【アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1

アメリカの歴史】09.帝国主義時代と海外領土拡大(1890年〜1918年)-1

 

 1890年、アメリカ合衆国本土のフロンティア消滅が公式に宣言され、インディアン戦争も終わりを告げ、西部開拓の時代も一段落した。ヨーロッパ列強はアフリカやアジアに植民地を獲得しつつあったので、アメリカも更なるフロンティアを海外へ求め、外に目を向けるようになった。

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 1889年にパン・アメリカ会議が開催されると、これを契機にアメリカはラテンアメリカへの進出を始める。1896年のアメリカ合衆国大統領選挙で、共和党ウィリアム・マッキンリーが勝利を収めると、高関税政策で国内産業を育成し、急速な成長と繁栄の時代を到来させ、国民も自信を強めた。

 

 マッキンリーは大不況からの回復とともに、金本位制を導入して国力を担保すると、スペインに対し、キューバでの専政を批判した。そして1898年、米西戦争が勃発すると、アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、キューバとフィリピンを占領してスペインに圧勝した。

 

 1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバアメリカの占領下に置かれた。さらにマッキンリーは、1898年にハワイ共和国を併合、お膝元のカリブ海や太平洋地域に勢力圏を確保した。マッキンリーは1900年の大統領選で再選を果たしたが、翌1901年に無政府主義者に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが後任となった。

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 アメリカ合衆国は大西洋と太平洋を繋ぐパナマ運河の建設に関心を深めた。1903年セオドア・ルーズベルト大統領は、パナマ運河を建設し支配するために、コロンビアからのパナマの独立を支持した。また、セオドア・ルーズベルトモンロー・ドクトリンに対するその「ルーズベルト命題」を発表し、ラテンアメリカ諸国が近代化と民主主義の推進に無能で不安定な場合には、「良き隣人」として干渉を厭わないと宣言した。

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 カリブ海地域を勢力圏にするために、たびたびこれらの地域に「棍棒外交」と言われる武力干渉をし、また、シーレーンの確保を目的にパナマ運河建設権を買収し、長期間にわたる難工事で多くの犠牲を出しながら完成にこぎつけると、パナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

 

 太平洋の対岸の東アジアでは、西欧列強により中国の分割が進み、新興の日本も日清戦争に勝利して、帝国主義の一員に参加しつつあった。セオドア・ルーズベルトは、清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への参入をはかった。そして1905年には、日露戦争の調停役を買って出て、国際的な立場向上を目指した。

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 またこの時期に、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして巨大資本による独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーなどの巨大財閥が、アメリカ経済を支配するようになった。

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 19世紀後半からヨーロッパでは人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、後発の彼らは都市部で、低所得者としてスラム街を形成した。新移民はカトリック正教会ユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間に軋轢が生じた。

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 また西海岸を中心に、清や日本からの東洋人の移民も多く発生した。彼らは低賃金労働者として、白人の職を奪うことになり、人種差別感情も加わり、彼らに対する排斥運動が起こり、すでに中国人労働者移民排斥法で中国人移民が禁止されていたところに、実質的に日本人移民を禁止する移民法が定められた。

 

 やがて1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、アメリカはヨーロッパの各国に武器や車両を輸出して、空前の経済繁栄を謳歌することになる。

 

【アメリカの歴史】08.大陸横断鉄道と西部開拓時代(1865年〜1890年)

アメリカの歴史】08.大陸横断鉄道と西部開拓時代(1865年〜1890年)

 

 西部開拓時代とは、19世紀(特に1860年代に始まり1890年のフロンティア消滅まで)における、北アメリカの時代区分の一つで、オールド・ウェスト(Old West)、ワイルド・ウェスト(Wild West)などとも呼ばれる。

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 フランス領ルイジアナ買収にはじまり、イギリス領カナダの一部を交換で獲得、スペインからフロリダを購入し、すでにメキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にはオレゴンを併合し、領土は太平洋に到達した。さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利しカリフォルニアを獲得するなど、ほぼ今の合衆国の領土に近づいた。

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 名目上の領土は太平洋へ到達したとは言え、インディアンとバッファローが散在するだけの荒れ地や山地ばかり。これ以降、インディアンと戦いながらフロンティアを西に進める西部開拓史が始まることになる。この時期、東西交通は馬車か船舶での移動に頼るしかなく、地上を行く馬車は移動に半年以上かかるし、船舶は南米大陸の南端を回る為、移動に4ヵ月以上を要した。

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 さらに、大平原(グレートプレーンズ)やロッキー山脈という大自然の難所を越えなければならず、インディアンの襲撃などもあって、西部は陸の孤島のような有様であった。この問題を解消するため、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の基幹となる「大陸横断鉄道」の建設を進めた。

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 鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは苦力(クーリー)と呼ばれる中国人移民が動員され、東側からは食詰めた貧困白人が駆り出され、過酷な労働に従事させられた。それらの鉄道沿線には労働者街が形成されたが、これらの新たな街は法秩序が確立されておらず、アウトローのギャングなどによる無法地帯と化していた。

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 労働者たちは自ら武装して、自衛しながら線路を建設した。また、東部の司法制度はここまで及ばないため、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ(私刑)法」によって住民たちが対処した。さらに白人住民たちが「保安官」を雇う形で、かろうじて治安を保とうとした。しかし工事沿線では、自分たちの生活圏を脅かされたインディアンが蜂起し、多くの白人労働者を殺戮した。

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 1869年に最初の大陸横断鉄道が開通し、順次開業していくと、アメリカは実質的にも精神的にも、やっと国土が一つとなった。合衆国は、鉄道建設の邪魔になり、西部のインディアンの生活の糧でもあるバッファロー(バイソン)を、絶滅させる作戦をとった。組織的なバッファロー虐殺によって、数千万頭いた平原のバッファローは、フロンティアが太平洋側に達した19世紀末には、ほぼ絶滅した。そして、それを生活の糧としていたインディアンも、極端に減少してゆく。

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 横断鉄道の完成によって、本格的な西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われ、牛を追いかけて生活するカウボーイのスタイルが西部を象徴するものとなった。また、国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。

 

 西部の人口は急速に増加し、生活圏を奪われたインディアンは、1860年代から1870年代にかけて、「インディアン戦争」と呼ばれる各部族による一斉蜂起を行った。しかし、基本的には部族単位で蜂起するインディアンは、米軍により次々に鎮圧されてゆき、保留地へ幽閉されるか殲滅されるかしかなかった。

 

 部族ごとに生活圏を共有するインディアンは、入植する白人のような土地所有概念がなく、自分たちの生活圏に侵入してきた白人たちを攻撃して追い払うだけだった。白人たちは「ドーズ法(インディアン一般土地割当法)」などを設けて、自分たちの土地所有概念に組み込もうとした。

 

 この法律は、インディアン部族の共同所有制のもとにある「保留地」を、インディアン部族員個人に対して分割して「与える」ことを目的とした。しかし、インディアンに与えられる土地はわずかで、大半は白人入植者側に組み込まれた。共同所有地を前提にした部族のコミュニティは壊滅させられ、インディアンの社会は根本から破壊され、彼らの土地のほとんどは白人農業者のものとなっていった。

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 西部の最大反抗勢力のスー族も、伝説的な英雄のシッティング・ブルやクレイジー・ホースが殺され、南西部でアパッチ族ジェロニモが投降し、「ウーンデッド・ニーの虐殺」を機に、「開拓に邪魔なインディアンの掃討作戦は終了した」として、合衆国は1890年に「フロンティアの消滅」を宣言した。

 

【アメリカの歴史】07.インディアン戦争-2(1622年~1890)

アメリカの歴史】07.インディアン戦争-2(1622年~1890)

 

 北米のインディアンは部族社会で、無数の部族がそれぞれ独立して居住していた。そこへ白人入植者たちが入り込んできたため、自分たちの生活を守るために対抗したが、インディアン部族が一体となって白人入植者と戦うことは無かった。

 

 アメリカ独立戦争時には、英国軍に引き込まれた部族が、アメリカ独立軍と戦うという構図があった。「チカマウガ戦争」は、独立戦争に巻き込まれたチェロキー族と入植白人の間の一連の紛争があり、1794年まで続いた。また、1787年の「北西部条例」によって、北西部領土(五大湖南部でオハイオ川と挟まれた現オハイオインディアナなど)が白人入植者のために組み込まれると、北西部のインディアンたちはこの「領土侵犯」に対抗して「北西インディアン戦争」と呼ばれる抵抗戦を戦った。

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 イギリスは、インディアンとの連携関係を無視して、1795年のグリーンヴィル条約を合衆国と調印し、インディアンはオハイオ全部とインディアナの一部を奪われることになった。独立戦争や北西インディアン戦争を経て米英戦争の後には、イギリスがインディアンとの同盟関係を放棄したため、以後インディアンはアメリカ合衆国と直接に向かい合う構図となった。

 

 「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族である」と主張するアンドリュー・ジャクソン第7代大統領は、1830年に「インディアン移住法」に署名した。インディアン移住法は、インディアンを白人のいない西部の準州(現オクラホマ州)などに強制移住させ、白人社会に同化させるという民族浄化政策であり、これに従わない場合「そのインディアン部族は絶滅させる」とジャクソンは宣言した。

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 東部と同様に、新しく合衆国領土とされた「ミシシッピ川西部」の大平原や山岳地でも、入植者による植民地の拡張によってインディアン部族との紛争が増大した。大平原では、北部のスー族・シャイアン族・コマンチ族・カイオワ族、また南西部ではアパッチ族たちが、白人の領土侵犯に対して激しい抵抗を行った。

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 南北戦争の間も白人とインディアンの抗争は続き、1862年の「ダコタ戦争(暴動)」は、アメリカとスー族の間の最初の大規模衝突であった。狭い保留地に強制移住させられていたスー族は、ちょっとしたいざこざが契機となり、ミネソタ州全土を覆う激しい戦いとなった。この戦いで捕縛されたスー族は300人が死刑宣告され、リンカーンの「寛大な処置」でうち38名のスー族戦士が一斉絞首刑に処せられたという。

 

 南北戦争中から建設が始められた大陸横断鉄道は、1869年の最初の開通以来次々に開業してゆき、アメリカは実質的に国土が一つとなった。それによりミシシッピ川より西の中・西部の開拓が進み、それとともにインディアンとの戦いも頻発した。

 

 グレートプレーンズ(大平原)などで数千万を超えたバッファロー(アメリカン・バイソン)は、鉄道建設の邪魔になるとして、合衆国による組織的なバッファロー絶滅作戦でほぼ絶滅された。インディアンたちは生活の糧を奪われ、その人口も大幅に減少して保留地で飢えることとなった。

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 1876年、ダコタ・ゴールドラッシュがブラックヒルズに巻き起こった時に、最後の重大な「スー族戦争」が起こった。ブラックヒルズ一帯はスー族の不可侵領土だったが、金が出たあとはまったく無視され、白人の荒らし放題だった。合衆国軍はついに条約を自ら破り、スー族の掃討作戦に出た。

 

 ジョージ・アームストロング・カスターは、南北戦争で軍功を上げ頭角を現していた。この名誉欲にかられた男は、自ら「将軍」と名乗り、幾つものインディアン掃討作戦を指揮し、容赦のない軍事絶滅作戦を展開した。しかし「リトルビッグホーンの戦い」では部隊ごと全滅させられ、英雄にまつり上げられた。

 

 幾つものインディアン掃討作戦で功を上げたカスターは、1876年、インディアン掃討軍の第7騎兵隊の連隊長として参加する。作戦はリトルビッグホーン川(グリージーグラス川)をさかのぼって南下進軍し、モンタナ州南東部のスー族の本拠を三つの部隊で包囲するものだった。

 

 カスター隊のインディアン斥候は、河沿いに集結していたインディアン諸部族の野営地を発見した。別隊が野営地を襲って戦っているなか、カスターは独断で部隊に総攻撃を命じた。インディアンの野営地には、宗教行事「サン・ダンス」と会議のために諸部族の多数が集結していた。

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 カスター隊はインディアン連合部隊によって挟撃され、逃げ場を失ったカスターの本隊は全滅、カスターもろとも直属の225名が全員戦死した。しばしば「インディアン側による奇襲虐殺」と語られるが、インディアンたちは儀式や会議のために集まっていたのであり、そこを突然カスター側から仕掛けられたのだというのが事実のようだ。この「カスター最期の戦い」はかなり美化されて描かれ、名誉欲にかられた男を英雄に仕立て上げ流布した。

 

 やがて、有名なアパッチ族の戦士(酋長というのは白人側の誤認)ジェロニモの降伏や、1890年のウンデット・ニーの虐殺以降、インディアンによる軍事的な反乱はなくなった。代わって20世紀になってからは、「レッド・パワー運動」などの権利回復要求運動が強まり、「インディアン」という呼称改善に始まり、「ハリウッド西部劇映画」などによる歪曲された民族イメージの恢復運動が盛んとなっている。

 

【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)

アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)

 

 「インディアン」とは英語でインド人のことをさすが、コロンブスアメリカ大陸を発見したとき、そこが目指していたインドだと誤認していたため、以来、英語ではそこの住民をインディアンと呼ぶようになったとされる。

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 今では、アメリカ合衆国先住民族を総称して「ネイティブ・アメリカン=Native Americans」と呼ばれることが多いが、ここでは歴史的記述をするため、合衆国本土やカナダに展開していた部族を「北米インディアンorインディアン」と便宜上よぶ。なお、中・南米に展開した先住民は、スペインやポルトガルラテン語系に支配されたので「インディオ」と呼ばれた。

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 「インディアン戦争」とは、1622年から1890年の間の、アメリカへの白人入植者とインディアンの間で起きた抗争を総称したもので、イギリスなど白人の「アメリカ入植」開始から、インディアン掃討の完了したとされる「フロンティアの消滅」の時までをさすことが多い。

 

 インディアン戦争は大きく分けて、次の4つの時代区分に分けられる。

1.白人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った最初期の時代。

2.アメリカ合衆国の独立とそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があり、同化しないインディアンは排除され、ミシシッピ川から東にほぼインディアン居住地が無くなった時代。

3.南北戦争以降、ミシシッピ川以西に白人の入植が進み、アメリカ西部のインディアンが屈服させられて、フロンティアが消滅した時代。

4.1900年代初めにインディアン条約が合衆国側から破棄され、部族そのものが消滅させられ始めた時代。

 

 初期の入植時には、入植場所やインディアンの部族ごとにことなるが、一般に白人と友好的な関係があったとされる。様々な理由で幾つもの小競り合いが入植者とインディアンの間であったが、「ジェームズタウンの虐殺」が初期の事件として知られている。1622年3月、ポウハタン族がバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡したとされる。

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 やがてインディアンと白人の間で大規模な抗争は各地で起こり、イギリスやフランスはそれぞれの別の地域に入植したので、その地域のピクォート族やイロコイ族といったインディアン部族との戦いが繰り広げられた。

 

 17世紀末に始まったヨーロッパ列強の対立は、そのまま北アメリカに持ち込まれ、イギリスとフランスはアメリカの植民地でも戦闘を繰り返したした。これらは「北米植民地戦争」と総称されるが、なかでも1756年の「フレンチ・インディアン戦争」は、英仏がそれぞれインディアンの部族と同盟を結んで戦ったのであるが、イギリス側からはこのように呼ばれた。

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 1775年「アメリカ独立戦争」が始まったが、結成されたばかりのアメリカ合衆国は、イギリスからの独立をめざすと同時に、イギリスが抱き込んだインディアン部族との闘いでもあった。しかし劣勢となったイギリスは、1783年アメリカと「パリ条約」を結んで独立を認め、ミシシッピー川以東の広大な英国領植民地をアメリカ合衆国に割譲した。

 

 この時、インディアンたちは何も知らされないままに、自分たちの生活する広大な土地が、アメリカの領土とされてしまった。そしてその後、入植してくるアメリカ人とは、さらに土地を奪い合っての戦争が続くことになった。

 

 1803年には、イギリスと対立を強めるフランスのナポレオン・ボナパルトから、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収した。その後も、1818年にイギリスから英領カナダの一部を交換で獲得、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。また1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合するなどして、領土は太平洋に到達した。

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 さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利し、1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1853年にさらにメキシコ北部を買収した。カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、ゴールド・ラッシュが起きて、多数のインディアンが虐殺された。

 

 かくして広大な中西部への開拓史が進展し、フロンティアは西へ西へと移動してゆく。しかし、大平原やロッキー山脈の強大な大自然により陸上移動は拒まれ、さらに続く「南北戦争」により開拓は停滞した。大西部の本格的な開拓は、リンカーン大統領が南北戦争中に建設を進めた「大陸横断鉄道」の開通を待つことになる。

 

【アメリカの歴史】05.アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)

アメリカの歴史】05.アメリ南北戦争1861年〜1865年)

 

 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、産業化が進んだ北部と綿花生産を主産業とする南部とは、産業育成のための「保護貿易」と綿花などの輸出優先の「自由貿易」とをめぐって利害が対立した。そこへ、重工業化の進んだ北部では労働者不足となり、南部での「黒人奴隷」を黒人労働力として利用すべく、奴隷解放を望んだ。

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 次々と西部に広がる新たな植民地を州に格上げするとき、新州に奴隷制を認めさせるかでどうかで南北対立となった。そして1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える「共和党」が結党され、奴隷制の下での農業主の支持が多かった南部「民主党」と対立した。

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 1860年共和党エイブラハム・リンカーン」が大統領にえらばれると、黒人奴隷解放を目玉政策とし、北部の資本家から大歓迎された。しかし政治経験の少なかったリンカーンが、大統領に選出されるまでにはさまざまな困難があった。


 1858年のイリノイ州における上院議員選挙では、現職のスティーブン・ダグラスと、下院議員を1期務めただけのリンカーンとの間で、有名な「リンカーン・ダグラス論争」が展開された。リンカーンは新しい領土に奴隷制を拡張することに反対したが、ダグラスはそこに住む人々が決めるべきと考え、これを人民主権と呼んだ。

 

 リンカーンスプリングフィールドにおいて、有名な「分かれたる家演説」を行った。「分かれたる家は立つこと能わず(マルコ伝3の25)」から引用して、アメリカ合衆国がが分かれ争うことを期待しない。奴隷制の反対者が、あらゆる州で奴隷制を非合法になるまで突き進むしかないとしたが、自分は奴隷制度廃止論者そのものではなく、彼等が自分で判断する自由が与えられるべきとするものだと主張した。

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 一方、ジョン・ブラウンという過激な奴隷制度廃止運動家が、ゲリラ活動で市民を殺し黒人奴隷を武装蜂起させようとしたが、土地の奴隷達は立ち上がることはなく、ブラウンは逮捕され処刑された。これは南部人を震え上がらせ、ブラウンを英雄かつ殉教者と祭り上げた北部奴隷制度廃止運動家に対する不信感を増大させた。

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 このような対立激化の下でリンカーンが大統領に選ばれると、南部諸州は「アメリカ合衆国」からの脱退を宣言し、「ジェファーソン・デイヴィス」を初代大統領に選出して南部諸州の「アメリカ連合国」を結成した。そして1861年4月12日、南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して「南北戦争」が勃発し、またたくまに戦火はアメリカ中に拡がった。

 

 当初北軍は圧倒的な軍隊を集めて、南部アメリカ連合国の首都リッチモンドを一気に占領し戦争を終わらせようと考えたが、士気の高い南軍に打ち負かされ、さらに南軍北バージニア軍の指揮官となった「ロバート・E・リー将軍」の強い抵抗に直面し、東部での戦線は一進一退を繰り返した。この間、エイブラハム・リンカーンは「奴隷解放宣言」を出し、戦争に大儀を与えて北軍の士気を高め、また、ヨーロッパからの干渉を防ぐことに成功した。

 

 南軍リー将軍北軍を打ち負かして大きな戦果を挙げ、その勢いに乗ったリーは更なる北部への侵攻を企図した。そしてペンシルベニアゲティスバーグで総力戦が行われた。この「ゲティスバーグの戦い」は事実上の雌雄を決する戦闘となったが、この戦闘でリーの南軍は貴重な戦力を多く失い致命的なダメージを受けた。

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 ゲティスバーグの後、リー軍の追撃に不満を抱いたリンカーンは、新しい北軍指揮官に「ユリシーズ・グラント将軍」を指名した。グラント将軍は北軍の強みが軍事資源と人的資源にあるとし、リー軍を消耗戦に持ち込んだ。

 

 グラントは、バージニア州での「オーバーランド方面作戦」でリー軍をピーターズバーグに追い詰めた。一方で南軍の兵站の拠点であったジョージア州アトランタも、シャーマン将軍に占領され、南北戦争の帰結は極まった。グラントの軍隊に捕まったリーは、アポマトックス・コートハウスで降伏し、4年間にわたっり甚大な損失をアメリカに与えた「南北戦争」が終わった。

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 なお「南北戦争”American Civil War”」は、北部の「アメリカ合衆国」と合衆国から分離した南部の「アメリカ連合国」の間で行われた「内戦」であり、アメリカ国内では「The Civil War」 と表記される。

 

 1865年4月14日リー将軍の降伏から4日後、お祝い気分が首都を覆っているなかで、リンカーン大統領はフォード劇場で観劇に臨んでいたが、俳優でアメリカ連合国のシンパであったブースに後頭部を撃ち抜かれて死亡する。ブースはリンカーン大統領ほかの政権重要人物を暗殺し政府を転覆しようとしたが、大統領以外の暗殺には失敗、その企みは失敗した。

 

 リンカーンは暗殺された最初の大統領になり、アメリカの歴史に大きな影響を与えた偉大な人物としてその死が悼まれた。共和党政権は後継者に恵まれず若干の混乱をきたしたが、ブースの企みは水泡に帰した。

 

 しかし、穏健派のリンカーン大統領暗殺により、急進派共和党員が議会の実権を握り、南北戦争終結後の処理である「リコンストラクション(再建)」は、南部に対して過酷な処置を強いたため、闇に潜ったクー・クラックス・クランなどのテロが台頭し、逆に溝を広げる結果となった。

 

 さらに、形式上は解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人)も、必要な法的・政治的・経済的・社会的な具体策は取られずに、元の農場主のもとに戻るものも多く、その後も残された数々の隔離政策によって、黒人に対する不当な待遇や差別は20世紀半ばまで放置されることになる。

 

【アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

アメリカの歴史】04.ジャクソン民主党とフロンティア拡大(1829年~1861)

 

 1828年の大統領選挙で、「アンドリュー・ジャクソン」が第7代大統領となり、選挙権を拡大して民主政治を発展させるなど、ジャクソン流民主主義が進められた。それまで東部都市部の商工業主など資産家中心だったところに、西部の農夫や東部の労働者・職人・小規模商人に投票権が拡大されると、ジャクソンの主導した「民主党」が有力となった。他方でジャクソン流の民主主義に反発する派はホイッグ党に集まった。

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 ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場するとともに、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会が出現した。

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 一方、中西部の新領土は、ルイジアナ買収以来拡大を続け、1848年にメキシコからカリフォルニアを獲得すると太平洋岸に到達した。そして、フロンティアと呼ばれる開拓最前線を、西へ西へと移動させてゆく「西部開拓史」が展開された。「フロンティア」とは、1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下の開拓前線とされた。

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 ジャクソンは米英戦争などで軍指揮官として活躍し、英国軍と同盟したインディアンの徹底虐殺によって、戦争の英雄として大衆的支持を集めていた。ジャクソンは政治家としても、庶民"common man"の味方として振る舞い人気を高めた。

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 一方で、白人以外のインディアンや黒人などに対しては、徹底した人種差別主義者であり、先住民であるインディアンを掃討し、「インディアン移住法」を制定して辺境の保留地"Reservation"に強制隔離した。さらにジャクソン自身、テネシーに大農地を所有し、多数の黒人奴隷を酷使していた。

 

 また、ジャクソンは連邦に対して州の権利を重要視する、南部出身の「州権主義者」であり、大きな連邦政府を望まないジャクソンは、政府が設けた第二合衆国銀行を、州の独自財政を奪い庶民の利益に沿わないとして、これを破産に追い込んだ。これらの影響から、彼の時代連邦政府は均衡財政を維持し、負債をださなかった。

 

 ジャクソン大統領は「インディアンは白人と共存し得ない」として「インディアン移住法」を可決すると、ミシシッピ川以東の大多数のインディアンを、強制的に白人のまばらなインディアン準州(現オクラホマ州)の、連邦政府が保留した居留地"Reservation"に移住させ、白人社会に同化させる方針で、これに従わない部族は絶滅させるという民族浄化政策であった。

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 オクラホマへのインディアン強制移住は「涙の道」と呼ばれた。どの部族も徒歩による大陸横断を強制され、数千、数万と言われる途上死者を生んだ。ジョージアからフロリダに居住したセミノール族インディアンたちは、逃亡黒人奴隷を受け入れて「セミノール戦争」を戦ったが、ジャクソンは焦土作戦を採って殲滅させた。これらは、今では「インディアンのベトナム戦争」と呼ばれる悲惨な結末をむかえた。

 

 アンドリュー・ジャクソンは、その強権ぶりからアンドリュー1世とも揶揄され、権威的な独自な政策を展開した。ジャクソンの政権下を中心に、アメリカ独立戦争南北戦争の間は「ジャクソン・エラ(ジャクソン時代)」などと呼ばれた。

 

 アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との競争のため保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため自由貿易を求めて、南北の対立が非常に深まった。これが、奴隷制をめぐる対立として激化して、やがて「南北戦争」が勃発することになる。

 

【瀬戸内寂聴入寂と墓碑銘もろもろ】

瀬戸内寂聴さん入寂と墓碑銘もろもろ】

 

 瀬戸内寂聴さんの訃報が報じられた。特に思い入れがある作家ではないが、いろいろその名を耳にすることが多い人だった。合掌。

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 追悼記事が多くみられるが、さっそく「自身の墓碑に刻む言葉は決めていた」(読売)と報じられた。「愛した・書いた・祈った」というのがそれだと言うことだ。どこかで聞いたことがあると思って確認したら、フランスのモンマルトルにあるスタンダールの墓碑銘に「書いた・愛した・生きた」と書かれているようだ。

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 自分の生涯を、三つの行為でシンプルに記すのはカッコ良いなと思い、自分も考えてみたが「食った・寝た・遊んだ」ぐらいしか思いつかないし、糸井重里の「くうねるあそぶ」のパクリとも言われたくない。寂聴さんも文学者として、情熱的恋愛を主張したスタンダールの墓碑銘は知っていただろうし、あえて真似したわけでもあるまい。

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 西欧では、ギリシャ語で墓碑銘を意味する「エピタフ”epitaph”」の語があり、墓碑銘を刻むという風習が古くからある。日本ではせいぜいが戒名を彫り込んだ墓碑で、辞世の句ないし歌をしたためるという風習はあっても、墓碑に刻むのは一般的ではない。

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 西欧の墓碑銘は、必ずしも偉人の業績を書き記すという狙いではなく、一般的な故人を家族など縁者がしのぶ意味で刻まれることが多い。故人が生前に記したものから、後世の人が考えたものなど様々だが、その文面は含蓄のあるものが多い。>欧米の墓碑銘

 

*「けちん坊の墓」ここに眠る男は薬代のために小銭を出すのを渋り、そして命を失った。彼にもう一度生き返ってほしいと思うが、そしたら彼は葬儀代がいくらかかるか心配することだろう。

 

 誰が考えたか知らないが、墓碑にこんなことを書かれたくなければ、自分で生前に墓碑銘ないしは辞世の句ぐらいは、したためておこう(笑)