戦」を布告する。

 

 ウィルソンは、南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して多額の戦費を調達するなど、急激に戦時体制を固めた。アメリカの参戦により戦況は一気に連合国側に傾き、第一次世界大戦末期の1918年1月に、ウィルソンは「十四ヵ条の平和原則」を発表する。疲弊しきったドイツ帝国は降伏し休戦協定を締結するに至った。

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 ウィルソンはパリ講和会議に出席するためパリへ向かった。ウィルソンの「平和原則」で示した公正な態度のため、公正な調停を期待して熱狂的な歓迎を受けた。ウィルソンは、フランスのジョルジュ・クレマンソー首相、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相と共に、講和会議の三巨頭として主要な案件に携わった。

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 しかし十四ヵ条の平和原則は、それまで大戦中に英仏伊日など主要国が結んだ協定や条約を無効にし、アメリカの要求に従って組みなおすという内容だったため、会議参加国の既存利害からの反発を招いた。

 

 ウィルソンは、新外交の中心と位置づけた「国際連盟」を平和条約と不可分であると考え、熱心な主導者だった。他の戦勝国も、国際連盟創設自体は総論賛成としたが、それぞれに思惑があり、ひと筋縄ではいかなかった。

 

 1919年、最終的に国際連盟創設の提案が承認され、44か国が規約に署名した。ウィルソン米大統領は、連盟の設立と推進に尽力した功績によりノーベル平和賞を受賞した。しかしそのアメリカ合衆国は、モンロー主義を唱える議会の反対により、国際連盟には参加できなかった。

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 国際連盟は世界平和に貢献する国際組織として期待されたが、その実効性には大きな欠陥があった。一つは、アメリカをはじめとした有力国の不在であり、敗戦国だったドイツはのちにに脱退、誕生したばかりのソ連は除名された。常任理事国だった日本とイタリアも1930年代に脱退してしまった。

 

 そして、国際連盟は全会一致の法則を採ったため、一国でも反対すれば重要な事項であっても何も決められず、迅速に有効な対応が取れなかった。さらに、国際連盟は軍事力が行使できず、有効な制裁手段がなかったため、国際連盟は単なる「話し合いの場」でしかなかった。

 

 ドイツともっとも激しい戦闘を展開した隣国フランスのクレマンソーは、敗戦国ドイツが二度と立ち上がれないような苛烈とも言える賠償を求め、穏便に調停を試みるウィルソンと対立した。結局、フランスの要望が通り、戦後その負担に耐えかねたドイツ国民の不満は、ヒトラーナチスの勃興を支えることになった。

 

 第一次大戦で、ヨーロッパの列強は大きな損失を被って国力を落としたが、アメリカは直接の戦場にはならず、ヨーロッパへの武器や物質の供給で未曾有の経済的繁栄を迎え、世界の舞台の中心に躍り出ることになった。

 

【アメリカの歴史】10.帝国主義時代と国内の変貌(1890年〜1918年)-2

アメリカの歴史】10.帝国主義時代と国内の変貌(1890年〜1918年)-2

 

 南北戦争から第一次大戦が始まるまでの間に、アメリカ合衆国は世界でも有数の工業国に成長した。土地と労働力が豊富で、天然資源や安価なエネルギーに恵まれ、そこへ潤沢な資本が蓄積されたために、第二次産業革命が強力に推進された。

 

 物の生産は手工業から工場生産に移り、さらに技術の進歩や輸送機関の発展が拍車をかけた。大陸横断鉄道によって西部が開発され、誰もいなかった所に町や市場ができた。電報や電話など新しい通信手段は、広大なアメリカでも遠距離を隔てて意思統一ができるようになり、ヘンリー・フォードによるベルトコンベアシステムやフレデリック・ウィンスロー・テイラーの科学的管理法などの登場により、労働の仕組みにも大きな革新が起こった。

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 並行して資本の集中が進み、トラストなどを結んで持株会社組織により多くの事業組織を支配するようになった。アンドリュー・カーネギージョン・ロックフェラー、ジェイ・グールドのような大資本家が、大きな富と力を集中支配して財閥が形成された。

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 主に1870年代や1880年代は、アメリカ合衆国において資本主義が急速に発展をとげた時代で、「西部開拓時代」とほぼ重複する時期であり、一獲千金を狙った拝金主義や、急速に富豪となった成金の薄っぺらい趣味の時代として、「金ぴか時代(金メッキ時代=Gilded Age)」などと呼ばれた。

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 「金ぴか時代」とは、こうした経済の急成長と共に現れた政治経済の腐敗や不正を批判して、皮肉の得意な小説家のマーク・トウェイン命名した時代名称である。多くの政治家がカネで買収され、合衆国の政治は腐敗を極めた。

 

 チャールズ・ダーウィンの進化論が人間社会にも適用されて、自由競争・自然淘汰・適者生存を強調する「社会進化論」が一世を風靡した。そのような風潮のもとで、多くの人びとが成長と成功の夢に運命を託し、一代で巨富を築く「アメリカンドリーム」と称される成功物語や立身出世物語がもてはやされた。

 

 この時期のアメリカは、かつての農業的社会から工業や都市を特徴とする社会へと大きく変貌し、また、世界の表舞台へと躍り出た時期でもあった。1873年恐慌の後に第二次産業革命が進み、アメリカ社会のほんの一握りの超富豪階級が「産業の主役」となり、その事業、社会および家族の結びつきにより、イギリスに祖先をもつ「アングロサクソンプロテスタント」がアメリカ社会の上層を占めるという状況が支配的になった。

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 都市の急成長は工業化や農業の拡大と歩調を合わせて、多くの新たな移民を生み出した。新規の移民の多くは、貧窮や宗教的理由で母国から押し出され者たちが、新たな仕事機会や開拓農民を目指してやって来た。かくしてアメリカは、未曾有の他民族国家となった。しかし後発の移民たちは、民族としての生活基盤から切り離されており、先行して基盤を築いているアングロサクソン系などの後塵を拝し、社会の下層に組み込まれるしかなかった。

 

 大陸横断鉄道の建設では、東部ではアイルランドからの移民労働者が動員されたが、太平洋側の横断鉄道の建設には大量の中国人労働者(華僑)が使用された。中国人らアジアからの移民労働者は、白人系とは異なる生活文化持っており、その軋轢から激しい反中国人排斥運動が起こり、1882年には中国人排除法が成立した。中国人に代わって日本人移民が増大すると、これも事実上の日本人移民禁止法で止められた。

 

 奴隷解放宣言で、形ばかり解放されたアフリカ系アメリカ人(アフリカ系黒人)は、ほとんど社会的な対策が取られなかったため、人種差別を受け続けた。クー・クラックス・クランなどの白人至上主義者は、非合法なリンチを続けた。それらに反発した黒人たちは、都市部などで暴動を起こした。しかし彼らは、インディアンのような部族基盤を持たないため、組織的な抵抗はできず、突発的な暴動として鎮圧された。

 

 1850年代に衰退したホイッグ党に代わって結成された「共和党」は、急速に工業化する北部において、反奴隷制を標榜する連邦派進歩主義政党として拡大した。一方、民主党は南部での支持を集めて共和党と対立した。共和党党候補エイブラハム・リンカーンが大統領に選出されると、南北戦争が開始され、敗れた南部に定位していた民主党は衰退した。

 

 共和党は、東部の商工業主に支持を得るブルジョア政党へと性質を変えていったが、大企業の利益を擁護し、外交面においては対外積極策を展開して、19世紀末からは積極的な帝国主義外交・対外膨張政策をとり、アメリカを列強国家へと導いた。この間、民主党グロバー・クリーブランドウッドロウ・ウィルソンの二人の大統領を出しただけだった。

 

 民主党は反中央集権と個人的自由を打ち出し、共和党政権に取り残された不満層の受け皿として存続したが、南北戦争の敗地となった南部の人々、北部の都市部で低賃金に苦しむ移民、資本主義の発展で没落していく西部の中小農民などがこの時期の民主党支持層だった。

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 第一次大戦後の過熱した時代のあと、大恐慌を背景にフランクリン・ルーズベルト大統領が就任すると、民主党は都市大衆を基盤とした勢力として本格的に再生されていく。F・ルーズベルトと彼のニューディール政策民主党左旋回を決定づけ、党は労働者・小農・失業者・移民・黒人などの低所得者層を基盤とする社会的自由主義政党となっていった。

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 一方の共和党は、F・ルーズベルトへの対抗から保守化を強めた。当初の共和党は、北部を基盤に古典的自由主義を支持し、奴隷制の拡大に反対し、経済改革を支持したが、世界恐慌のあと、民主党ニューディール政策に対抗して、党はイデオロギー的に右にシフトした。第二次大戦後になると、 公民権法や投票権法の後には、党の中核的な基盤は南部の州にシフトし、党の支持層は、農村部に住む人々、サイレント・ジェネレーション、白人男性、福音派キリスト教徒などが中心となった。

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 一般に共和党が市場を重視する「小さな政府」を推進するのに対し、民主党は政府の役割を重視する「大きな政府」を推進するとされる。そのため民主党は福祉(公的扶助)に関して拡充を目指し、対して共和党は公定扶助をできる限り縮小するとともに、公的扶助受給者には勤労論理教育や労働を義務付けることを目指す傾向がある。